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第一部 四季姫覚醒の巻

第四章 悪鬼邂逅 1

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 20XX年、六月初期。
 京都の空を、厚い雨雲が覆っていた。
 薄暗い早朝。霧雨が降る山の中で、夏姫――榎は、しっとり濡れた纏め髪を揺らしながら、剣を振るっていた。
 相手は、〝あめふらし〟と呼ばれる、その名の通り、雨を降らせる力を持つとされる妖怪だった。同じ場所に居続けると、その地に延々と雨をもたらし、洪水や地滑りの原因を作り出す、危険な存在として、恐れられていた。
 本来は気圧の変動に合わせて、各地を転々と移動しながら雨を誘導していく妖怪らしいが、今は長らく、四季が丘町に居座っていた。
 妖怪を統べる妖怪――宵月夜によって、召集されているためだ。
 宵月夜は相変わらず、巨木の枝の上に腰をかけ、高見の見物を決め込んでいた。側近の烏の妖怪、八咫も、側にいた。
 縦に長細い、泥の塊みたいな姿の下等妖怪、あめふらしは、肉体の構造が曖昧で、剣で切りつけても、ほとんど、手応えがなかった。どこが急所なのかも分からず、榎は手当たり次第に攻撃し続けた。
 わずかな手応えだけを頼りに、榎は何度も何度も、剣で薙いだ。
 体力は奪えているらしく、少しずつだが、あめふらしの動きが鈍くなってきていた。
 同様に、榎の動きも、徐々に切れが悪くなっていった。
 榎の顔や髪、四季姫の装束は、雨と湿気、汗などで、びっしょりと濡れている。そのせいで、機動力が大幅に削がれて、いつもの小回りの効いた俊敏な動きが、できなくなっていた。
 十二単は、その名の通り、十二枚もの色違いの着物を重ねて羽織る、平安時代の高貴人の装束だ。完璧に着重ねると、その重みは二十キロにも及び、本来ならば山中を走り回るなんて、とうてい不可能な格好だと言えた。
 だが、四季姫に変身した時の榎の着物は、不思議と重さを感じなかった。なので普段は、服装を重荷だと感じずに、自由に走り回れた。
 それでも、流石に空気中に帯びた湿気や雨を着物が吸って、平常時より動き辛い。肌に吸い付く着物の感触も、気持ち悪かった。
 着物の重さに耐えかねた榎が動けなくなるか、あめふらしが倒れる時が先か。榎の心中に、焦燥が湧いていた。
 ある剣戟を境に、体力の消耗に限界がきたらしく、あめふらしは一定の場所に止まって、動かなくなった。
「椿、妖怪が弱った。今なら倒せるよ!」
 榎はすかさず、付近の茂みで戦いを補助していた、春姫――椿に、指示を送った。椿は笑顔で、頷いた。
「任せて。――〝鎮魂の調べ〟」
 椿は横笛を唇に当て、美しい音色を奏でた。
 春姫の繰り出す技は、音に関係したもので、横笛の発する響きによって、聴いた相手へ様々な影響をもたらした。
 標的に対して癒しの波動を送れば、傷を消し、体力を回復できた。対して、敵となる妖怪へは、退魔の力を放って眠らせたり、錯乱させるなど、バリエーションも豊富だった。力の及ぶ領域も、音色が聞こえる限りと広範囲で、力の弱い下等妖怪であれば、消滅もさせられた。
 退魔の笛の音に晒されたあめふらしは、鈍い音を発しながら悶絶し、地面に溶けて消滅した。
「ばっちりだよ、椿!」
「えのちゃんのお陰よ。ありがとう!」
 榎と椿は、手を叩き合って喜んだ。
 椿と一緒に戦い始めて、まだ日が短い。椿にできるだけ戦いの流れを掴んでもらうために、普段は補助に徹してもらい、止めを任せていた。
 榎の意を汲んで、椿は細やかな動きで、見事な戦いっぷりを見せてくれた。よいチームプレイだと、榎は満足していた。
 二人は、いとこ同士だし、血の繋がりもあってか息が合いやすいのかもしれない。
「宵月夜さま。四季姫たち、二人に増えて、さらに強くなっておりまする……」
 そんな榎たちの姿を見ながら、木の枝に止まっていた八咫は、困り果てた声を上げた。
 八咫は嘴を開けたまま、すぐ隣に目配せをした。八咫と並んで木の枝に腰掛けていた宵月夜も、苛立った表情で、榎たちを見下ろしていた。
