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第一部 四季姫覚醒の巻

第八章 秋姫対峙 5

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 榎は急いで、四季が丘病院へ向かった。
 受付の前で、奏と遭遇した。綴の見舞いに来た帰りらしい。
「榎さん、ごきげんよう。夏休みですのに、わざわざお兄様に会いに来てくださったの?」
 奏は申し訳なさそうに、榎にお礼を言った。榎も恐縮して、頭を下げた。
「顔色がよろしくないわね。暑さに、やられたのかしら。水分と塩分補給は、忘れてはいけませんわよ」
 少なからず顔に出た、榎の日々の心労が、見透かされたのだろうか。榎の顔を見て、奏は心配そうにしていた。発想は独特だが、知的で勘の鋭い人だ。
 了生のお陰で、先刻までと比べれば、気持ちもかなり晴れていた。榎は笑顔で、大丈夫だとアピールした。
 奏は、まだ疑った顔をしていたが、すぐに微笑んでくれた。
「お兄様、最近はとても機嫌がよろしいの。なぜだか教えてくれませんけれど、珍しく楽しそうにしていらっしゃって。少し、元気を分けてもらうといいですわ」
 綴は、元気にしているのか。何よりだった。
 奏と分かれて、榎は綴の病室へ向かった。
 病院内は適度に冷房が効いていて、夏バテとは無縁の世界だ。綴のいる個室も、快適な環境が保たれていた。
 榎の来院を受けて、綴は本当に嬉しそうに迎えてくれた。
 確かに、普段よりも血色がいいし、テンションも高い。
 綴が元気だと、榎も嬉しかった。落ち込んでいた榎の心まで、温かくなった。
「榎ちゃん、おめでとう。ついに、四季姫が全員、揃ったんだね」
 だが、綴がご機嫌に放った一声が、榎の表情を凍りつかせた。
「……ご存知、でしたか」
「断片だけだけれど、夢で見たんだ。よかったね、ようやく、大きな使命が果たせるわけだ。僕の書く、君の物語も、とても盛り上がってきたよ」
 綴は不思議な力を持っていた。眠っている間に、その時間に別の場所で起こっている出来事を、夢に見る。ただ、その映像は断片的で不鮮明だから、うまく話の流れが掴めない。
 綴は、榎の夢を頻繁に見るのだそうだ。だから、榎の正体も知っている。四季姫の使命に興味を持ち、秘密を共有していた。
 綴は作家さんだ。榎は著作を読んだ経験はないが、よく夢に見た事件などを物語に膨らませて、作品を書いているらしい。四季姫の戦いも、物語にしたいと言って、榎から情報を得ていた。
 ようやく四季姫が全員揃い、お話が面白い方向へ進められそうだから、綴は大喜びだった。
 榎からの新しい情報を心待ちにして、機嫌を良くしていたのだと気付いた。
 その最後の一人――秋姫について、綴に相談に来たのに。期待に溢れた笑顔を向けられると、苦しい現実を切り出す勇気は湧かなかった。
「秋姫は、どんな娘(こ)だい? 性格や、戦い方は? 今までみたいに、詳しく教えてもらえるかな?」
 メモ帳と万年筆を手に、楽しそうに尋ねてくる。
 綴に悪気がないなんて、百も承知だ。
 夢も、ほんの触りしか見ていないのだろう。萩の残虐な姿を知っている様子は、微塵も感じられない。事実を知れば、どんな反応をするだろう。
 綴が期待して、榎の話を待ち焦がれる姿を見ていると、榎の心は引き裂かれそうになった。
 こんな雰囲気の中で語れる話なんて、一つもない。榎は、首を項垂(うなだ)れた。
「ごめんなさい、何も、分からないんです。あたしが、教えて欲しいくらいなんです……!」
 振り絞って出した声と一緒に、大粒の涙まで溢れてきた。ずっと溜め込んでいた我慢が、一気に爆発した。
 綴は驚いた顔で、手からメモと万年筆を落とした。
 場の雰囲気が、一気に悪くなった。いけない。綴が困る。迷惑が掛かる。
 でも止められなかった。涙だけでなく、嗚咽まで出てきた。
