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6 お披露目会の夜
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夕方、隆志は明子に身支度を整えてもらった。
風呂に入った後、新品の下着を身につける。隆志に用意されたのは、祖父も父もお披露目の時に着たという紋付と袴だった。
世久家の紋は稲二束が交差する『違い稲』。世久家の繁栄の大元が米だからだそうだ。
シックなスーツに着替えてきた太田が呼びに来て、彼に従い母屋の大広間に入った。
途端、眩暈がした。
広間には規則正しく並べられた食卓台に沿って、大勢の客が座っていた。上座には金地に松が描かれた屏風があり、分かりきっていたが隆志の席はそのど真ん中だった。
隆志が座ると、太田の父、昌夫が厳かに口を開いた。
「それではお集まりの皆様、改めましてご紹介させていただきます。こちらが第三十二代目世久家当主、世久隆志様でございます」
隆志が予め教えられた通り短い挨拶と一礼をすると、値踏みするような視線が集まるのを感じた。続いて太田が客一人一人の名前と役職などを読み上げ、隆志に紹介する。その客たちの正体を知って、隆志は逃げ出したくなってしまった。
町長、町議会議長、地元銀行の頭取、地元優良企業の社長、近辺の小、中、高校の校長、町立病院の院長、商工会会長、警察署長、消防署長、他に福祉団体の代表者など、地元の名士と言えるお歴々を全てかき集めたような客たちだった。
一通り紹介が終わると会食となった。用意されていたのは見たこともないほど豪華な仕出しの膳だったが、隆志は緊張のためまったく食欲が湧かなかった。それでも食べるふりをして料理を突き崩していると、酒を振る舞われ少々陽気になった客たちが個別に隆志に挨拶にやってきて、いつしか隆志の前には挨拶の順番を待つ人の列ができていた。
今の時代に『世久家の当主』の代替わりの『お披露目会』など時代錯誤も甚だしいと思っていたが、彼らと話しているうちにだんだん意味が分かってきた。
招待された客はみんな世久家の名と金に世話になっているのだ。
権力の座にいる者や寄付や投資を受けている者が世久家を利用して現在を保っているのなら、代替わりしたくらいで今までの関係を断ち切られたくはないだろう。
だから、これは彼らが新しい当主とつながりを持つために用意された座なのだ。
それほどに地元に影響力のある『世久』の名と財。
世久家の金持ちぶりをそのうち嫌でも実感すると言った太田の言葉は確かに正しかった。
やってくる客一人一人と当たり障りのない話をし、いい加減疲れてきた頃、世久家の菩提寺の住職が挨拶にきた。
「永麓寺の住職、石森真道と申します。わたしはあなたのお父様と同級生なんですよ。しかも子供まで同級生という縁です」
住職らしく袈裟を着た彼は温和な顔に笑みを浮かべた。
「僕と同級生? ……お名前は何と」
名前を聞いても全く顔を思い出せなかった。
「クラスは別でしたから、多分お話されたこともないと思います」
彼は後ろをちらりと振り返ると、後がつかえているからと腰を上げた。そしてさりげなく、周りに聞こえぬように囁いた。
「……もし、お困りのことがありましたら、是非我が寺へおいでください」
きっとお力になります、と彼は言い残して去った。
会は予定通り九時に終わった。客全員を見送り、奥の間に戻った時は心底ほっとした。
着替えて、熱い茶を飲んでいると、
「お疲れ様でした、隆志さん」
ネクタイを緩めながら、太田が顔を出した。さすがの彼にも疲れが見えた。
「と、言いたいところなんですが……大奥様がお呼びです」
「お祖母さんが?」
「今すぐ、離れの方にと」
一難さってまた一難か。隆志は渋々離れに向かった。
廊下の薄暗い明かりの下を離れへと歩く。
さっきまで客で賑わっていた大広間は障子が締め切られ、明かりも消され、初めから何事もなかったように静まり返っていた。
この家は……寂しい。
