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第一部 四季姫覚醒の巻

第二章 伝記進展 8

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 病院の外に出てからも、榎は機嫌がよく、気持ちがうきうきしていた。
「その表情から察するに、初めての福祉体験は、うまくできたみたいどすな?」
 榎の様子を隣で観察していた周も、満足気に笑った。
「うん、思っていたものとは違ったけれど、楽しかった。委員長、あたし福祉部に入部するよ。また来たいからさ」
「気に入ってもらえて、なによりどす。これからも、よろしゅうお願いしますな」
 榎は周と握手を交わした。
「福祉部は現地解散なんで、このままお家に帰って大丈夫どす。私、家が右のほうですんで」
 病院の門までやってきて、周が説明した。他の生徒たちは既に帰宅したらしく、誰も見当たらなかった。
「あたしとは逆方向だね。今日はありがとう、また来週、学校でね」
「はい。ほなまた、来週」
 周に手を振って別れ、榎は寺の方角へ帰ろうと踵を返した。
 病院の庭を囲んでいる外壁の側を道沿いに歩いていると、壁にもたれかかって腕を組んでいる奏と遭遇した。
「あなた、お帰りは左の方角?」
「はい、家が向こうなので」
「わたくし、駅まで直通のバス停までいきますの。途中までご一緒させていただいても、よろしいかしら?」
「もちろん、いいですよ」
 二人で並んで、歩き出した。
 道を進むにつれて、榎のこめかみに、じわりと汗がにじんできた。歩き疲れて出てきた汗ではない。気まずさから浮かんできた、脂汗だった。
 病院を出て、田舎道をひたすら歩き続けて、早五分は経っていた。
 それまでの道のり、奏との間には何一つ、会話がなかった。
 ちょっと変わった性格の人だとは思うが、榎は奏が苦手ではない。もちろん、椿と同じく、少し小柄で、とても女性らしい人だから、隣を歩いていると緊張もした。だが、交流相手として不満はなかった。
 雰囲気も決して悪くなく、不本意ながら、榎の身の心配もしてくれた。どちらかというと親しみの持てそうな人だと、榎は感じていた。
 うまく声が掛けられずに、不穏な空気が広がっている理由は、奏がずっと前を見たまま、膨れっ面で歩き続けているからだ。
「奏さん。何か怒ってます?」
 かなり勇気を振り絞って、榎は重苦しい沈黙を破った。
 榎の問い掛けに、奏は足を止めて、初めて榎に向き直った。
「怒らずにいられますか! さっきのお兄様の、冷たい態度ったら!」
 奏は河豚ふぐみたいに、頬を思いっきり膨らませて、顔を真っ赤にしていた。榎は勢いに押されて、思わず体をのけ反らせた。
「外面ばかり良くって、他所の人には、にこにこと愛想笑いを振り撒くくせに、わたくしには冷たい言葉をぶつけてくるばかり! お兄様は、わたくしを何だと思っているのかしら、たった一人の妹ですのよ!?」
 奏は、病室での綴の態度に不満を持って、ずっと怒っていたらしかった。
 溜め込んでいた不満を、榎めがけて一気に吐き出し、息を切らせて肩を震わせていた。
 榎は奏を宥めながら、注意深く観察した。大人びて、お高くとまって見えるけれど、とても熱心で真面目な人なのかもしれない。しかも、兄に構ってもらえなくて拗ねるなんて、意外と可愛い人だ。榎は急に親近感が湧き、笑みが込み上げてきた。
「奏さんは、綴さんが大好きなんですね」
 榎が笑って言うと、奏は眉根を寄せて、目を細めた。
「大好き? とんでもございませんわ! わたくしは妹として、当然の主張をしているだけです。兄ならば、妹をもっと大事にすべきだと思いませんこと!?」
 気丈に振る舞っているが、榎の発言は図星だったらしく、奏は動揺して声が震えていた。白い顔に朱が走り、耳まで真っ赤になっていた。
「綴さんだって、奏さんをすごく気にしていると思いますよ」
「どこがですの!? 側にいたって、わたくしなんて眼中にもなくて。……わたくしには、笑いかけてくださった記憶すらありませんのよ」
 奏は泣きそうな表情をで、俯いた。
