アポリアの林

千年砂漠

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8  久住由紀子  その1

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 携帯電話の着信音が鳴ったのは、由紀子ゆきこが一人きりの夕食を終えた直後だった。
 一人息子の着信に設定した『トライメライ』だ。待ち望むあまりの空耳かと疑ったが、着信を知らせるライトも点滅している。
 震える手で携帯を掴んだ途端、予想できる様々な展開が頭に浮かんだ。
 電話してきたのが家出した息子本人だとは限らない。捨てられていたのを拾った誰かがメモリーに入っているこの番号に悪戯でかけて来たか、善意で落とし主を探す手掛かりにかけて来たか。
 それならばまだいい。息子を預かっているから金を出せという要求でもこの際ましだ。
 最悪なのは、身元不明の少年の変死体がこの携帯を所持していたのだがという警察からの問い合わせだ。
 それでも希望は捨てきれず、由紀子は電話に出るなり息子の名を呼びかけた。
「晴彦? 晴彦よね? 晴彦なんでしょう?」
 電話の向こうで息を飲む音が微かに聞こえ、
「……お母さん」
 母親なら決して聞き違える事のないわが子の声を耳が捉えて、涙が溢れた。


 息子の晴彦が酷いイジメに遭っていると知り、抗議に出かけた学校では無能な担任教師に馬鹿にされた応対をされ、相談した夫には教育の仕方が悪いと詰られ喧嘩になり、家を飛び出した。
 が、行く所もなく隣町の実家に帰った。
 夫婦喧嘩をして家を出て来たと泣く娘を心配した母が実家に居る事を夫に連絡したようだが、夫は迎えには来なかった。

 翌日は体調不良を理由に仕事を休んだ。
 夫に対しての怒りはまだ胸にあったが、晴彦のために家に戻ろうかと考えていた夕方、夫から電話がかかってきた。
 晴彦が学校を無断欠席していると学校から連絡がきたという。
 慌てて学校に電話すると、担任から朝から登校していないと聞かされた。
「どうしてもっと早く連絡してくれなかったんですか」
「しましたよ。でも、お宅に何回かけても留守電でしたし、お仕事先に連絡したら今日は体調が悪くてお休みされていると言われて」
「じゃあ携帯にかけてくれればいいじゃありませんか」
 学校には両親への緊急連絡先として携帯の番号は提出してある。
「病気なら病院へ行かれて、携帯の電源は切っていると思って」
 真剣に連絡を取る気のない言い訳に、怒りよりもうんざりした気分になった。
 とにかく晴彦の携帯に連絡してみた。が、電源が切られているらしく繋がらなかった。
 急いで家に戻ると、さすがに夫も帰って来ていた。二人で手分けして晴彦が行きそうな場所を探し、連絡を取りそうな人の所へも電話してみたが、どこにもいなかった。

 午後七時まで晴彦が帰ってくるのを待ったが連絡すらなく、捜索願を警察に出した。
 晴彦がいなくなった経緯を話すと、イジメを苦に自殺の恐れがあるとすぐに捜索を開始してくれた。
 警察から学校へ連絡が行き、事情を聴くためか警察署に学年主任と担任が呼ばれて来た。
 やはりと言うか、担任は学年主任にイジメの報告をしていなかった。担任はイジメの事実を確認していないから報告しなかったと言い逃れしようとしたが、担当クラスの、しかもイジメで悩んでいるらしいと親も相談に来た生徒が無断欠席をしていることを夕方まで両親に連絡しなかったのは無責任だと担任を叱りつけてくれて、胸がすく思いがした。
 学年主任は自分にはイジメの報告がなかったと言い訳しながら校長に連絡を取り、指示を仰いだ。
 それによって担任がクラスの生徒たちに電話して聞いて回ると、一人の生徒が「朝、バスターミナルの方へ歩いていく晴彦を見たと部活の友達が言っていた」と証言した。
 そこからは警察が調べてくれた。
 晴彦は高田町のバスターミナルから隣の県へ向かうバスに乗ったらしい。
 終点の藤森市の市駅前まで乗っていて降りた後、近くのコンビニで買い物をしたところまでは追えたが、その先の行方は知れなかった。

 それから三日間、新しい情報はない。
 警察から公開捜査の打診をされたのに、夫が大事にしたくないと拒んだからだ。広く情報提供を呼びかけた方がいいと言っても、夫は聞く耳を持たなかった。
 無能担任は日に一回、夕方に晴彦の安否を尋ねる電話をかけて来た。おそらく学年主任に言われたから嫌々なのだろう熱意のない様子伺いに腹が立って、
「面倒くさそうに晴彦の事を訊かれるのは不愉快ですから、もう電話しないでください」
 怒鳴りつけると、本当にそれきり電話してこなくなった。

 晴彦の行方が心配で食事は喉を通らず、警察が言うようにどこかで自殺していたらと想像すると夜もろくに眠れない。
 病院で導眠剤を処方してもらったが、眠ると悪夢を見て余計体力を消耗した。こんなにも心身共に疲弊したのは生まれて初めてだった。
 当然仕事などできる精神状態ではなく休みたかったが同僚に迷惑がかかるし、家のローンを支払うためにも働かなければならなかった。
 何とか出勤し仕事していたが無理が重なって職場で倒れ、上司にだけは事情を打ち明けた。上司はとても同情してくれて何かあったらいつでも力になると言い、暫く仕事は休むことにした。

 赤の他人でもこんなに優しいのに、夫は冷淡だった。
 平然と仕事に行き、帰るのはいつもと変わらず夜遅くだ。こんな時こそ寄り添い合い、支え合うのが夫婦なのに慰める素振りもない。晴彦の話も一言もしない。むしろ避けている。
 二人きりになった家で会話は途絶えた。普段夫とどんな話をしていたのか、思い出せない。ということは大した話はしていなかったのだ。意味のある話をしたことがあるのかさえ疑わしい。
 晴彦が心配で疲れ果てた心身で遅くまで帰って来ない夫を待つのが嫌で、夜は早々に晴彦の部屋に布団を敷き、夫とは別に寝るようにした。それにも夫は何も言わなかった。

 思い返してみると夫はいつも勝手で、強引だった。
 つき合い初めから現在に至るまで、何でも自分一人で決めて押し付けて来て、こちらの言うことは聞いてくれず、結局最後は押し切られてこちらが諦めるの繰り返しだったような気がする。
 それでもそれなりに平穏で幸せな家庭だと思っていたのは、幻想だった。
 男らしく活動的な夫は独善的な薄情者で、大人しく優しい息子は友好な人間関係を築けず果てに家出する問題児。
 長所は実際以上に増幅して見て、短所は都合のいい解釈をして目を逸らしていた。これが現実だ。

 真実と向き合わなければ夢を見ているのと同じ。そして、もう目は覚めた。
 一度夢から覚めれば、同じ夢は二度と見られない。

 だから、これが夢だと言わないで。

 晴彦の無事を願う心が見せる夢だとは。
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