アポリアの林

千年砂漠

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35  防風林の中の少女  その3

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 羽崎から預かったCDを持って帰ってしまったと小宮が気づいたのは夕食の後だった。
 一人暮らしのアパートの帰りつくと、疲れと空腹で面倒臭さが勝りコートもカバンもベッドの上に放りっぱなしにしていた。食事後それを片づけようとして、コートのポケットに石を入れたままだったのとCDをカバンに入れっぱなしだったのを思い出したのだ。
 すぐに井川に謝りの連絡を入れると、大して参考になるものではないから明日持ってくればいいと言われた。

 風呂に入り、缶ビールを三本空けた後、小宮は例の写真をもう一度見てみようと思い立った。
 酔いが回って気が大きくなったせいもあり、本当に写真に少女が写ってなかったか確かめたくなったのだ。

 カバンからCDケースを出してパソコンデスクの上に置くと、コートのポケットに入れたままだった白い石を取り出してCDケースの上に置いた。
 置いてから、自分ながら妙なことをすると不思議に思った。
 何故そんなことをしたのか自分でも分からなかった。が、石を置いた瞬間、軽く目眩を感じたので、酔いによる意味のない戯れだったのかも知れない。
 しかし、今日の自分は明らかにおかしい。
 三十年近く生きて来て、幻覚を見るなど今日が生まれて初めてだった。

 自殺してしまった少年が残した写真の素晴らしさと彼の犯した罪の重さに大きなギャップを感じて動揺してしまい、そのせいで在りもしないものを見てしまった気になったのだろうか。
 それならもう一度ちゃんと見直して、写真に少女の姿はないと納得すれば、もうおかしな幻は見ないはずだ。

 四本目の缶ビールを飲みながら、画面に映し出された晴彦の写真を一枚ずつ順に改めて見直すと、やはり自分の好みに近い気がした。
 空に浮かぶ雲の形、木々の間から差し込む光の角度、晴彦が美しいと思うものを撮った瞬間を小宮もまた美しいと思う。
 見ていて心地良い写真が多かった。
 羽崎の言葉ではないが、こんなに美しいものを見ていた少年が、何故あんな惨い事件を起してしまったのだろうか。何があって、その心を闇に沈めてしまったのか。
 考えながら無意識に切り替えた画面に例の写真が映し出された。

 林の奥に、赤い色。

 小宮は息を飲んで、写真に目を凝らす。
 ぼやけた映像でははっきりと確認できないが、人の、少女の後ろ姿に見える。

 やっぱり写っている写真はあったじゃないか。羽崎のパソコンは調子が悪くて、映像が飛ばされたか、上手く出てこなかっただけだったのだ。
 あの林の中の少女も、この写真から無自覚に影響を受けて見た幻だったのだ。
 そもそも幽霊の類を小宮は信じていない。
 幽霊が本当にいるなら、自分たち刑事が足を棒にして歩き回って捜査したりしない。幽霊が自分を殺したのはこいつだと指させば済むことなのだから。今回の事件にしても、晴彦本人から動機を聞けばいいのだ。
 本当に、聞けるものなら聞きたい。

「……何故なんだよ、晴彦」

 酔いのままに疑問を呟き、ため息をついた。
 写真を見ても動機につながるものは写されてはいないとは思うが、一応最後までもう一度確認してみようとマウスをクリックして件の写真から次の写真に切り替えた――はずが。

 同じ写真が画面に映る。

 マウスが壊れたのかと何度かクリックを繰り返したが、画面に映るのはあの写真だ。
 いや、同じ写真ではない。少女の姿と位置が僅かに違っている。

 どういうことだ。これは連続写真ではなかったはずだ。
 それに少女は一番奥の樹の横にいたのに、クリックする度に少女の位置が手前に動いている。

 おまけに少女は振り返ろうとしている。

 何だ、これは。

 小宮はパソコンを終了させようとした。が、出来ない。
 小宮の操作を無視して、画面は勝手に切り替わりながら写真の少女を手前に移動させ、振りかえらせようとしている。

 前触れもなく部屋の照明が消えた。

 停電――ではない。パソコンは起動していて、真っ暗な部屋の中の唯一の灯りになっていた。
 引きつりそうな声を飲み込んで、小宮は電源を切った。
 それでも画面は写真を映し続ける。少女は服の質感が分かるほど近づき、もう横顔になっていて目鼻立ちも分かる。

 林で会った少女だった。

 恐怖に耐えきれず小宮は叫び声を上げて立ち上がり、パソコンのプラグ抜いた。

 瞬間、声が。

 パソコンからでなく、頭の中に直接響く。

 ――知りたいか?

 画面には正面を向いた少女の全身がはっきり写っていた。

 視線が少女に縫いつけられる。
 目を逸らせたいのに逸らせられない。
 無表情の白い顔に光のない黒い瞳。
 何も映さないと思えたその目と。

 視線が合ってしまった。

 ――正しき作法にあらぬが、細きえにしを繋ぎし者よ。知りたければ見せてやろう。この者の魂の記憶を。その代わりなれの『時』をもらう。良いなら頷け

 良いも悪いもない。頷く以外の選択肢を考えられなかった。
 小宮が頷くと視界が暗転した。

 ――同調し過ぎると絡め取られる。用心せよ

 落ちていく感覚を長く味わいながら、途中で小宮は意識を失った。


 寒さに目覚めると布団もかけずにベッドに横になっていた。
 部屋の電気もエアコンも点けっぱなしで、ぼやけた目線を枕元の時計に向けると午前一時を過ぎたところだった。
 身体を起すと、部屋のテーブルの上にビールの空き缶が四本置いたままになっていた。
 酒を飲んで、そのまま寝てしまっていたのか、とまだ酔っているらしい頭でぼんやり考えかけて、不意に水を浴びせかけられたように背筋が冷え、目が覚めた。
 違う。酒は飲んではいたがそのまま寝てはいない。パソコンで晴彦の撮った写真を見ていたはずだ。
 そして写真の、林の中の少女が――。
 小宮はベッドから飛び降りて、パソコンを置いた机に向かう。
 パソコンは電源が落とされていた。が、プラグは抜かれてはいなかった。CDは捜すまでもなく、パソコンの横にケースに入れて置いてあった。その上には林で拾った白石が乗っている。
 小宮は茫然とそれらを見る。

 夢、だったのだろうか、あれは。
 夢なら、どこからが夢だったのだろうか。晴彦の写真を見間違えた時か。林の中で少女を見たのが始まりか。
 そもそも久住晴彦という少年が事件を起したということ自体が夢ではないのか。
 だったら、今この瞬間も夢でないと言い切れるのか。

「……馬鹿か、俺は」

 自分はまだ酔っている。だからまともな考えができないのだ。
 小宮は思考を放棄して、エアコンを止めて照明を消しベッドに潜り込んだ。
 眠ろうと思う間もなく、小宮の意識は目蓋の裏の闇に溶けて消えた。
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