日常が通夜のようだ。そして、葬儀が祭りだ。
大広間に活けてあった白百合の芳香が、離れの廊下へ進む足を止める。
白百合は父のお棺の中に敷き詰められた花。生前は色とりどりの花を街中に植えた父は、色のない花で送られた。
この家は寂しい。
何もかもが植物の呼吸のように密やかだ。
離れの扉を入った後、明かりの点いている一番手前の部屋へ声をかけた。
「こんばんは。隆志です」
「お入りなさい」
失礼します、と挨拶して、障子を開け部屋の中に入った。
「……あの、何か御用ですか」
「どうぞそちらへお座りください」
祖母は自分の向かい側のソファーを示した。
「お披露目会のすぐ後、お疲れのところ申し訳ありませんが、これはどうしても今日のうちにしなければならないお話ですので」
不安の雲がむくむくと隆志の胸の内に湧き起こった。
「それは……どんな」
「世久家当主が従わなければならない『しきたり』について、です」
詳しくはこちらに、と祖母は隆志の目の前に古びた箱を差し出した。
「しきたりを書き留めたものが中に入っております。必ず今夜中にお目通しください」
隆志は内心ため息をついた。
こういう旧家にはありがちな話だ。伝統という名の時代錯誤なしきたりをいつまでも後生大事に守り続けることを使命とする。
面倒だが、ここで反発しても損だと隆志は大人しく頷いておいた。
「守っていただかなければならないしきたりの中で、特に厳格に守っていただきたいことが一つあります」
「何でしょうか」
「この先、どんな理由があろうとも、絶対に働かないことです」
「は?」
思いも寄らない話に、隆志は思わず間の抜けた問い返しをしてしまった。
「世久家の当主は、働いてはならない。知的でも肉体的でも、対価を得る目的で作業してはいけないということです。これだけはどうか覚悟してお守りください」
「……しきたりを守らなかった場合は」
「御身に災いが」
まさか、と笑った隆志に、祖母は生真面目に言った。
「神様にお目にかかればお考えも変わられるでしょう」
隆志は呆れるより心配になった。
祖母は度重なる心労で精神を病み始めているのではないだろうか。早く医者に診せた方が良いかもしれない。
「今夜のうちに、与喜様にご挨拶なさいませ」
祖母は鈴の音が聞こえる方へ行けと言う。
「そうすれば、世久家の守り神様に」
お目通り叶うでしょう、と祖母は暗い目をして僅かに笑った。
祖母の言った母屋から別棟へ続く廊下の一つを進む。
ちりん。
鈴が鳴る音が聞こえた。
鈴が鳴るたび、気のせいか体が前に引っ張られる気がする。
今自分がどこを歩いているのかさっぱり分からない。どこまで行っても似たような廊下と障子の部屋が続く。
大体、この屋敷の造り自体が不可解だ。棟と棟をつなぐために平屋を建てて、またそこから母屋につなげるために平屋を建てている。機能的でない、ただの部屋ばかりが多い、極めて無駄な造りだ。昔親戚が住んでいたという頃でも、果たしてこの中のどれだけの部屋が使用されていたことか。
薄暗い廊下の先に、扉が見えた。
ちりん。ちりん。
鈴が二度鳴る。
そこだという予感、いや、確信が。
扉を開くと、屋根のついた渡り廊下が小さな平屋へ続いていた。
クチナシの生垣に囲まれた高床式の家だった。
月明かりの下で、白い花がむせ返るほど甘い香りを放っている。
ありえない。
クチナシは夏の花だ。春先の今、花が咲いているなんてありえない。
軽い眩暈を感じながら、隆志は廊下を渡り、五段ほどの階段を上がって平屋の入り口に立つと、中から声が聞こえた。
――来たか。入るがよい
その声に導かれるように磨き込まれた木の引き戸を開けた。
そこは家というより、部屋というべきかも知れない。八畳の座敷があるだけの家だった。
座敷の四隅には今時珍しい行灯の明かり。古めかしい和箪笥。畳に散らばる色とりどりの千代紙やお手玉。
そして座敷の中央には。
赤い花模様の着物を着た十歳くらいの少女が座っていた。
――お前が、当主となった隆志か
姿こそ少女だが、畏れを感じるほどの威圧感がある。