「下級の妖怪では、太刀打ちできなくなってきたか。そろそろ、中級の連中を召集しなくちゃならねえな。面倒だ」
「奴らは、ちょっとやそっとの命令では、腰をあげませぬからな。骨が折れます」
 宵月夜も八咫も、梅雨空と同じくらい、どんよりしていた。
「はーい。春姫、質問があります!」
 連中のやり取りを、地上で聞いていた椿が、挙手した。
「宵月夜さんって、妖怪の親玉で、すーっごく強いんでしょ? どうして、手下に戦わせてばっかりで、あなたは何もしないの?」
 椿は率直な疑問を、宵月夜にぶつけた。宵月夜は眉を顰めて、椿を睨み下ろした。
「確かに。宵月夜が滅茶苦茶強いんなら、たった一人でもあたしたちを全滅させるくらい、訳もないはずだよな。あたしたちは困るけど」
 榎も、椿の考えには同感だった。榎たちは、宵月夜がとても強いというから、頑張って修行して、仲間を集めているわけだが、宵月夜たちの側からすれば、榎たちに強くなられては、困るはずだ。
 四季姫が完全に覚醒する前に、榎たちを倒してしまえば、何も問題がないはずなのに、なぜ回りくどい方法で戦いを挑んでくるのか。なぜ、実力で押し切って、榎たちを倒しにこないのか。言われてみると、疑問だった。
 榎の脳裏に、ふと、痛々しい考えが浮かんだ。
「お前、ひょっとして、すっごく弱かったりして……?」
 思わず、口に出してしまった。宵月夜のこめかみが、痙攣して見えた。
「貴様らー! 宵月夜さまを愚弄する発言、許しておけぬー!」
 真っ先に、八咫が怒りを露にした。だが、八咫は宵月夜に首根っこを掴まれて、脇へ避けられた。
「離れていろ、八咫。いいだろう、四季姫ども、望み通り、今すぐ楽にしてやる」
 周囲の青葉が、ざわついた。木陰に隠れていた小鳥たちが逃げ出し、風が激しくなってきた。
 榎は背筋に強烈な寒気に襲われ、足が竦んだ。濡れた肌に、冷たい風が凍みるせいではない。明らかに、宵月夜の妖力に対して、本能的に悪寒を覚えていた。
 椿も、宵月夜の気配の変化を感じ取ったらしく、怯えて榎の腕にしがみついてきた。
 宵月夜の、内側から溢れ出る強い妖気が、榎たちを突き刺していた。
「なりませぬ、宵月夜さま。無闇に力を解放しては!」
 八咫が怯えた様子で、宵月夜を止めに掛かった。
「一瞬ならば、問題ない」
 宵月夜は八咫の制止を押し退けて、何らかの術を、榎たちに行使しようとした。榎は反射的に剣を構えたが、柄を握る手が、震えていた。
 直後。妙な威圧感に襲われた。空気が重く、息苦しく感じた。
 宵月夜がさっきまで放っていたものとは明らかに違う気配が、周囲に漂い始めた。
 宵月夜と八咫も、同じものを察したらしく、動きを止めて妖力を抑えこんだ。
「何だ、この妙な感じは?」
 榎は、周囲を見渡した。視界には、変わったものは何も映らない。だが、謎の気配は確実に、上から下へと、重い空気みたいに、降りてきた。
「いかん、奴ら・・に気付かれましたぞ、宵月夜さま。今日は引きましょう!」
 八咫が必死で、宵月夜を促した。その慌てぶりは、普段、榎たちにやられて逃げていくときとは、比にならなかった。
 宵月夜は無言で八咫に従い、素早くその場を離脱。深い山奥へと飛び去っていった。
 妖怪たちが、気配と姿を消すと同時に、よく分からない妙な気配も、綺麗に消えてなくなった。
 榎と椿は、互いに腕を掴み合いながら、呆然と周囲を見回していた。
「何だったのかしら? さっきの変な感じ」
「分からない。……乗っちゃったあたしも悪いんだけどさ、宵月夜は挑発しないほうが、良さそうだね」
 宵月夜本人の秘める力も、普段は押さえ込んでいるだけで、やっぱり恐ろしいものらしい。更に加えて、宵月夜とは別の、何か大きな力が、辺りで蠢いている予感もした。
 あまり無茶をして、榎たちの知らない部分に刺激を加えるべきではないと、榎は確信した。
「ごめんなさい。椿も少し、怖かったわ」
 椿も頷き、今日の出来事を、互いに反省しあった。
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