「……何があったのか、話してくれるかい? どんな話でもいい、榎ちゃんの考えを、全部」
 榎の手を取り、心配そうに、でも冷静に、綴は尋ねてくれた。落ち着いた大人の対応は、やっぱり兄の樹と良く似ている。
 榎は何度も言葉を詰まらせながら、洟水(はなみず)を啜(すす)りながら、今までの経緯(いきさつ)を必死で説明した。
 萩の圧倒的な力に打ちのめされた話。仲間として一つに纏まれず、四季姫が分離してしまった話。そんな事態を、何一つ収拾できない、情けない現状――。
 綴は黙って相槌を打ち、榎の背中を擦(さす)りながら、辛抱強く、聞いてくれた。
 次第に、榎の苦痛が綴にも感染(うつ)ったみたいに、綴の表情が歪み、青褪めていった。
「なにが、いけなかったのかな。どうすれば、よかったのかな。あたしが、もっと頑張っていれば、違う結果になったのかな。いろんな人の意見を聞いて、たくさん考えたけれど、答がでないんです。だから、綴さんに、秋姫がどんな人間かなんて、教えてあげられない……!」
 榎は、萩について何も分かっていない。だから説明なんて、できるはずもない。
 綴の役にさえ立てない。榎は本当に、無能で最低な人間だ。
「あたしは、大事な仲間の気持ちさえ受け止められない、駄目な奴なんです。なのに、人のために妖怪を倒そうなんて、生意気な口を叩いて、調子に乗って……」
 今までに溜め込んでいた、いろんな悪い感情が、一気に溢れ出てきた。
 心の中さえ、何も整理できていない。内面の問題の解決さえ、儘ならない。
 こんな、優柔不断で身勝手な性格だから、萩は心を開いてくれないんだ。みんな、愛想を尽かして榎の前からいなくなるんだ。何もかも、うまくいかないんだ。
 結局、榎には何もできない。誰の役にも立てない。
 綴もきっと、こんな榎には幻滅するはずだ。もう、関わりたくないと、匙を投げるはずだ。
 病院に来て、榎は後悔した。やっぱり、樹と綴は、似ていても全然違う。
 綴までもが、榎を見放すかも、と思うと、怖かった。
「すいません、綴さん、病気で大変なのに。あたしの愚痴なんか、聞いている場合じゃないのに。ごめんなさい、忘れてください。もう、帰りますから……」
 悔やんだって、起こした出来事は、もうなくならない。
 でもせめて、榎と、綴の記憶から消えてくれないだろうか。切に願った。
 榎は綴の手を振り解き、立ち上がった。頭が朦朧とした。倒れてしまいそうだった。
 むしろ、倒れてしまいたかった。意識も何もかも吹き飛ばして、何も考えなくてもいい世界へ、逃げてしまいたかった――。
 頭が真っ白になった瞬間。
 体を引き戻され、暖かいものに包まれた。
 榎は、綴に抱きしめられていた。
 綴の、白く細い腕が、榎の背中を覆う。優しい力で、頭を掴んでくる。
 頬と頬が、擦れ合う。綴の頬は血色が悪く、痩せているけれど、暖かかった。榎の頬は、もっと熱くなっていた。
 震える口で、名前を呼ぼうとしたが、声にならなかった。
「どうか、泣かないで。君が苦しんでいる姿を見ると、とても、いたたまれなくなる……」
 消え入りそうな声で、綴は囁いた。榎の肩から、力が抜けた。
 心臓の鼓動が、頭の中で、がんがん響く。何も、考えられなくなった。
「榎ちゃんの夢を見たり、戦いの様子を教えてもらう度に、ずっと考えていた。とても厳しくて、苦しい戦いなのかもしれない、と。君たちみたいな、普通の女の子が背負うべき使命としては、あまりにも重すぎるのではないかと。本当は、止めるべきだと何度も思っていた」
 榎を包み込む、綴の手が震える。指先に力が入り、榎の短い後ろ髪を、ぐしゃりと握る。
「けれど、夢に見る、戦いに身を投じる君の姿は、とても輝いて、生き生きしていた。妖怪に傷つけられても、諦めずに何度でも立ち上がって、仲間と力を合わせて、最後には勝つ。目的を達成したときに見せる、笑顔がとても魅力的だった。あの笑顔が、いつまでも見られるのならと、僕は現実から目を逸らしていた。――榎ちゃんの気持ちより、僕の欲求を優先してしまったんだ」
