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第二部 四季姫進化の巻

第十四章 春姫進化 15

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 十五
 椿の体を包み込んだ光は、徐々に膨張して、辺り一帯を覆い尽くした。
 眩しさが和らぐと共に、椿の頭の中に、言葉が浮かんでくる。
「奢り高ぶる愚者よ、地に平伏せ。――〝玄武げんぶ囚獄しゅうごく〟!」
 生暖かい、激しい風が吹き荒れた。まるで巨大な蛇の如く、風が圧縮して太い縄みたいに纏まって、うねっていた。
 風が止むと、椿と朝、さらに悪鬼は、周囲から隔離された不思議な場所に立っていた。
「なんだ、この妙な空間は……」
 悪鬼が動揺を見せる。椿たちのいる場所は、先刻までと変わっていない。だが、巨大なドーム状の形をした、薄桃色の半透明の壁の中に、閉じ込められていた。壁には幾何学的な六角形の図形が敷き詰められている。まるで、亀の甲羅みたいだと思った。
 地面に突き刺さっていた悪鬼の触手が力を失い、ぐにゃりとへしゃげる。使い物にならなくなった触手を、悪鬼は舌を鳴らしながら手元に戻した。朝も椿の隣で、不思議そうに辺りを見渡している。
「ようこそ。春姫の、下剋上の世界へ」
 静かに、椿は悪鬼に向かって微笑んだ。
「どうなっているんだ? また、椿たちが閉じ込められた」
 榎が慌てて駆け寄ってくる。だが、薄透明の壁は榎たちを受け入れず、完全に外界との空間を遮断していた。
「蛇の尾を持つ巨大な亀――玄武と呼ばれる霊獣どす。春姫はんの使える、禁術なんでしょうな。変わった術どすが……こないな空間を作って、何か勝機はあるんどすか?」
 楸は薄桃色の亀の甲羅部分に触れながら、冷静に椿の起こした術を冷静に分析していたが、この後に何が起こるのか分からずに、首を傾けていた。
「いくら禁術やいうても、悪鬼と一緒に閉じ籠るなんて、無茶やで!」
「椿! 加勢するよ。この中から、出られないのか?」
 みんな、椿を心配して助けようとしてくれる。
 だが、椿には分かっていた。禁術が発動した以上、誰の力も借りる必要はない、と。
 むしろ、この力は椿でなければ使いこなせないのだと。
「大丈夫よ。この空間は、春姫の術の中なんだから」
 強気にみんなを言い包めて、椿は悪鬼と真正面から向き合った。
「馬鹿馬鹿しい! 最弱の四季姫よ、そんなに死にたければ、すぐに楽にしてやろう!」
 閉じ込められた空間の不気味さや、椿の余裕を含んだ言動に苛立ちを覚えたらしい。悪鬼は触手を鞭みたいに撓らせ、椿めがけて振るってきた。避ける暇もなく、触手は激しい音を立てて、椿の顔面を直撃した。
 周囲から、悲鳴が飛ぶ。
 だが、激しい攻撃を受けたにもかかわらず、椿は吹き飛ばされもせずに、悠々と同じ場所に立っていた。顔に、痛みも衝撃もない。少し、頬に傷を受けただけだった。
「何だと!? 我の技を受けたのに、掠り傷が付いただけ!?」
 悪鬼は動揺する。慌てふためく姿を見て、椿は微かに笑った。
「言ったでしょう? この空間の中は、春姫が作った下剋上の世界。力の作用が、通常とは真逆なの。つまり、外の世界で強い者ほど弱くなり、弱い者ほど強くなるのよ」
 椿の説明に、悪鬼は唖然としていた。
 だが、だんだんと分かってきたらしい。表情が歪み、体が硬直していた。
「強い奴が弱くなって、弱い奴が強くなる……? まるで、なぞなぞだな」
「要するに、目の前にある妙な空間の中におる限りは、普段は戦力としては活躍できん椿はんが最強である、という理屈どすな」