「兄弟の間で愛想笑いなんて、悲しいですよ。綴さんだって、奏さんとの関係を大事に考えているから、冷たく当たるのかもしれません」
「どうして、お兄様の気持ちが、あなたにお分かりになるの?」
「なんとなく、うちの兄に似ている部分があるから、ですかね。たった一人しかいない妹だから、大事にしてくれているんだと思うんですけれど、妹の側からすれば、その贔屓が物足りなく思えたり、不満に変わったりするんですよね」
 榎には、奏の気持ちが良くわかった。榎も小さい頃、年の離れた兄――いつきに、あまり遊んでもらえなくて、不機嫌になっていた時期があった。
 樹は、落ち着いていて優しい。榎は兄達の中で、樹が一番好きだった。
 だが、樹との間にはどこか距離があると、ずっと感じてきた。
 樹の、他人や両親、兄弟たちへの接し方と、榎に対する接し方に違いがあるなと思った経験は、幾度もあった。違うと気付く度に、不公平さを感じていた。榎は女の子だから、気を遣ってくれていたのかもしれないが、たまには他の兄たちみたいに、腹の立つちょっかいも、かけてほしかった。
 奏もきっと、昔の榎と同じ気持ちを抱えているのだと、伝わってきた。
 榎と同じく、大人びた兄がいて、大好きなんだけれど、どこか距離があって。望む態度で構ってもらえない現実が、とても寂しい。優しくしてもらえなくて、怒りを湧き上がらせる奏の姿が、名古屋で、家族みんなで暮らしていたときの榎の姿と重なって見えた。
「あなたにも、お兄様がいらっしゃるのね」
「はい。名古屋に、五人います」
 榎の返答に、奏は表情を引きつらせた。
「五人も!? 大所帯ですわね。……わたくし、五人も増殖したお兄様なんて、考えるだけで鳥肌が立ちますわ。ああ、恐ろしい」
 奏は自身の体を抱きしめて、嫌そうな顔をして身震いをした。
「増殖って……。まったく同じコピー人間がいるわけじゃないですからね? 一人ひとり性格も見た目も違うし。あたしが話している人は、一番上の兄だけですよ」
 なにやら、奏が間違った妄想をしているなと気付き、榎は訂正を加えた。
「想像がつきませんが、家族が多いというのも、楽しそうですわね。あなたとお話できて、少し気分がすっきりしましたわ。ありがとうございます」
 奏は未だによく分かっていなさそうだったが、やっと、榎に美しい笑顔を見せてくれた。
「お役に立てたなら、何よりです」
 榎も安心して、笑い返した。
 再び、二人並んで足を動かし始めた。しばらく歩いていると、ふと思い出した様子で、奏が口を開いた。
「気になっていたのですけれど。榎さん、あなた京都へいらしてから、何かお困りになりませんでした?」
 突然尋ねられ、榎は言葉の真意を読み取れず、不思議に思った。
「お困りにって、具体的にどういった?」
「例えば以前、財布をお落としになられた時と同じく、金銭面でお困りになったり」
 榎は奏と出会った時の記憶を蘇らせ、納得した。貧乏神に取り憑かれ、榎の周辺でお金に関するトラブルが起こっていたときの、一連の出来事を思い起こした。
「お世話になっている家で、少しありましたけれど。元を断ったので、無事に平和が戻りました」
「元を断ったって、まさか、あの貧乏神をお祓いになったの!?」
 奏の口から、貧乏神の名前が出てくるなんて。驚いて尋ねてきた奏の言葉に、榎も驚愕した。
「奏さんにも、貧乏神が見えていたんですか?」
 尋ね返すと、奏は大きく頷いた。
「ええ。京都駅で、あなたにつきまとっていましたから。電車の時間が迫っていたので、うっかり忠告してさしあげるのを忘れましたの。今日、再開してみたら、貧乏神の姿がきれいさっぱり消えていましたので、いったいどうしたものかと」
 奏にも、妖怪の姿が見えていた。榎の心臓が大きく高鳴った。
 前に、月麿が説明していた。基本的に、ほとんどの人間には妖怪は見えないと。
 妖怪が見える人間は、妖怪を倒す退魔の力を持つもの――陰陽師かもしれないと。
「あなたも、妖怪が見えるのですわね。しかも、わたくしと同様、祓えるなんて」
 続いて放たれた奏の言葉に、榎はさらに驚いた。
「祓えるって、まさか奏さんも、退魔の力を持っているんですか?  陰陽師なんですか!?」
 榎は夢中で奏に食いついた。榎の反応に奏は少し驚いていたが、すぐに落ち着いて頷いた。
