変わる世界のデトネイター ──廃神の旅路──

石田 ゆうき

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第1章 騎士の国

003 エレーヌ

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 王都カルカスへの道のりは、ライトにとって退屈なものだった。
 せっかく時間があるというのに、精錬も武器作成も薬品調合もなにもできないのだ。爵位もない彼に対し王は、貴族用の馬車を用意するという好意を見せていたのだが、ライトにとってはどうでもいい事だった。

 せめて夜にでも作業をしよう、と工房を取り出そうとしたら止められた。夜も護衛という名の見張りがついた部屋で寝かされたのである。王都にたどり着くまでの一週間で、ライトの国王に対する印象は最悪になった。


 * * * * *


 城につくなりライトは、玉座の間に連れてこられた。正面には大きな椅子、左右にはチェインメイルをつけた兵士たちが並んでいる。ライトは椅子の正面まで案内されたが、これから何をすればいいのかまったくわからなかった。

 奥にいる男が誰かの名前を大声で告げた。そうするとカーテンの後ろから派手な衣装の男が登場した。同じことが何度も繰り返され、どんどん人が増えていった。最初が男爵、次が子爵。どうやら地位が下のものから呼び出されているようだ。

 ライトは不満だった。人を呼びつけておいて、これほど待たせるとは。
 百人ほどの貴族たちが呼び出され、ようやく国王の番になった。貴族たちはわずかに体を傾け、兵士は腰を折り曲げた姿勢を取る。

「無礼な! キサマ、礼儀もしらんのか」

 立ち尽くしていたライトを、隣にいた兵士が叱責した。

「どうしたらいいの?」
「この愚民が。片膝を床につけ、頭を下げろ」

 一人だけ格下扱いを受けているようだった。すこし気に入らなかったが、ライトはおとなしく言われたままに動いた。それからかなりの時間をかけて、国王が玉座に座った。

「一同おもてをあげよ」

 国王の言葉を聞いて、ライトは立ち上がった。しかしまわりを見ると、みな姿勢を変えていなかった。

「立つな愚か者! 頭を下げろ」
「……!?」

 また隣の兵士に罵られた。部屋のあちらこちらから嘲笑が聞こえてくる。
 ライトはやむをえず、もう一度片膝をついた。

「一同おもてをあげよ」

 国王が二度目の声をかけると、部屋の空気が動いた。その場にいる全員が顔をあげて国王を見る。今度こそいいのか、そう思って立ち上がったライトは、またしても兵士に叱り飛ばされた。どうやらライトだけは、会見中ずっと片膝をついていないといけないらしい。

「よいよい。寛大なワシは、蛮族にまで正しい礼を要求はせんぞ。直答も許す」

 ライトは立ち上がって国王を見た。ただの白髪の老人だった。想像していたようなオーラやカリスマ性は微塵も感じない。これならアベルの父、モンフォール辺境伯エルネストのほうがよほど威厳があった。

「そなたがモンフォール騎士団の武具を鍛えた鍛冶屋で相違ないか?」
「そうだよ」

 また部屋がざわついた。ライトの言葉遣いがまずかったせいだ。馬鹿にする声がいくつも届く。ライトもいい加減ウンザリしてきた。もう帰ろうかな、そう思ったとき金属鎧をまとった壮年の男がライトの前に立った。

「そなたは空から武器を作り出すと聞いた。もし偽りでないなら、そこな騎士団長にふさわしい剣を出してみせよ」

 騎士団長を調べてみると、彼はレベルが20しかなかった。ライトは深いため息をついた。ここまでレベルが低いと、選べる武器が限られすぎるのだ。
 
「【スティールソード】」

 ライトは虚空から、鋼の両手剣を取り出した。その場にいた者達がどよめく。
 今度は嘲笑ではなく純粋な驚きのようだった。

「これは……。信じられません、陛下。これほどの逸品は初めて手にします」

 大剣を受け取った騎士団長が、上ずった声で国王に報告する。
 ライトはふたたび小さなため息をついた。ただの鋼の剣がもてはやされても嬉しくない。

「ほう……。たしかに噂どおりだな。ならば次はワシにふさわしい剣を用意せよ」

 国王のレベルは10。ライトはすこし考えた。ふつうに武器を出すと騎士団長以下のものしか用意できない。それだと怒られそうだな、という程度の予想はライトでもできたのだ。

「【宝石剣コール】」

 虚空から、美麗な細工が施された金の鞘と、幾つもの宝石が埋め込まれた柄をもつ剣を取り出した。国王が驚き、目を細めた。貴族たちからも羨望の眼差しが向けられる。

 宝石剣コールは、攻撃力皆無の剣だ。見た目のわりに、値段もたいしたことはない。アベルに渡したミスリル装備のほうが2桁は高い。しかし【IL】では人気の剣だった。敵を呼び寄せる、という特殊効果のために。

