早春の向日葵

千年砂漠

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壊れた母

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 伯母は私の精神状態ではファミレスなどでの外食は無理だと考えたのか、途中でコンビニに寄り、食料を買い込むと三田浜の家に戻った。
「食欲がないかもしれないけど、食べられるだけでいいから食べて」
 伯母が気遣う通り食欲は全くなかったが、買ってくれた弁当やゼリーなどのデザート全てを私は食べた。部活動のテニス部で、部員数の多い中でレギュラーの座を勝ち取るためにはまず体力と精神力が強くなければならないと学んでいた私は、ここで食べなければ身体が弱って精神的にも踏ん張れないと自分を叱咤して、貪欲に栄養を取り込んだ。部活で鍛えた精神力がこんな所で役立った。
「安心した。人間、ご飯が食べられるなら大抵の事は大丈夫だからね」
 伯母は湯呑にお茶を注いでくれながら、薄く笑った。
「喜美子も美咲ちゃんくらい強かったら良かったのに」
 あの子は繊細な子だから、と独り言のように呟いた。十六歳で両親を交通事故で亡くした母は、その後年の離れた姉である伯母が親代わりだったと聞いた事がある。実際母を案じる伯母からは母親のような慈愛が感じられた。
 確かに母はひ弱な所があった。PTAの役員をしている時意見の合わない人間に言い負かされて何日もメソメソしたり、書店の仕事で他人の失敗を自分のせいされて注意されると「もう仕事を辞めたい」と弱音を吐いたりした。その度に少しは言い返せばいいのにと私は苛々した。母に似ない気の強さは父の血筋かと思っていたが、父を殴りつけた伯母を見るとルーツはこちらだったようだ。
 眉毛の形は父と瓜二つだと誰かに言われた事を何となく思い出し、サイドボードの上に視線を向けた。そこには私が小学六年生の夏休みに行った家族旅行で両親と三人で撮った記念写真が飾られてあったはずだったが、なくなっていた。いつ片づけられたのか、全く気づかなかった。それほど家に無関心だった自分に、愕然とした。
 今こそ真実を知らなければならない。私には知る義務があり、権利がある。
「伯母さん、お父さんは本当に」
 他に好きな人ができて母と離婚したいと思っているのか聞こうとしたが、
「ごめんね、美咲ちゃん」
 伯母はその先の言葉を私に言わせなかった。
「いくら腹が立ってたと言っても、中学生の子供の前でしていい話じゃなかった」
 私の正面に座った伯母は湯呑を両手で握りしめて俯いた。伯母はこの話を打ち切りたそうだったが、私は退かなかった。
「伯母さん、私にもお母さんの遺書、見せてくれない?」
 父の不倫は伯母が言わなくても、いずれは何らかの形で知る事になっていただろう。どうせ知るなら自分の意思で真相を知りたかった。あんなに母と仲の良かった父が浮気し、しかも相手の女性と結婚したいから母と別れたいと本当に言ったのか、私は自分の目で確かめたかった。
 伯母は顔を上げて私を数秒見詰め、ため息をついた。
「本当に、あんたは強いのね」
 バックの中から白い封筒を取り出した伯母は「風呂場の掃除をしてくる」と言って席を外した。
 キッチンに置かれていたという母の遺書は伯母に宛てたものだった。かなり感情的に書いたのか、一読では分かり難いほど文字も文章も乱れていて、内容は昇進した頃から始まったらしい父と女性との交際に対する恨み辛みと父への愛情を捨てきれない自身への憐れみで埋め尽くされていた。
 母の、女としての生々しい感情を吐露した遺書は、私にはひどく不愉快だった。私が生まれたのは両親の性行為の結果だと知った時の嫌悪感に似ていた。
 何より傷ついたのは、私の事が一言も書かれていないことだった。
 母は死に際して、一人娘の私を完全に無視していた。日頃私が母にしていた仕打ちを、母は最期に全力で還して来たのだ。因果応報という言葉をこれほど身をもって感じたことはない。
 その悲しみを、私は伯母には言わなかった。私の悲しみは私だけで昇華したかった。
 断じて母のような弱い人間には成りたくなかった。


 翌日目が覚めると、十時を過ぎていた。
 月曜日なのに遅刻だ、と焦ってリビングに行くと、昨夜そのまま家に泊ってくれた伯母が疲労の色濃い顔で、ぼんやりソファーに座っていた。
「伯母さん、どうして起してくれなかったの。今日、月曜日だよ。学校が」
「学校には休むって連絡したから。美咲ちゃんと一緒に喜美子を迎えに行こうと思って」
 父が家に帰って来た様子はなかった。おそらく伯母がこの家に泊るだろうと予想して帰らなかったに違いない。帰らなかった父の宿泊先は不倫相手の所ではないかと不愉快なことを考えそうになった自分がもっと不愉快だった。
 病院に行くと、母は回復室から空いていた一般病棟の一室に移されていた。
 淡いベージュのカーテンで仕切られた四人部屋を入ってすぐ左のベッドで、母は身体を起してぼんやり座っていた。
「喜美子、具合はどう?」
 伯母が声をかけると、母は焦点の定まっていない瞳を伯母に向けた。
「もう家に帰ってもいいって。さあ、着替えて帰りましょう」
 母はもどかしいほどの沈黙の後、
「どなたですか?」
 首を傾げた。
「私よ。志麻子よ。あなたの姉さんじゃないの」
 眉をひそめた伯母に、母はゆるりと頭を振った。
「違う。お姉ちゃんじゃない」 
「喜美子、何言ってるの。しっかりして」
 近づこうとした伯母に、母は枕や布団を投げつけて叫び声を上げた。
「違う! 違う! 違う! あなたはお姉ちゃんじゃない! あなたなんか知らない! 来ないで! 来ないでよ!」 
「喜美子! どうしたの! 落ち着いて!」
 ベッドから飛び降りてどこかへ逃げようとする母を、伯母が抱きとめて押さえようとしたが、母は狂ったように叫んで暴れた。ナースステーションに近い部屋だったので、騒ぎに気付いた看護師が直ぐに駆けつけてきて、何とか母を宥めようとしてくれたが、母には言葉が通じなかった。
 母は一度も私を見なかった。私は看護師に「危ないから」と廊下に出され、少し離れた所から泣いて暴れる母を見ていたが、視線が合う事はなかった。母にとって私は否定する以前に存在しない者だった。
 やがて医師が来て母は別室に連れて行かれ、そこで何らかの措置をされたのか、伯母と共に呼ばれて行くと、母は涙の跡を頬に残したまま眠っていた。
「美咲ちゃん、悪いけどどこかで待っててくれる? お医者さんから話したい事があるって言われて――ああ、そうだ」
 伯母は財布から千円札を二枚ぬくと、私に握らせた。
「これで一階の食堂で何か食べて待ってて。話が済んだら迎えに行くから」
 未成年の私に話してもどうにもならないことなのだろうと想像はついた。父もいない今は伯母に任せるしかなく、私は頷くしかなかった。
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