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50 久住晴彦 その7
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晴彦が昼過ぎに羽崎宅を出て自宅に着いたのは、午後五時を過ぎた頃だった。
家に帰る途中にあるスーパーで、刺身用の鯛と出刃包丁と刺身包丁を買った。
家の玄関で母に出迎えられ、泣かれた。買ってきた魚と包丁を見せて「羽崎さんに魚の捌き方を教わったから刺身をごちそうするよ」と言うと、また泣かれた。
持って帰った荷物を二階の自室に置いてリビングに戻ると、母は晴彦の好きなハンバーグを焼いていた。
「お母さん、ハンバーグが焼けたら、僕が刺身を作るよ。だからその間にお父さんのためにお風呂の用意をしてあげて」
母は喜んで、ハンバーグを焼いた後風呂掃除に行った。
晴彦はシンクの上に出されていた牛刀を右手に握り、取り落とすことがないようにタオルで手に縛り付けると風呂場に向かった。
母はバスタブの掃除をしていた。
晴彦が近づくと振り返り、おそらく「何?」と問いかけようとしたのだろう。しかし母の口から声が出る前に、脇腹を刺した。
躊躇なく、全身の力を込めて。
母が動かなくなるまで何度刺したのか覚えていない。
ただ二、三回刺すまでは思いの外強く抵抗された。そのせいで全身が返り血で真っ赤になり、服を着替える羽目になった。
浴室の狭い洗い場でバスタブにもたれる様にして息絶えた母が邪魔でシャワーが浴びられないので、母を何とかバスタブに落とし込みシャワーを浴びた。返り血に染まった服と包丁はそのままそこに捨て置いた。
浴室を出て体を拭くと裸のまま自室へ行き服を着て、台所に戻り刺身を作るため魚を捌いた。
羽崎に捌き方を教わったのは嘘ではないが、実践したのは一度だけ。
それでもなんとか食べられそうなレベルには仕上げられた。
できた刺身を冷蔵庫に入れ、他にも色々用意して父の帰りを待つ。
父は午後七時過ぎに帰って来た。
父に母の所在を聞かれて「さっき、ケーキを買いに出かけた」と言い、リビングのソファーに座らせると刺身とビールを父に運ぶ。
父を持ち上げるような言葉を並べ、父が自慢できるような話を引き出して語らせ、ビールをコップに注いでは飲むように勧めた。
ビールには晴彦の部屋のあった母の導眠剤を入れてあった。
三十分もすると父はあっけなくソファーに沈んだ。
眠り込んだ父は最初に喉を刺した時に抵抗しようと動いただけで、後はほぼ無抵抗で絶命した。
何度刺しても起き上がってきそうで、出刃包丁の刃先が駄目になり刺せなくなって初めて手を止めた。
また服が血で汚れてしまったため、シャワーを浴びに風呂場に行く。
熱いシャワーを浴びながら、晴彦は動かぬ母に話しかけた。
「お母さんがもっとお父さんに正直な話をしてくれてたら良かったのかもしれないね」
晴彦がスイミングクラブを辞めさせられたのは練習プログラムに体力的について行けなかったからではなく、母がスイミングのコーチにセクハラされていたからだ。
意味もなく肩や背中をコーチに触られる度に母は顔をしかめて逃げていたが、ある日の帰り際、母はコーチからメモを渡された。
メモに何が書いてあったかは知らない。が、コーチが立ち去った後メモを見た母はそのメモを破いた上に丸めて近くのゴミ箱に捨て、帰り道で晴彦にスイミングクラブを辞めるよう言った。
母を見るコーチの目が子供心にも気持ち悪かったので、晴彦も異議はなかった。
サッカークラブも指導が晴彦にはきつ過ぎるから辞めさせたのではなく、母が保護者会で他の母親達に色々な雑用を押しつけられ、便利にこき使われていたからだ。
『久住さんはお仕事はパートなんだから、時間あるでしょう。片付けやっておいてね』
『久住さん車を持ってるんだから、荷物運び当然してくれるわよね』
母に面倒を押しつけて、自分達はおしゃべりばかりしている母親達も嫌いだったし、練習試合を見に来る父親達が馴れ馴れしく母に声を掛けてくるのも嫌だった。その後は必ず母親達から母への当りがキツくなるから。
だから晴彦は母がクラブを辞めさせやすいように、練習がキツすぎると泣き言を繰り返した。
「まあ、お父さんに言ったところで、お母さんに心に隙があるからだとか弱気な態度でいるからだとか言われて、終わりだったかもしれないけど」
仮に晴彦が母の代わりに言ったところで、父はクラブ活動を辞めたいがための晴彦の嘘だと思っただろう。
父は自分の欲しい言葉以外聞かない人間だったから。
