首筋に咬痕

あお

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「君ねえ、部下の管理も出来ていないようじゃ困るよ」

「申し訳ございません」


休み明けの朝、会社に出勤すると同時に部長から呼び出しを受けた。
どうやら俺の部下の1人が入力ミスをしたまま経理処理を行ってしまったらしい。それに気付かないまま日を跨いでしまい、それが今朝発覚したと。

俺は事の端末を聞く間もなく呼び出された為、口に出来るのは謝罪の言葉だけだった。


「これは自分の監督責任です。以後この様な事が無いようーー」

「当たり前だっ!」


怒鳴りつけると同時に部長が目の前のデスクを大きく叩いた。更に畳み掛けるように罵声に近いものを浴びせられたが、適当な相槌で聞き流す。

この、理不尽とも言える形で呼び出されたのはこれが初めてではなかった。
今までの経験上この場を上手くやり過ごすコツは、ただひたすら言葉の暴力に耐える事と言い訳など一切しない事だ。今日は午前中に別部署と合同会議がある事もあり、頭を下げる事に抵抗などなかった。


「君の代わりなら幾らでも居るんだ。肩書きに甘えずに昇進してくれよ」

「はい。失礼します」


代わりなら幾らでも居る。呼び出しを受ける度に幾度となく言われてきた言葉に、もう胸を痛める事はない。












「ねえ、経理部の課長ってさ、本当に無愛想だよね」

「確かに。愛想笑いの一つも出来ないんだもん。この間なんてーー」



たまたま通りがかった社内の給湯室。今から行く営業企画部へ渡す予定の資料を持ったまま、俺は聞こえてきたその声に、給湯室を横切る寸前で足を止めた。

不意に給湯室内から聞こえてきたのは、午前中に資料を届けに行ったばかりの総務部の女性社員の声。

その内容に自分の持っている肩書きの名を聞いてしまえば、誰だって足を止めていただろう。ましてやそれが、悪口の類であれば。



今日はどうやら厄日らしい。



彼女達は午前中に会った俺の印象について話をしているんだろう。笑顔も無く、淡々と仕事の用件だけを話して出て行った俺の話を。

愛想が悪い、なんて、自分にとっては何度も聞き慣れた台詞だ。もし俺が営業担当であれば、当日にでも部署を変えられてしまいそうな位には、表情が硬い事は自分でも自覚していた。

言われ慣れてるせいもあり、俺は今聞こえてきた話についても特に何も思わないし、特に言うつもりもなかった。

ただ、軽く聞き流せばいいだけ。問題はこの後だ。流石に、このまま給湯室の前を通るのは容易ではない。

この前を通って中に居る人物と顔を合わせては、今後何かの仕事で接した時、互いに気まずくなってしまうだろう。そう考えると、どうにも足が前へは進まない。

俺は少しだけ思案した後、迂回するかと小さく溜息を漏らし、仕方なく元来た道を戻る為に踵を返した。










俺は、今まで生きてきた人生の中で、人から必要とされた事が無かった。

厳格な父親と、教育に煩い母親、優秀な兄。そして、平凡な俺。

何をやるにも成績優秀な兄に執心していた両親。

両親は俺に一切の関心を向ける事は無かった。

成績が良かろうがわざと成績を悪くしてみようが、褒める事も怒る事も無くただただ無関心だった。

それは両親だけでなく学校の教師や両親の知り合い、親戚、行く先々で兄と比べられ、兄を引き立たせる為の道具のように扱われてきた。



今勤めてる会社とてそれは同じだ。認められたくて必死に頑張って得た経理課の課長という肩書きだって、いざなってみればただのお飾りだった。責任を誰かに押し付けたい上の人間がたまたま俺を選んだだけ。仕事が認められたからではない。



元々コミュニケーションが苦手だった俺は経理課の中で一人だけ浮いた存在で。孤独はどこまでも付き纏ってきた。



自分はどう頑張っても認められる事はないんだと、人から求められないんだと、諦めの言葉を並べるようになったのはいつからだったか。



誰からも必要されないならば、いっそ期待なんて最初からしない方がいい。手を伸ばして拒まれるのが、相手の期待を裏切るのが怖かった。









『貴方がいい。貴方じゃきゃダメなんだ』







頭の中で幾度となく再生されたその言葉を言われてから、二ヶ月の月日が流れた。あれ以来、音梨君とは会っていない。

今日に至るまで何度かメールのやり取りをしてきたが、諦めないと言っていた割には、メールでその話題に触れてくる事は殆どなかった。ただ、おはようとかおやすみとか、そんな他愛のないメールを送り合うくらいで。



「あんな事言われたの、初めてだったな……」



あの日、ただ純粋に向けられた情熱が、誰も触れる事のなかった心の琴線に触れた。



再生される度に胸が甘く締め付けられ、指先は僅かな熱を帯びる。もう一度、直接この耳で聞きたいと、心が鳴いた。


もう、代わりの人にモデルを頼んでいるかもしれない。他に惹かれるものを見つけているかもしれない。頭ではそう思っていた筈なのに、手は自然と胸ポケットの携帯電話へと伸びていた。



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