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33 防風林の中の少女 その1
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機嫌の悪そうな井川に話しかけるのを遠慮して、小宮はわざと数歩遅れて林の中の道を歩いた。
肩越しに振り返ると、羽崎の家は木々に阻まれもう見えなくなっていた。
周囲に人家もないこんな寂しい林の奥で、一人暮らししている羽崎の気が知れない。
自分も孤独に強い方だが、ここまで人気のない場所に一人で住むのは耐えられないだろう。
作家という人種はまともそうに見えてもやはりどこか変わっているのか。見かけはどこにでもいそうな普通の男だったが。
羽崎について思い返して、小宮は妙な感覚に気付いた。
世間では実在を疑問視されている小説家、羽崎薫。
その彼に会い、さっきまで会話していた。なのに、その実感が薄いのだ。
――自分と同じ世界にいないような……映画の中の登場人物って感じ
不意に原田の言葉が甦り、それに近い気がした。
小宮はこれまでの人生で俳優や歌手など作品を通して存在を知る人間は数限りなくいたが、本当の意味で実在を意識したことはない。
それは多分彼らと実際に会って話をしたことがないからだ。
彼らの存在は小宮の生きているフィールドから遠過ぎて、直接的な影響がない。
だから実在でも架空でも関係なく、あえて実在を意識する必要もなかった。彼らが実はビジュアルは人工合成の創作で、曲などの作品もプログラムされたコンピューターが作り上げた物だと言われたとしても「そうだったのか」と思うだけだろう。
小説家も自分がいる世界とは別の世界で生息している生き物のように思っていたから、実際に会っても現実味を感じられないでいるのかもしれない。
ペガサスとか人魚に会ったようなものかと考えると、少し笑える。
フェンスとその向こうに停めた車が見え、井川が車のキーを探してコートのポケットを探った。
「ん、こっちのポケットじゃなかったか」
鍵を探して反対側のポケットを探る井川から何となく視線を外して林の奥を見た小宮は、ぎくりと身体を強張らせた。
遠く木々の間に赤いワンピースの少女の姿が、一瞬見えたのだ。
見間違い、だと思う。
しかし足はもうそちらに動きだしていた。
「おい、小宮! どこに行く!」
「すいません! 先に車に戻っててください!」
返事を返しながら、早足から賭け足になる。少女らしい色彩を見た辺りまで道のない林の中を急いだ。何故か写真に写っていたあの少女だと思った。
目印にしていた樹の辺りに来て、小宮は周りを見回した。
当然のように少女の姿はなかった。念のためその辺の木々の裏まで覗き込んで見たが、誰もいなかった。
考えてみればこの冬の最中に、子供がワンピース一枚の姿で歩いている訳がない。やはり見間違いだったのだ。
引き返そうと振り向いた――その目の前に。
少女がいた。
悲鳴を上げなかった自分を褒めてやりたい。
喉まで出かかった声を飲み込んだ拍子に、息まで止まった。
周囲の音全て、風の音までが消え失せた気がした。
五、六歳くらいのおかっぱ頭の少女が瞬きもせず小宮を対峙している。
が、視線が合わなかった。
身長差のせいではない。小宮の方を向いているのに、瞳に像を映していないのだ。
黒く澱んだ沼のような少女の瞳は光を欠片も弾かない。
冬風に赤いワンピースの裾がそよぐ。
おかしい。
『赤いワンピースの少女がいる』しか認識できない。
目の前で見ているのに、ワンピースの形が分からない。
チェニック風なのか、胴周りを少し絞った形なのか。膝下寸なのか、ミニなのか。
顔もどこかで見たような、初めて見るような。
脳に『赤いワンピースの少女』と記号化されたものがインプットされた以外、何一つ具体的な認識ができない。
――見ているのは目ではなく、脳なんです
脳が、拒否しているのだ。
『赤いワンピースの少女』以上の情報を取り込むのを。
君は誰なんだ。
問いたいのに、口が強張って動かない。
声の出し方を忘れたように、荒い呼吸ばかりが吐き出される。
駄目だ。この子を見ていては駄目だ。
本能が強く警告する。
危険だと警報が鳴り響いている。
これ以上見続ければ――引き込まれてしまう。
「小宮! どうした!」
怒鳴り声が聞こえ、小宮は弾かれたようにそちらを振り返った。
「――井川さん!」
走って来る井川を見て、小宮は泣き声に近い声を上げた。
「どうした!」
「……この子が……この女の子が」
恐い。
言いかけて、止まる。
今まで少女が立っていた場所には誰もいなかった。
立っていた気配も跡もなく、白い小石がひとつ転がっているだけだった。
「はあ? 何だって?」
聞こえなかったのか乱暴に問い返されたが、その方が幸いだった。
今ここに写真に写っていた少女がいたと言えば、信じてもらえないばかりか頭の心配をされそうだ。
立ったまま白石を拾う動作で体を折って顔を隠し、密かに深呼吸した。さっきより動揺が治まったのを確かめてから、声を出す。
「……あの……野良犬がいたようだったので」
声に震えはなかった。普段通りの話し方ができ、安堵した。
追いかけたが見失ったと言うと、井川は盛大にため息をついた。
「何だよ。そんな事でいきなり走り出したのか。驚くだろうが」
「井川さん犬が苦手だって言ってたので……もし本当に犬がいたなら、こっちに寄って来ない内に俺が先に追い払おうかと」
「苦手とは言ってない。嫌いなだけだ」
「同じことですよ」
井川は顔をしかめ、「もういい。帰るぞ」と顎をしゃくった。
林の中を引き返しながら、小宮は自分の足が震えているのに気づく。恐怖がまだ身体に残っている証拠だった。
