アポリアの林

千年砂漠

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1  家出少年  その1

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 波の音が聞こえる。
 心の奥底にある不安を掻き立てるのと同時に、帰るべき所へ帰り着いたような安堵感も覚える、魂の根源に触れる音だ。
 しかし実際はあれはただ木々の枝葉が風に弄られている音だと晴彦はるひこは知っていた。
 潮の匂いは確かにするので海は近いのだろうが、防風林らしき林の中には高いフェンスがあり、海岸線には近づけなかった。
 どこかにフェンスを越えられそうな所はないか探し歩いたが、潮風に古びた金網は冷徹に侵入を拒んだ。
 疲れ果ててフェンスを背に座り込んだ晴彦は、胸をざわめかせる音を聞きながら、閉じた目の裏の闇に暗い色の海を思い浮かべた。

 生命の起源は海だという。
 太古の海で生まれた有機物が四十数億年という計り知れない長い年月をかけて、多種多様な生き物へと進化した。
 人間もその進化の成れの果ての一つだが、その身体は今も海とつながりを持つ。
 一分間に海岸に打ち寄せる波の数と人の一分間の呼吸数は等しく、十八。
 人の平熱はその倍の三十六。脈拍はさらに倍の七十二。血圧の上限は百四十四。
 いつだったか理科の授業で余談として聞いた。

 海の中から生まれ、陸で生きる選択をしてもなお、未だに海を内包している生物。
 だからなのだろうか、今こんなにも海が恋しいのは。

 空腹で朦朧とする頭に浮かぶのがもはや食べ物ではなく海であるのは、本能が時を遡って海に還りたがっているからなのかもしれない。
 死が現実味を帯びて意識に上って来た今だからこそ。
 四十数億年かけて進化した人間という種類に生まれて、たった十五年で海へ還ることを望む皮肉に、晴彦は苦笑する。
 が、表情を変えるほどの力はもう残っていなかった。
 こんな人気のない林の中では誰かの助けなど期待できない。混濁する意識を失えばそのまま死に至るかもしれないが、それでも良かった。

 死ぬために家出したつもりではなかったが、どこかで生きて行けるとも思っていなかった。頼る人もなく金もないではいずれはこうなると予想できないほど馬鹿ではない。
 それでも手持ちの金が尽きた時、家に連絡しようとは思わなかったのは無意識の内に覚悟があったからかもしれない。
 書置き一つ残さない家出だった。
 そもそも計画的ですらない。
 朝いつものように登校しようとして、学校が見えた辺りで足が止まり、それ以上前に進めなかった。
 だから方向を変えてバスターミナルへ行き、バスに乗った。制服のまま、行く先の地名も見ずに。
 学生カバンは早々にどこかの河原に投げ捨てた。携帯電話は連絡がつかないようにわざとゲームで電池を消費して電池切れにした後はポケットに沈めてある。
 持っていた金のほとんどはバス代に消えたので、食事はコンビニのパンと公園の水。
 見慣れない制服の中学生がひと所に長く居ては目立つので、昼間はどこへともなく歩いた。夜は拾った段ボールと新聞紙に包まって、橋の下で寝た。

 何がしたい訳でも、どこかに行きたい訳でもない。
 元居た所から逃げたかっただけの放浪の日々は短かった。
 汚れた制服や髪をコンビニの店員に怪しまれるより先に金が尽き、そこで初めて海へ行こうと思い立った。

 空腹を堪えて海のある街まで歩いた。
 街の案内図では、防風林を抜けた先に砂浜の海岸があるはずだった。が、どうやら海岸に下りられる道の入り口を間違えたらしく、林の中の自分の身長の倍の高さのフェンスに阻まれた所でうろついているうちに体力と気力の限界を迎えた。
 刻一刻と日が暮れていく暗い林の中で、もう声を上げる事もできない。これで雨でも降れば一気に体力を持って行かれるだろう。
 そうでなくても強い風が体温を奪い命を削る。自分はここで誰にも知られず、汚れてゴミのような姿で死ぬのだ。
 この期に及んでも、見知らぬ場所で一人死ぬかもしれない恐怖より、あの日常へ戻らなくて済む喜びの方が強かった。