 悪鬼の中で最も強いと豪語する力の持ち主と、四季姫の中で最も弱いと嘲られていた春姫。お互いのもたらす力の影響が反転した空間がもたらすものが何か、みんな理解したはずだ。
 この空間に閉じこもっているうちは、椿は絶対に、この悪鬼に負けない。
 いや、誰であっても敗北なんてないかもしれない。
 椿の戦闘力のなさは、折り紙付きだ。
「弱い者が強くなるだと!? そんな馬鹿な話が、あってたまるか!」
 本来ならば一捻りで倒せてしまう相手に圧倒されるなんて、悪鬼にとっては、とてつもない屈辱だろう。現状を、真っ向から否定し続けていた。
「じゃあ、本当にあなたが弱くなったか、試してみる?」
 現実を受け入れない悪鬼に向かって、椿はにっこりと笑いかけた。
 椿は笛を握りしめ、軽い足取りで悪鬼に駆け寄った。
「えいっ!」
 ぴょん、と両足でジャンプし、笛の先端で悪鬼の頭を軽く小突く。
 その刹那。攻撃を受けた悪鬼の頭が激しく歪み、一気に地面に崩れた。さらに、悪鬼の体は頭上からの衝撃に耐えられず、地面にめり込んでぺしゃんこに潰れた。
 さらに、倒れ込んだ悪鬼の頭を、足の指先で軽く蹴り上げる。ほとんど力を入れていないのに、悪鬼は頭上に勢いよく吹き飛んだ。天井の壁にぶつかって、再び地面に激突した。
 いつも戦いのときには、みんなの後ろで補助に回るだけの役回りだった椿が、先陣を切って悪鬼と戦っている。誰の力も借りずに、一人で悪鬼にダメージを与え続けている。信じられない光景だ。
 少し怖くなったが、同時に気分良くもあった。
 椿みたいに弱い存在でも、確実に戦える、勝利を得られる場所がある。分かっただけで、自然と口の端が綻んだ。
「マジかい……。ありゃ、反則技やろ」
「椿、強すぎなんだけど……」
「どえらい力どすな。恐ろしいもん、見てしもうたどす」
 椿が、力にものを言わせて戦う姿を初めて見た三人は、完全に硬直していた。
 とてつもない光景を目の当たりにしたと、榎と楸は立ち竦む柊の後ろに隠れて、体を震えさせていた。
 地面に倒れ伏した悪鬼は、満身創痍になりながらも、まだ起き上がろうと腕を動かしていた。
 力の差は、歴然だ。だが、諦める気はないらしい。
 空間を覆う桃色の壁が、少し薄くなってきた気がした。椿の体からも、徐々に力が抜けていく感覚がする。
 きっと、椿の持つ神通力の量と比例して、空間は存在しているのだろう。無限に存在し続けるものではなさそうだ。
 悪鬼が解放される前に、決着をつけたい。椿は笛を口の前で構えた。
「もう一つ。春姫の檻の中では、退魔の音色も強くなるの」
 椿の構えを見て、悪鬼の体が硬直した。本能的に、危険を察知したのだろう。
「朝ちゃん、耳を塞いでね。側で聞いたら、あなたも危ないわ」
 椿は、背後で座り込んでいる朝に声を掛けた。朝もみんなと同様に、椿の戦いっぷりを見て呆然としていたが、我に返ると慌てて耳に両手を当てた。
 その姿を見届けて、椿は笛に息を吹き込んで、音を奏でる。普段は下等妖怪くらいにしか効果がない退魔の調べだが、今だけは違う。
 桃色の亀に包まれた空間の中で、その音色が及ぼす影響は、何十倍、何百倍にも増幅されていた。
 空間が震える。地面も、突き上げるように揺れていた。
 その音の波動を、真っ直ぐに目の前の悪鬼にぶつけた。攻撃を食らった悪鬼は、頭を抱えて身悶えはじめた。
「頭が割れるぅ! こんな小娘のどこに、こんな恐ろしい力が……!」
 慌てて耳を塞ぐが、音の波は悪鬼の体内に直接作用し、苦しみを与え続けている。
 春姫の作った空間の中にいる限り、逃げ場などない。
「我が、敗れるというのか! 深淵の悪鬼の中で、最も強く偉大な我が……!」
「その強さが仇になったわね。何が本当に強いかなんて、戦ってみるまで分からないものよ」
 最期だ。