それでも井川には気づかれずに済んだ。
ヒョウ介とあだ名されるくらい感情が顔に出ない自分の性質をこれ程良かったと思った時はなかった。
肩越しに振り返ると、羽崎の家は木々に阻まれもう見えなくなっていた。
周囲に人家もないこんな寂しい林の奥で、一人暮らししている羽崎の気が知れない。
自分も孤独に強い方だが、ここまで人気のない場所に一人で住むのは耐えられないだろう。
作家という人種はまともそうに見えてもやはりどこか変わっているのか。見かけはどこにでもいそうな普通の男だったが。
羽崎について思い返して、小宮は妙な感覚に気付いた。
世間では実在を疑問視されている小説家、羽崎薫。
その彼に会い、さっきまで会話していた。なのに、その実感が薄いのだ。
――自分と同じ世界にいないような……映画の中の登場人物って感じ
不意に原田の言葉が甦り、それに近い気がした。
小宮はこれまでの人生で俳優や歌手など作品を通して存在を知る人間は数限りなくいたが、本当の意味で実在を意識したことはない。
それは多分彼らと実際に会って話をしたことがないからだ。
彼らの存在は小宮の生きているフィールドから遠過ぎて、直接的な影響がない。
だから実在でも架空でも関係なく、あえて実在を意識する必要もなかった。彼らが実はビジュアルは人工合成の創作で、曲などの作品もプログラムされたコンピューターが作り上げた物だと言われたとしても「そうだったのか」と思うだけだろう。
小説家も自分がいる世界とは別の世界で生息している生き物のように思っていたから、実際に会っても現実味を感じられないでいるのかもしれない。
ペガサスとか人魚に会ったようなものかと考えると、少し笑える。
フェンスとその向こうに停めた車が見え、井川が車のキーを探してコートのポケットを探った。
「ん、こっちのポケットじゃなかったか」
鍵を探して反対側のポケットを探る井川から何となく視線を外して林の奥を見た小宮は、ぎくりと身体を強張らせた。
遠く木々の間に赤いワンピースの少女の姿が、一瞬見えたのだ。
見間違い、だと思う。
しかし足はもうそちらに動きだしていた。
「おい、小宮! どこに行く!」
「すいません! 先に車に戻っててください!」
返事を返しながら、早足から賭け足になる。少女らしい色彩を見た辺りまで道のない林の中を急いだ。何故か写真に写っていたあの少女だと思った。
目印にしていた樹の辺りに来て、小宮は周りを見回した。
当然のように少女の姿はなかった。念のためその辺の木々の裏まで覗き込んで見たが、誰もいなかった。
考えてみればこの冬の最中に、子供がワンピース一枚の姿で歩いている訳がない。やはり見間違いだったのだ。
引き返そうと振り向いた――その目の前に。
少女がいた。
悲鳴を上げなかった自分を褒めてやりたい。
喉まで出かかった声を飲み込んだ拍子に、息まで止まった。
周囲の音全て、風の音までが消え失せた気がした。
五、六歳くらいのおかっぱ頭の少女が瞬きもせず小宮を対峙している。
が、視線が合わなかった。
身長差のせいではない。小宮の方を向いているのに、瞳に像を映していないのだ。
黒く澱んだ沼のような少女の瞳は光を欠片も弾かない。
冬風に赤いワンピースの裾がそよぐ。
おかしい。
『赤いワンピースの少女がいる』しか認識できない。
目の前で見ているのに、ワンピースの形が分からない。
チェニック風なのか、胴周りを少し絞った形なのか。膝下寸なのか、ミニなのか。
顔もどこかで見たような、初めて見るような。
脳に『赤いワンピースの少女』と記号化されたものがインプットされた以外、何一つ具体的な認識ができない。
――見ているのは目ではなく、脳なんです
脳が、拒否しているのだ。
『赤いワンピースの少女』以上の情報を取り込むのを。
君は誰なんだ。
問いたいのに、口が強張って動かない。
声の出し方を忘れたように、荒い呼吸ばかりが吐き出される。
駄目だ。この子を見ていては駄目だ。
本能が強く警告する。
危険だと警報が鳴り響いている。
これ以上見続ければ――引き込まれてしまう。
「小宮! どうした!」
怒鳴り声が聞こえ、小宮は弾かれたようにそちらを振り返った。
「――井川さん!」
走って来る井川を見て、小宮は泣き声に近い声を上げた。
「どうした!」
「……この子が……この女の子が」
恐い。
言いかけて、止まる。
今まで少女が立っていた場所には誰もいなかった。
立っていた気配も跡もなく、白い小石がひとつ転がっているだけだった。
「はあ? 何だって?」
聞こえなかったのか乱暴に問い返されたが、その方が幸いだった。
今ここに写真に写っていた少女がいたと言えば、信じてもらえないばかりか頭の心配をされそうだ。
立ったまま白石を拾う動作で体を折って顔を隠し、密かに深呼吸した。さっきより動揺が治まったのを確かめてから、声を出す。
「……あの……野良犬がいたようだったので」
声に震えはなかった。普段通りの話し方ができ、安堵した。
追いかけたが見失ったと言うと、井川は盛大にため息をついた。
「何だよ。そんな事でいきなり走り出したのか。驚くだろうが」
「井川さん犬が苦手だって言ってたので……もし本当に犬がいたなら、こっちに寄って来ない内に俺が先に追い払おうかと」
「苦手とは言ってない。嫌いなだけだ」
「同じことですよ」
井川は顔をしかめ、「もういい。帰るぞ」と顎をしゃくった。
林の中を引き返しながら、小宮は自分の足が震えているのに気づく。恐怖がまだ身体に残っている証拠だった。
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