 そんなことは知らない国王は、綺羅びやかな剣を受け取って、ヨダレをこぼさんばかりのいやらしい笑顔を浮かべていた。

 ただしライトは、無礼な国王に復讐するつもりで宝石剣を渡したわけではない。彼としては、単純にこの手の輩には光物が喜ばれそうだと思っただけだ。……彼に悪意があろうとなかろうと、宝石剣を持つ国王が危険にさらされることに違いはないのだが。

「この剣はまさにワシにふさわしい! ただの下民かと思いきや、なかなか見どころのある小僧だ。エレーヌ、蛮族の前に進み出よ」

 国王に呼ばれて、ジネットと同じくらいの年頃の少女がライトの前に立った。白いドレスに青い髪飾り。綺麗なブロンドの髪が腰まで伸びている。うつむいているため顔は見えなかった。

「喜べ小僧。第五王女のエレーヌを貴様の嫁にくれてやる」
「へ、陛下、前代未聞ですぞ! 氏素性も定かならぬ浮民に王族を嫁がせるなぞ、ありえぬことです」

 玉座の間は大騒ぎになっていた。貴族たちが口々に反対意見を述べる。ライトはというと、彼にしては珍しく呆然としていた。ライトには、どうして嫁の話がでてきたのかまるで理解できなかったのだ。

「……まさか剣の代金のつもり? コイツ、頭おかしいな」

 さいわいにもライトのつぶやきは、周囲の喧騒にまぎれて誰の耳にも届かなかった。だれにとっての幸いであったかは微妙なところだが。

「静まれ! そなたらの不満はわかる。だがワシは公正王ロテール3世と呼ばれる男だ。たとえ相手が下賤な者とはいえ、正当な褒美を渡さぬわけにはいかん」

「ボクは、お姫様なんかいらないんだけど」

 ライトの言葉に部屋中が静まった。そして一瞬の沈黙のあと怒号がおこる。今度は、それまで黙っていた兵士たちからも罵声が飛んだ。

「浮浪者に等しい流れ者の分際で、なんという不遜な態度を!」

「小僧、ただエレーヌをやるわけではないのだぞ? いくらか領地もつける。貴様のような蛮族にすれば、目もくらむような出世であろうが」

「そんなのいらないよ」
「なるほどなるほど! やはりそうであったか」

 返事を聞いて、国王は何かを確信したらしい。左右の側近とうなずき合う。

「陛下、モンフォール辺境伯が、娘をその下民に嫁がせようと画策しているのは事実かと。そうでなければ、王女殿下との婚姻を拒むわけがない」

「父上、辺境伯が叛意を抱いている事は明白。ただちに討伐の用意を!」

 国王の息子らしい小太りな男が、なにやらいきり立っている。ライトはまたしてもあぜんとした。話の流れが意味不明だった。アベルの父がジネットを嫁がせるというのも初耳だし、それがなぜ叛意につながるのかもまるでわからない。

「その小僧をとらえよ! ただし殺してはならんぞ。財宝をあるだけ吐き出させねばならんからな」

 国王の命令を受け、兵士たちがライトに迫る。

「【ライトの工房】」

 ライトは工房を取り出した。そして周りの者が驚いたスキに、扉を開け工房に逃げ込む。

「こんなとこ来るんじゃなかったなあ……」

 工房で一人、ライトはぼやいたのだった。


 * * * * *


 ライトが工房に入ってから、ずっと工房に対する攻撃が続いていた。剣で切る、ハンマーで叩く、火で燃やす。兵士たちは考えられる限りの方法を試したが、一向に効果はなかった。

 ライトは床に座り込んで考えていた。彼は命令に素直に従って王都に来たし、贈り物もした。それなのにどうしてこんな扱いを受けるのか。思案の結果ライトはひとつの結論に達した。

「弱そうだから舐められたんだな、きっと。戦闘用のスキルを鍛えておこう」

 まったく的外れな結論だった。
 彼がひどい扱いを受けたのは、身分が低かったためだ。宮廷での礼儀作法をまったく知らなかったためでもある。

 襲われたのは、モンフォール辺境伯との関係を疑われたためだった。たった一人の愛娘を嫁にやるくらいだ、なにかよからぬ取引をしたに違いない。そう思われたのだ。ジネット自身がライトを気に入っているなど、彼らの想像のほかだった。

 ──ライトは彼のただ一つの攻撃用スキルである【投擲】の訓練を始めた。

 投擲はその名の通り、物を投げつけてダメージを与えるスキルだ。通常は投げナイフやダーツなど投擲専用のものしか使えないが、スキルランクが上級以上になるとあらゆる武器を使用できるようになる。

 しかし投擲は不人気スキルの一つだった。理由はコストが高すぎるため。投擲に使用した武器は消滅し、回収不可能になるのだ。安いダーツなどはともかく、剣や斧などを使い捨てにしていては、とても元が取れない。

 そのためライトのような金に余裕のある生産職が、遊びで取るケースがほとんどだった。そしてライトは【IL】全体でも、たった数人しかいない【神級投擲】を持つプレイヤーの一人だったのである。


