31日目に君の手を。

篠宮 楓

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 翌朝、喉の痛みもほとんどなくなった原田は、本来ならバス通学に切り替えるのだけれど自転車をアオの家に置きっぱなしという事もあって、だいぶ早い時間にいつもの土手を歩いていた。
 休みが終わったし元々八時台に走っていたという事もあって、夏休み中に顔を合わせていた人たちの姿はほとんどなかった。どちらかというと通勤通学の人達が増えていて、駅とは反対方向に歩いていく原田を珍しそうに見ていく人がちらほらと。
 そんな中、原田は気持ち早足でアオの家に向っていた。

 朝露なのか微かに湿った下草を踏み分けて顔を上げれば、背の低い柴垣が見えてくる。
 さすがにまだ早いのか、いつも座っているベンチにアオの姿はない。

「まだ寝てるか……」

 腕時計を確認すれば、七時三十分。
 外に出ているには早い時間かもしれないと思い直して、原田はアオの家へと近づいて行った。もし、雨戸が開いていなければ自転車だけ取って、帰りにもう一度寄ればいい。
 そこに、アオはいるのだから。


 庭先から覗き込めば、空いている雨戸。
 そこには――


「……要さん」
 そう名前で呼べと一昨日言っていたアオのお祖母ちゃんが、縁側の前できゅうりのコンテナに水やりをしていた。
 ブリキのじょうろが懐かしい。

 原田の声に顔を上げた要はきょろりと辺りを見渡して、土手に立つ原田に気が付いた。
 持っていたじょうろをその場に置いて、庭先へと歩いてくる。濃紺の着物を着ている要とその家は、一枚の写真の様な雰囲気だった。
「ななしくんとやらだったね」
 凛とした声は、すでに起きて仕事を終えたような闊達としたもので。
 思わず、背筋が伸びる。
 前掛けで手を拭きながら目の前に立った要は、原田を見上げた。
「おはようございます、要さん。先日はご迷惑をおかけして、すみませんでした」
 要さんの視線を受けてそう頭を下げれば、頬に手を当てて目を細める。
「あぁ、おはよう。それでどうしたんだい、こんなに朝早く」
「あ、あの自転車を置きっぱなしにしてしまっていたので、取りに……」

 流石に祖母である要に「アオに会いに来た」と言えるはずもなく建前の様な言葉を口にすれば、そうかい、と柴垣の近くに置いてあった自転車に視線を向けた。
「もう体調は大丈夫かい?」
 そう言いながら、先導する様に要は歩き出す。原田は慌ててその後ろをついていきながら、ちらり家の方に目を向けた。

――アオはまだ寝てるのか……?

自分の声がすればアオが出てくるんじゃないかという期待をそぐように、何の音沙汰もない。
首を傾げながらもついそちらをじっと見ていれば、傍に立っていた要が何でもない様に爆弾を落とした。
原田の、心に。


「あの子なら、もういないよ」

 ……

「――え?」

 何を言っているのか最初解らず、要を見下ろして呟く。

「あ、えっと?」

 戸惑っている原田を見上げながら、要はもう一度口を開いた。

「あの子なら、家に帰ったよ」
 原田は、何も言えず目を見開いた。突然の事に何も言えない原田から視線を外すと、自転車に掛けてあった布を取り払った。
「元々、休みの間だけここに来ていたんだ。休みがもうすぐ終わるからね、自宅に戻ったよ」
 
 え、休みの間だけ……?

「アオって、ここに住んでるんじゃ……」
「ここは、私が暮らしてる家だ。大学生のあの子が、一人で暮らせるような家じゃない事くらい想像つかなかったのかい?」

 言われてみれば、確かにそう。
 確かにそうだけど――

「え、なら今アオは――」
「さっきから言ってるだろう? あの子の自宅に戻ったよ」


俺に、何も言わずに――?


 その事実に、原田は愕然としていた。
 確認するような事ではないけれど、それでもアオとの距離は最初に比べて縮まっていたはずだ。好悪感情は置いておいたとしても、何も言わずにいなくなるとかそこまで他人行儀な間だったのか?

 目を見開いたまま固まっている原田を要は見上げていたけれど、しばらくして小さくため息をついた。

「一つ伝言だ」
「……え?」

 無音に響いた声に、原田は要を見下ろした。
 高校生とは思えないほど落ち着いているとは思ったが、やはり年相応だ。原田の目に何か縋る様な色が見えて、要は内心苦笑してしまった。

「また来る」

「え?」
「またここに来るから、そう伝えてくれと言われたよ」


 たったその一言。
 それだけで、アオは原田の前から姿を消した。
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