「伝師は、平安時代より続く陰陽師の家系なのですわ。世代が移り変わり、力はかなり衰えていますけれど。わたくしは先祖の力を濃く受け継いだらしく、妖怪と少しは渡り合える力を持っているのです」
「伝師って……ああっ、どっかで聞いた記憶があると思ったら、麿が言っていた……!」
 榎は思い出した。確か、月麿が平安時代にいた頃、仕えていた陰陽師の名前が、伝師だったと思いだした。
 榎の前世である四季姫もまた、伝師の一族だったと聞いた。
 伝師の一族の血を引く奏は、四季姫に最も近い立ち位置にいる人間だと言える。
「あら、伝師の名をご存知ですの? まあ、一部の業界では、有名ですものね」
 榎が伝師の名前を知っていて意外そうだったが、奏は当然といわんばかりに、自慢げに胸を張った。
「有名なんですか? 伝師って」
「ええ。昔から時代の頂点を担ってきた権力者たちに力を与えたり、妨害する妖怪を祓うなどして、地位や財産を築いてきた家系ですから。わたくしも小さいながら、ちょっとした事業をやっておりますのよ」
 奏は胸のポケットから、白い名刺を取りだして、榎にさしだした。受取った榎は、名刺をまじまじと見つめた。
「妖怪祓い師、伝師エレオノール奏……?」
 名刺にはポップな書体で奏の名が書かれていた。間に妙な横文字も入っているが、書かれた名前が奏を指している事実は、間違いなさそうだった。
「お祓いのお仕事、ですか?」
「そうですわ。要請があれば現地へ赴いて、妖怪のせいで苦しんでいる人々にお力を貸していますの。相応の対価と引き換えにね」
「高校生なのに、もう商売を。すごいですね」
 榎は納得すると同時に、少し尊敬もした。
 陰陽師とは、本来は役職であり、商売だった。平安時代には、高価な金品や絶対的な地位と引き換えに、金持ちや身分の高い人たちを妖怪の悪意から守って富を得た人達もいたという。榎みたいに、ただ個人的な目的で妖怪退治をする立場とは、大きく違った。
 少し、戸惑いが生まれた。奏は妖怪が見えるし、倒せるらしい。条件としては、とても四季姫に該当しそうだが、明らかに榎より進んでいて、レベルが高い気がした。
「あなた、どうかしら! わたくしと手を組みませんこと? 妖怪を退治できるもの同士、力を合わせれば、もっと大きく事業を拡大できますし、より多くの人を救えますわ!」
 榎よりも先に、奏が話を切りだしてきた。榎の手を握り、嬉しそうに微笑んでいた。
「いや、あたしは、お金目的でやっているわけではないし……」
 共に戦えるのならば嬉しいが、あまりにも目的が違いすぎた。榎はまだ中学生だし、妖怪退治はボランティアみたいなもので、人からお金をとるなんて、恐れ多くて、できそうになかった。
「商売だからと、難しく考える必要はありませんわ。肝心な部分は、妖怪を倒して、困っている人を救えるかどうかですもの」
 奏の言葉が、榎の心を強く打った。
「困っている人を救えるかどうか……。そうですよね、あたしも同じ気持ちです」
 元々、榎みたいに妖怪に苦しめられて、辛い思いをしている人達を少しでも助けられたら、という気持ちから始めた妖怪退治だった。共通の目的と、同じ力を持つ奏に対して、遠慮も引け目も感じる必要はないと、思い直した。
 月麿には、まだまだヒヨッコだと馬鹿にされてばかりの榎だが、妖怪だって沢山、退治してきたし、神通力で交信もできた。きっと、榎も充分な実力を兼ね備えているはずだ。
「奏さん、一緒に戦いましょう! 世の中を平和にするために!」
「決まりですわね。明日の午前中、町内の無人寺で妖怪退治を行いますの。よろしかったら、榎さんもご同行してくださいな」
 微笑みかけてくる奏に、榎も笑顔を返した。
「是非とも! よろしくお願いします!」
 明日の段取りを話しながら盛り上がっているうちに、奏の目的地のバス停へ辿り着いていた。丁度、バスも到着したところだ。
「今日はお別れですわね。また明日、楽しみにしていますわ」
 バスに向かって駆けていく奏を、榎は期待に溢れた気持ちで見送って、帰路についた。
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