「……君……い、いや、貴女は」
自分でも声が震えているのが分かった。
――わしは与喜。世久家の者は与姫、あるいは
守り神と呼ぶ――と、少女は冷たく隆志を見据えた。
風呂に入った後、新品の下着を身につける。隆志に用意されたのは、祖父も父もお披露目の時に着たという紋付と袴だった。
世久家の紋は稲二束が交差する『違い稲』。世久家の繁栄の大元が米だからだそうだ。
シックなスーツに着替えてきた太田が呼びに来て、彼に従い母屋の大広間に入った。
途端、眩暈がした。
広間には規則正しく並べられた食卓台に沿って、大勢の客が座っていた。上座には金地に松が描かれた屏風があり、分かりきっていたが隆志の席はそのど真ん中だった。
隆志が座ると、太田の父、昌夫が厳かに口を開いた。
「それではお集まりの皆様、改めましてご紹介させていただきます。こちらが第三十二代目世久家当主、世久隆志様でございます」
隆志が予め教えられた通り短い挨拶と一礼をすると、値踏みするような視線が集まるのを感じた。続いて太田が客一人一人の名前と役職などを読み上げ、隆志に紹介する。その客たちの正体を知って、隆志は逃げ出したくなってしまった。
町長、町議会議長、地元銀行の頭取、地元優良企業の社長、近辺の小、中、高校の校長、町立病院の院長、商工会会長、警察署長、消防署長、他に福祉団体の代表者など、地元の名士と言えるお歴々を全てかき集めたような客たちだった。
一通り紹介が終わると会食となった。用意されていたのは見たこともないほど豪華な仕出しの膳だったが、隆志は緊張のためまったく食欲が湧かなかった。それでも食べるふりをして料理を突き崩していると、酒を振る舞われ少々陽気になった客たちが個別に隆志に挨拶にやってきて、いつしか隆志の前には挨拶の順番を待つ人の列ができていた。
今の時代に『世久家の当主』の代替わりの『お披露目会』など時代錯誤も甚だしいと思っていたが、彼らと話しているうちにだんだん意味が分かってきた。
招待された客はみんな世久家の名と金に世話になっているのだ。
権力の座にいる者や寄付や投資を受けている者が世久家を利用して現在を保っているのなら、代替わりしたくらいで今までの関係を断ち切られたくはないだろう。
だから、これは彼らが新しい当主とつながりを持つために用意された座なのだ。
それほどに地元に影響力のある『世久』の名と財。
世久家の金持ちぶりをそのうち嫌でも実感すると言った太田の言葉は確かに正しかった。
やってくる客一人一人と当たり障りのない話をし、いい加減疲れてきた頃、世久家の菩提寺の住職が挨拶にきた。
「永麓寺の住職、石森真道と申します。わたしはあなたのお父様と同級生なんですよ。しかも子供まで同級生という縁です」
住職らしく袈裟を着た彼は温和な顔に笑みを浮かべた。
「僕と同級生? ……お名前は何と」
名前を聞いても全く顔を思い出せなかった。
「クラスは別でしたから、多分お話されたこともないと思います」
彼は後ろをちらりと振り返ると、後がつかえているからと腰を上げた。そしてさりげなく、周りに聞こえぬように囁いた。
「……もし、お困りのことがありましたら、是非我が寺へおいでください」
きっとお力になります、と彼は言い残して去った。
会は予定通り九時に終わった。客全員を見送り、奥の間に戻った時は心底ほっとした。
着替えて、熱い茶を飲んでいると、
「お疲れ様でした、隆志さん」
ネクタイを緩めながら、太田が顔を出した。さすがの彼にも疲れが見えた。
「と、言いたいところなんですが……大奥様がお呼びです」
「お祖母さんが?」
「今すぐ、離れの方にと」
一難さってまた一難か。隆志は渋々離れに向かった。
廊下の薄暗い明かりの下を離れへと歩く。
さっきまで客で賑わっていた大広間は障子が締め切られ、明かりも消され、初めから何事もなかったように静まり返っていた。
この家は……寂しい。
日常が通夜のようだ。そして、葬儀が祭りだ。
大広間に活けてあった白百合の芳香が、離れの廊下へ進む足を止める。