浴室を出て体を拭き、今度は予め用意していた服に着替える。
リビングに戻ると、血の塊のような父の傍に立ち、見下ろした。
「僕が小学生の時のお父さんの提案は、何も役に立たなかったね」
晴彦が小学六年生の時、父はPTAで「思春期に差し掛かる子供のために父親も積極的に教育に参加しよう」と呼びかけて、一年間限りだが父親会を立ち上げた。
毎月一度、第一日曜日に学校に父親が寄り合って意見交換するという活動だったが、母子家庭の子や母親がどう思うか、父は考えなかった。
日曜日にこそ働かなければならない職種の父親についての配慮も全くなかった。
その程度の意識しかない人間が月に一度話し合うだけで、子供の教育が向上するわけもない。ただ貴重な休みの日に時間を取られるだけの集まりに意義はなかった。
しかし父は自分の考えに賛同してくれる者だけが集まってくれれば良かったのだろう。自分が勤める新聞社の記事のネタにもなったのだから。
「これからお父さんは、あの時参加を呼びかけたお父さんやお母さんたちに嘲笑されると思うよ。だってお父さんの教育論が正しかったら、僕が親を殺すような子供には育たなかったはずだから」
間違えた責任は取らなきゃね、と言い捨てて、晴彦は自分の部屋に戻った。
開門してもらう為に、後は宗田達に報復するだけだ。
こんなに明日が待ち遠しいのは、小学生の時の遠足以来かもしれない。
翌日に備えて早くに眠ったが、少々寝過ごしてしまった。しかし、急ぐことはなく悠々と学校に向かった。
教室に入ると、真っ直ぐ宗田達の席へ向かった。
休んでいる間に席替えがあったらしく、都合の良いことに三人縦に席が並んでいる。
これは啓示だ。新しい人生への導きだ。
宗田の目。大石の右腕。品川の口。
報復はそこだけで良い。
殺そうとは思わなかった。血のつながりという濃い絆で繋がれた両親と違い、彼らは所詮赤の他人だ。縁も絆も糸のように細い。
蜘蛛の巣を払うように、用意してきた包丁で狙った箇所を切った。
人を虐げてきた行為の代償として、不自由な体で、一生残る傷を抱えてこの世界で生きれば良い。
その瞬間、転生の門が開かれた。
教室の窓の外に、白く波が踊る海が広がっている。
深く冷たい色の遙か先には水平線が見える。
ああ、この海だ。僕が生きるべき場所だ。
呼んでいる。海が僕を呼んでいる。
晴彦は恍惚として窓に向かって歩き、刃物を捨てると。
海に飛び込んだ。
家に帰る途中にあるスーパーで、刺身用の鯛と出刃包丁と刺身包丁を買った。
家の玄関で母に出迎えられ、泣かれた。買ってきた魚と包丁を見せて「羽崎さんに魚の捌き方を教わったから刺身をごちそうするよ」と言うと、また泣かれた。
持って帰った荷物を二階の自室に置いてリビングに戻ると、母は晴彦の好きなハンバーグを焼いていた。
「お母さん、ハンバーグが焼けたら、僕が刺身を作るよ。だからその間にお父さんのためにお風呂の用意をしてあげて」
母は喜んで、ハンバーグを焼いた後風呂掃除に行った。
晴彦はシンクの上に出されていた牛刀を右手に握り、取り落とすことがないようにタオルで手に縛り付けると風呂場に向かった。
母はバスタブの掃除をしていた。
晴彦が近づくと振り返り、おそらく「何?」と問いかけようとしたのだろう。しかし母の口から声が出る前に、脇腹を刺した。
躊躇なく、全身の力を込めて。
母が動かなくなるまで何度刺したのか覚えていない。
ただ二、三回刺すまでは思いの外強く抵抗された。そのせいで全身が返り血で真っ赤になり、服を着替える羽目になった。
浴室の狭い洗い場でバスタブにもたれる様にして息絶えた母が邪魔でシャワーが浴びられないので、母を何とかバスタブに落とし込みシャワーを浴びた。返り血に染まった服と包丁はそのままそこに捨て置いた。
浴室を出て体を拭くと裸のまま自室へ行き服を着て、台所に戻り刺身を作るため魚を捌いた。
羽崎に捌き方を教わったのは嘘ではないが、実践したのは一度だけ。
それでもなんとか食べられそうなレベルには仕上げられた。
できた刺身を冷蔵庫に入れ、他にも色々用意して父の帰りを待つ。
父は午後七時過ぎに帰って来た。
父に母の所在を聞かれて「さっき、ケーキを買いに出かけた」と言い、リビングのソファーに座らせると刺身とビールを父に運ぶ。
父を持ち上げるような言葉を並べ、父が自慢できるような話を引き出して語らせ、ビールをコップに注いでは飲むように勧めた。
ビールには晴彦の部屋のあった母の導眠剤を入れてあった。
三十分もすると父はあっけなくソファーに沈んだ。
眠り込んだ父は最初に喉を刺した時に抵抗しようと動いただけで、後はほぼ無抵抗で絶命した。