 榎は、呆然とした。
 綴は、いつも榎の戦う姿を夢に見ながら、榎の戦いの様子を聞きながら、そんな考えを持っていたのか。
 初めて、綴の心中を垣間見た。表情や会話からは絶対に読み取れない、綴の心の声。
 想像していたよりもずっと弱々しく、薄いガラスみたいに脆かった。
「ごめんよ。僕は、本当に無力だ。榎ちゃんのために、何もしてあげられない。ずっと、夢の中で、君の姿を追い続けて、何もかも理解した気になって満足していた。君は敗北をものともしない、強い娘なのだと、勝手に思い込んでいた。君の苦しみに気付いてあげられなかったなんて……。最低だ、僕は」
 綴も、泣いていた。
 榎の心境に気付かず、楽観的な話を振った綴自身を、責めている。
 普段から、こんなにも心配されていたなんて。綴の気持ちさえ、榎は分かっていなかった。
 申し訳なく思った。胸が、締め付けられた。でも、嬉しくて、暖かかった。
 綴は榎よりも、榎について、正しく見抜いていた。榎さえ気付いていなかった、榎の本質を、ちゃんと分かってくれていた。
 ブレていた心の芯が、まっすぐに戻った気がした。さらに、硬くなった気がした。
 勇気が沸いてきた。まだ、強くいられる。この人のために、誰よりも、強くありたいと思えた。
 今までの判断は、間違っていなかったと信じられた。
 榎は、綴の背中に腕を回した。ゆっくりと、抱き締め返した。
「綴さん、ごめんなさい。あたしは、綴さんからも、逃げようとしていました」
 骨ばった、細い肩に顔を埋め、榎は言葉通り、綴に縋(すが)りついた。
 現実から逃げるためではない。甘えるためでもない。
 ――感謝するために。
 やっと、分かった。最初から、難しく考える必要なんて、なかった。
「悩んで、迷って、愚痴を吐くなんて、あたしらしくなかったです。綴さんは、ちゃんと見ていてくれたんだ。あたしが見失っていた、本当のあたしを」
 強引に涙を手で拭い、榎は笑った。綴は少し呆然としていたが、次第に、緊張を解していった。
 榎は、そう簡単にへこたれる性格ではない。
 敗北をものともしない、強い娘――。綴の言う通りだ。
 甘えている場合ではななかった。榎は立ち上がれる。この足は動く。前へ進める。
「まだまだ、頑張れそうです。綴さんが、教えてくれました」
「本当に? 無理をしているのでは……」
 心配してくる綴に、榎は首を横に振って見せた。
「していませんよ。絶対に、何とかなります。でないと、ストーリーが続かない、でしょう?」
 榎は笑顔を浮かべた。いつぞや、仲間が見つからなくて悩んでいた榎に、綴が放った台詞を、鸚鵡(おうむ)返しした。
 立ち止まっていても、何も進展なんてしない。物語を未来へ繋げるために、できることをやるだけだ。
 榎の台詞を聞いて、綴も噴き出した。
「榎ちゃんらしさが、戻ったね。よかった、元気になってくれて」
「綴さんのお陰です。あたしがどうあるべきか、思い出させてくれた。ありがとうございます」
 互いに身を放し、額を重ね合わせた。気持ちを落ち着けて、乱れた呼吸を整えた。
 榎は目を閉じる。気持ちが、すうっと、軽くなった。
「……ちゃんと、見ているよ。君の勝利の物語を、僕は描きたい」
 榎は頷いた。側にいなくても、綴は見てくれている。榎は一人ではない。もっと、頑張れる。
「今度は、楽しいお話を、たくさん持ってきます。綴さんとずっと、笑って話せるように」
 もう、榎の頭の中に、諦めの文字はなかった。
 道なんて見えなければ、足場を固めて作っていけばいいだけだ。壁が立ち塞がれば、かち割って進むまでだ。
 誰もが無理だと分かっていても、負けても倒れても。しつこく立ち上がって、行き着くところまでいくしかない。
 それが、榎なんだ。
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