白百合は父のお棺の中に敷き詰められた花。生前は色とりどりの花を街中に植えた父は、色のない花で送られた。
この家は寂しい。
何もかもが植物の呼吸のように密やかだ。
離れの扉を入った後、明かりの点いている一番手前の部屋へ声をかけた。
「こんばんは。隆志です」
「お入りなさい」
失礼します、と挨拶して、障子を開け部屋の中に入った。
「……あの、何か御用ですか」
「どうぞそちらへお座りください」
祖母は自分の向かい側のソファーを示した。
「お披露目会のすぐ後、お疲れのところ申し訳ありませんが、これはどうしても今日のうちにしなければならないお話ですので」
不安の雲がむくむくと隆志の胸の内に湧き起こった。
「それは……どんな」
「世久家当主が従わなければならない『しきたり』について、です」
詳しくはこちらに、と祖母は隆志の目の前に古びた箱を差し出した。
「しきたりを書き留めたものが中に入っております。必ず今夜中にお目通しください」
隆志は内心ため息をついた。
こういう旧家にはありがちな話だ。伝統という名の時代錯誤なしきたりをいつまでも後生大事に守り続けることを使命とする。
面倒だが、ここで反発しても損だと隆志は大人しく頷いておいた。
「守っていただかなければならないしきたりの中で、特に厳格に守っていただきたいことが一つあります」
「何でしょうか」
「この先、どんな理由があろうとも、絶対に働かないことです」
「は?」
思いも寄らない話に、隆志は思わず間の抜けた問い返しをしてしまった。
「世久家の当主は、働いてはならない。知的でも肉体的でも、対価を得る目的で作業してはいけないということです。これだけはどうか覚悟してお守りください」
「……しきたりを守らなかった場合は」
「御身に災いが」
まさか、と笑った隆志に、祖母は生真面目に言った。
「神様にお目にかかればお考えも変わられるでしょう」
隆志は呆れるより心配になった。
祖母は度重なる心労で精神を病み始めているのではないだろうか。早く医者に診せた方が良いかもしれない。
「今夜のうちに、与喜様にご挨拶なさいませ」
祖母は鈴の音が聞こえる方へ行けと言う。
「そうすれば、世久家の守り神様に」
お目通り叶うでしょう、と祖母は暗い目をして僅かに笑った。
祖母の言った母屋から別棟へ続く廊下の一つを進む。
ちりん。
鈴が鳴る音が聞こえた。
鈴が鳴るたび、気のせいか体が前に引っ張られる気がする。
今自分がどこを歩いているのかさっぱり分からない。どこまで行っても似たような廊下と障子の部屋が続く。
大体、この屋敷の造り自体が不可解だ。棟と棟をつなぐために平屋を建てて、またそこから母屋につなげるために平屋を建てている。機能的でない、ただの部屋ばかりが多い、極めて無駄な造りだ。昔親戚が住んでいたという頃でも、果たしてこの中のどれだけの部屋が使用されていたことか。
薄暗い廊下の先に、扉が見えた。
ちりん。ちりん。
鈴が二度鳴る。
そこだという予感、いや、確信が。
扉を開くと、屋根のついた渡り廊下が小さな平屋へ続いていた。
クチナシの生垣に囲まれた高床式の家だった。
月明かりの下で、白い花がむせ返るほど甘い香りを放っている。
ありえない。
クチナシは夏の花だ。春先の今、花が咲いているなんてありえない。
軽い眩暈を感じながら、隆志は廊下を渡り、五段ほどの階段を上がって平屋の入り口に立つと、中から声が聞こえた。
――来たか。入るがよい
その声に導かれるように磨き込まれた木の引き戸を開けた。
そこは家というより、部屋というべきかも知れない。八畳の座敷があるだけの家だった。
座敷の四隅には今時珍しい行灯の明かり。古めかしい和箪笥。畳に散らばる色とりどりの千代紙やお手玉。
そして座敷の中央には。
赤い花模様の着物を着た十歳くらいの少女が座っていた。
――お前が、当主となった隆志か
姿こそ少女だが、畏れを感じるほどの威圧感がある。
「……君……い、いや、貴女は」
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