名探偵は気付かない

黒澤伊織

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12月24日 23時22分 榎本裕太(大柄な大学生)の話

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「……何も起こらないじゃねえかよ」

 張り詰める緊張に耐えかねて、祐太はぼそっとつぶやいた。


 マダム・フレグランスだとかいう太った女が、おもむろに隣の痩せぎすな男に殴りかかったときには驚いたが、毎度のことなのか、男はやはりぼうっと突っ立っているだけである。

 その後、椅子に座らされた男は、女の訳のわからない呪文めいたものに合わせて体を前後に揺らし始め、時々女がチリンチリンと鈴を鳴らし――それでも霊とやらが降りてくる気配はない。


「……いつ降りてくるんだよ」

 もう一度つぶやくと、呪文を唱えながら、女がキッとこちを睨んだ。


「もうそろそろです。黙って見ていなさい」

「でも……」

 祐太は反論しかけて、結局口を閉じた。


 霊などという存在を、祐太は信じていなかった。なぜなら、もしそんな存在があるとしたなら、死んでしまった健介が――あの懐かしい幼なじみが、一度くらい、祐太や美夏のところに挨拶に来たっていいはずだからである。

 けれど、健介は夢にだって一度も現れたことはなかった。それなら、幽霊などいるはずがない。


 2階で死んでいた女――長い髪を振り乱し、真っ白な服を真っ赤に染めていた彼女は可哀相だが、殺人者の謝罪を耳にすることはないだろう。

 一向に霊が降りる様子がないことに焦りを感じているのか、女の声が大きくなる。つられるように、男の体の揺れが激しくなる。

 好きなだけやってろよ――大きくあくびをしたそのときだった。顔を上げた祐太の目は、食堂の入り口に立った人影をとらえた。


「あっ、あっ……」

 その途端、声にならない声が漏れる。


「あなた、さっきからうるさいわね。霊が来るまで、ちょっと黙っててもらえないかしら」

 呪文を中断した女が、思い切り祐太を睨みつける。


「き、来てる……」

「は?」

 明らかに怒った様子で、女が肉鞠のような腰に手を当てる。

 しかし、怒りを向けられてなお、祐太は黙ることができなかった。祐太は腰を抜かし、入り口を指さして、叫んだ。


「ほら、あそこ、あそこにもう来てるって!」

 そこには、白いドレスの胸を朱に染めた、長い髪の女が恨めしそうに立っていた。
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