何度刺しても起き上がってきそうで、出刃包丁の刃先が駄目になり刺せなくなって初めて手を止めた。
また服が血で汚れてしまったため、シャワーを浴びに風呂場に行く。
熱いシャワーを浴びながら、晴彦は動かぬ母に話しかけた。
「お母さんがもっとお父さんに正直な話をしてくれてたら良かったのかもしれないね」
晴彦がスイミングクラブを辞めさせられたのは練習プログラムに体力的について行けなかったからではなく、母がスイミングのコーチにセクハラされていたからだ。
意味もなく肩や背中をコーチに触られる度に母は顔をしかめて逃げていたが、ある日の帰り際、母はコーチからメモを渡された。
メモに何が書いてあったかは知らない。が、コーチが立ち去った後メモを見た母はそのメモを破いた上に丸めて近くのゴミ箱に捨て、帰り道で晴彦にスイミングクラブを辞めるよう言った。
母を見るコーチの目が子供心にも気持ち悪かったので、晴彦も異議はなかった。
サッカークラブも指導が晴彦にはきつ過ぎるから辞めさせたのではなく、母が保護者会で他の母親達に色々な雑用を押しつけられ、便利にこき使われていたからだ。
『久住さんはお仕事はパートなんだから、時間あるでしょう。片付けやっておいてね』
『久住さん車を持ってるんだから、荷物運び当然してくれるわよね』
母に面倒を押しつけて、自分達はおしゃべりばかりしている母親達も嫌いだったし、練習試合を見に来る父親達が馴れ馴れしく母に声を掛けてくるのも嫌だった。その後は必ず母親達から母への当りがキツくなるから。
だから晴彦は母がクラブを辞めさせやすいように、練習がキツすぎると泣き言を繰り返した。
「まあ、お父さんに言ったところで、お母さんに心に隙があるからだとか弱気な態度でいるからだとか言われて、終わりだったかもしれないけど」
仮に晴彦が母の代わりに言ったところで、父はクラブ活動を辞めたいがための晴彦の嘘だと思っただろう。
父は自分の欲しい言葉以外聞かない人間だったから。
浴室を出て体を拭き、今度は予め用意していた服に着替える。
リビングに戻ると、血の塊のような父の傍に立ち、見下ろした。
「僕が小学生の時のお父さんの提案は、何も役に立たなかったね」
晴彦が小学六年生の時、父はPTAで「思春期に差し掛かる子供のために父親も積極的に教育に参加しよう」と呼びかけて、一年間限りだが父親会を立ち上げた。
毎月一度、第一日曜日に学校に父親が寄り合って意見交換するという活動だったが、母子家庭の子や母親がどう思うか、父は考えなかった。
日曜日にこそ働かなければならない職種の父親についての配慮も全くなかった。
その程度の意識しかない人間が月に一度話し合うだけで、子供の教育が向上するわけもない。ただ貴重な休みの日に時間を取られるだけの集まりに意義はなかった。
しかし父は自分の考えに賛同してくれる者だけが集まってくれれば良かったのだろう。自分が勤める新聞社の記事のネタにもなったのだから。
「これからお父さんは、あの時参加を呼びかけたお父さんやお母さんたちに嘲笑されると思うよ。だってお父さんの教育論が正しかったら、僕が親を殺すような子供には育たなかったはずだから」
間違えた責任は取らなきゃね、と言い捨てて、晴彦は自分の部屋に戻った。
開門してもらう為に、後は宗田達に報復するだけだ。
こんなに明日が待ち遠しいのは、小学生の時の遠足以来かもしれない。
翌日に備えて早くに眠ったが、少々寝過ごしてしまった。しかし、急ぐことはなく悠々と学校に向かった。
教室に入ると、真っ直ぐ宗田達の席へ向かった。
休んでいる間に席替えがあったらしく、都合の良いことに三人縦に席が並んでいる。
これは啓示だ。新しい人生への導きだ。
宗田の目。大石の右腕。品川の口。
報復はそこだけで良い。
殺そうとは思わなかった。血のつながりという濃い絆で繋がれた両親と違い、彼らは所詮赤の他人だ。縁も絆も糸のように細い。
蜘蛛の巣を払うように、用意してきた包丁で狙った箇所を切った。
人を虐げてきた行為の代償として、不自由な体で、一生残る傷を抱えてこの世界で生きれば良い。
その瞬間、転生の門が開かれた。
教室の窓の外に、白く波が踊る海が広がっている。
深く冷たい色の遙か先には水平線が見える。
ああ、この海だ。僕が生きるべき場所だ。
呼んでいる。海が僕を呼んでいる。
晴彦は恍惚として窓に向かって歩き、刃物を捨てると。
海に飛び込んだ。
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