 椿は笛に吹き込む息に、力を込めた。
 耳をつんざく、けたたましい断末魔の悲鳴を上げて、悪鬼の身体が引き裂かれた。黒い霧状の浮遊物となり、しばらく辺りを漂っていたが、やがて、塵みたいに分散した。
 恐ろしい悪鬼は、気配もろとも姿を消した。
「悪鬼を、倒してもうたで……」
「すごいな、椿……」
「ひょっとしたら、四季姫最強かもしれませんな」
 壁の向こうで呆けている三人に向かって、椿は笑顔で腕を突き出し、ブイサインを作って見せた。三人は表情を引き攣らせて、笑っていた。
 敵を倒し終えると、椿が作り出した空間は、霧散して消滅した。同時に、物凄い疲労感が椿を襲った。
 さっきまで全身に漲っていた力が、ごっそりと奪われた。
 禁術は四季姫の内に秘められた強大な力を引き出せるが、その分、発動時に身体にかかる負担も大きい。
 普段の体力状態で禁術を発動していたら、椿の生気はすべて、術に持って行かれていたかもしれない。
 とても有用な技だが、使い所は考えなければならない、と実感した。
 今回は、朝が椿に力を分け与えてくれたお陰で、無事で済んだ。
 気持ちを落ち着けて、椿はゆっくりと、朝に顔を向ける。
 朝はまだ座り込んで、悪鬼が消滅した場所を眺めていたが、椿の視線に気付いて顔を上げた。
「朝ちゃんの命は、朝ちゃんが幸せになるためにあるのよ。簡単に捨てようとしないで。とても、大切なものなんだから……」
 複雑そうな表情で椿を見つめている朝に、静かに言葉を投げ掛けた。
 朝の表情が、少し穏やかになった。伏し目がちに、口を開く。
「僕の幸せは、あなたが幸せになってくださることです」
 椿の幸せのためなら、命さえ投げ捨てようとする。朝の考え方は、とても危険だと思った。
 今までの生き方や、周りから教え込まれた存在意義が、危険な考えを起こさせるのかもしれない。
 でも、もう、そんな呪縛に縛られ続ける必要はない。分かってもらわなくてはならない。
「椿は、朝ちゃんがいなくちゃ、幸せになれないわ。楽しい気持ちでなんて、過ごせないわ」
 椿は、心の中で纏めた気持ちを、ゆっくりと伝えた。朝はしばらく黙り込んでいたが、やがて、微かな笑みを浮かべた。
「すみませんでした。あなたも大概、無茶をなさる人だと、忘れていました。一人で放っておいたら、何をしでかすか分からない。――あなたがこの世で生きている限り、僕も生き続けます。最後まで、皆さんの戦いを、見届けたいです」
 朝の中にある、本音を聞けた気がした。きっともう、朝は椿のために無茶なんてしない。椿は安堵した。
「椿は我儘だし、すぐに思い込んで突っ走っちゃうから、酷い言葉をぶつけて、嫌な思いさせるかもしれないけれど、また椿が間違った道に進もうとしたら、側にいて、止めてください……」
 素直な言葉が、意識しなくても勝手に出てきた。朝はずっと、椿の話に耳を傾けてくれた。
「僕も、一度思い込むと抑制が効かなくなる性格です。僕では、椿さんを引き留めるだけの力は、ないかもしれません」
 やがて、自信なさそうに、朝は言葉を紡いだ。また、愛想を尽かされたのかと、不安になった。
 でもすぐに、違うと分かった。
「ですから、また僕が一人で暴走しかけたら、どうか、打ってでも止めてくださいますか」
 今まで、何でも一人で解決しようとしてきた朝が、初めて、椿を必要としてくれた。
 互いの悪い部分は、互いに補い合っていけばいい。椿はまた、朝に甘えすぎていたのだと気付いた。
 椿の瞳から、涙が滲みでる。
 俯きがちに、何度も何度も、頷いた。
 体力をつけるより先に、心を強くしなければと、実感した。
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