 不意に、木々をざわめかせていた風が止んだ。

 突然の、空白を思わせる不気味な静けさに、虚ろになりかけていた意識が引き戻された。
 音の無くなったそこは、空気の重さまで変わった。どんよりと粘りつくように重く感じられ、フェンスに凭れていた背中に強い寒気を感じた。
 身体をどうにか捻って重い瞼をわずかに開くと。

 自分の肩の上に少女の顔があった。

 驚きの声の代わりに、水分不足で乾ききった喉から引きつった息が漏れた。
 よく見ると、フェンスの向こう側にいる五、六歳くらいの少女が金網を挟んで晴彦の肩越しに覗き込んでいるのだった。
 少女は音もなく晴彦の傍を離れた。
 彼女の姿を追って、晴彦はさらに身体をずらすようにしてフェンスの内側を見ると、無音の林の中、少女は晴彦の方を向いて立っていた。
 すでに暗い林の中に溶け込みそうな黒髪は綺麗に切りそろえられたおかっぱ(今はショートボブというのだと後に教えてもらった)で、着ている赤いワンピースは場違いのように艶やかに見えた。

 何故女の子がこんな所に一人でいるのか。
 どうやってフェンスの向こう側へ入ったのか。

 思考の鈍い頭でもいろいろ疑問は湧いたが、何より気になったのは、その子から何の感情も見受けられないことだった。
 表情も声もなく、晴彦を見ている。
 が、視線には温度を感じない。
 人形と向かい合っているような気分だ。
 瞬きもせず晴彦を凝視していた少女は唐突に背を向け、フェンスの奥へと歩き去った。
 姿が見えなくなってしまえば、彼女が今そこにいたことが幻ではなかったのかと思えるほど、現実感がなかった。

 晴彦は再び目を閉じた。
 あの子は誰かを呼びに行ってくれたのだろうか。
 そう考えたことで、晴彦は自分が生を完全には諦めていないと知る。
 まだ自分は生きたいのだと自覚すると、あの子が幻だったのではないかと疑うのが怖かった。少女が実在で、助けを呼びに行ったと信じたかった。

 程なく、誰かが走って来る足音が聞こえた。
「君! 大丈夫か!」
 大人の、男性の声だった。
「どこか痛い所は?」
 触れられた肩に優しい温かさを感じ、薄く目を開ける。もう辺りは暗く、その人の顔はよく見えなかった。
「すぐ救急車を」
 その言葉に逃げて来た現実を思い出し、晴彦は残った力の全てを振りしぼり首を振った。
「……いやだ」
 病院に運ばれれば家に連絡が行く。
 あの日常に、地獄に連れ戻されてしまう。
「かえ……り……たく……ない」
 言葉より先に涙がこぼれた。身体の苦痛のせいではなく、自分の希望に対しての絶望感からだ。
 今まで周囲の誰一人、擁護も理解もしてくれなかった。何の事情も知らない、関係もないこの人が、自分の望みを受け入れてくれるはずがない、と。
 しかし。
「今、痛かったり苦しかったりする所はある?」
 僅かな沈黙の後、晴彦の肩に手を添えたその人が問いかけて来た。
「見たところ傷もないし、熱もないようだ。どこが辛い?」
「さむい……おなか……すいた」
 一番正直な苦痛を伝えると、彼は大きく頷いた。
「それなら家に来なさい。今から丁度夕食だから」
 汚れた制服の晴彦を彼は厭う様子もなく背負ってくれた。
 また波の音が聞こえた気がしたが、それはやはり木々のざわめきだと分かっていた。
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