 * * * * *


 工房への攻撃は、最初の数日だけで終わった。それ以後はとくに交渉もなく静かなものだった。その間ライトは、ただひたすら武器を壁に投げつける作業を続けていた。

 ライトが工房にこもってから一ヶ月ほどが過ぎたころ、変化があらわれた。
 彼を呼ぶ声が聞こえたのだ。

「エレーヌです。ライト様、扉を開けて私の話を聞いてくださいませ」

 ライトは迷わず扉を開けた。彼はエレーヌに酷いことをしたと思っていたのだ。彼女のような若い女の子が「おまえなんかいらない」と言われれば傷つくだろう、と後から考えがいたったのだ。

「どうぞ」

 ライトは、扉の外に立っていたエレーヌに手招きをした。しかし彼女は中に入るのをためらっている。どうしたんだろう、とライトは首をかしげた。エレーヌは何かを決意するように唇を噛み締めてから、おそるおそる工房に入ってきた。

 その様子を見て、ようやくライトにも意味がわかった。状況的には密室に若い男女が二人きりなわけだ。ジネットが同じ状況でも、まるで平気だった(とライトは思っていた)ので、そこまで気がまわらなかったのだ。

「不安なら外で話してもいいけど?」
「……大丈夫です」

「そう? じゃ、用件はなに」
「私を貴方の妻にしてくださいませ」
「え?」

 エレーヌの発言は意表をつくものだった。
 まさかライトに一目惚れしたわけでもないだろう。

「貴方の望むような妻になりますから! 見た目は、その、どうにもならないかもしれませんけど……。でもっ、髪型とか化粧で──」
「待って待って。どういうこと? わかるように説明してよ」

「貴方が私との結婚を断ってから、モンフォール辺境伯との関係がひどく悪くなったのです。陛下は各地から兵を集めて戦争をする準備をしているのです」

 ライトは考えこんだ。彼の結婚と戦争にどんな関連があるんだろう? それに味方同士で戦っていたら、ディオン教国が喜ぶだけじゃないのかな。

「……よくわからないんだけどさ。仮にボクの結婚拒否が原因だとしても、もう手遅れでしょ。いまさら結婚するって言っても戦争は止まらないんじゃない?」

「そんなことはありません。貴方が協力してくれればきっと戦争をとめられます」

 必死に詰め寄ってくるエレーヌに、ライトは辟易した。彼女と話が通じる気がしなかったのだ。そもそも戦争がおころうと、ライトにはどうでもいい。

「んー。なんでそんなに戦争を止めたいの? 君にはあんまり関係ないでしょ」

「私の母はモンフォール領出身の平民でした。お祖父様もお祖母様も、みんなモンフォール領に住んでいるのです」

「ふうん、そうなんだ。でも結婚は無理かなあ」
「どこがダメなのか教えてください!」

 感情を高ぶらせる王女に、ライトは言うべき言葉がなかった。
 べつだん気に入らないところなどなかったからだ。彼女は絶世とは言えないまでも可愛らしい容姿だったし、王家の者らしくたおやかで気品もあった。結婚相手としては悪くないのかもしれない。

 しかしそういう問題ではないのだ。会ったばかりの者と結婚するなど、ライトには考えられない。あまりに考え方が違いすぎて、王女を納得させるのは困難なように思われた。またじっさいのところ、彼女を説得する必要性もなかったのだ。ライトは押し問答を途中で切り上げて、エレーヌを工房の外に放り出した。


 * * * * *


 それからエレーヌは毎日工房を訪れた。そして飽きもせず説得を繰り返す。
 二週間ほどたったある夜、またエレーヌの声が聞こえた。ライトは溜息をついてから扉を開けてやる。

 すると、途中から扉が強引に開かれた。見ると、屈強な男二人が扉を押さえ込んでいる。外には扉を抑えている二人以外にも兵士がいた。合計12人。ライトはエレーヌを見た。しかし彼女は気まずそうに目をそらしただけだった。

「命は保証する! おとなしく縛につけ!」
「【オリハルコン・ボウ】」

 ライトは兵士を無視して、虚空から金色に光る弓を取り出した。
 そして、少し笑った。

「詠唱かあ。こんなのがあるんだ。ゲームの時よりゲームっぽいな」
「動くな下民! こちらは完全武装の12人だ。貴様に勝ち目はない!」

『弓よ、別れ、追って、狩り殺せ。拡散誘導弾(スプレッドミサイル)』

 投擲スキルが特級をこえると、個々の武器ごとに設定された【技】を使えるようになる。使い捨てであることに変わりはないが、中には広範囲攻撃ができるような武器もあり、使い勝手は悪くなかった。

 そして今、ライトの手から放たれた12の光は、瞬時に兵士12名の頭部を破壊していた。即死である。すこし間を開けて、兵士たちの体が倒れていく。あたりが血まみれになった。

 エレーヌは周囲の惨状をみて、魂を奪われたような顔になっていた。
 そして座り込んで失禁する。

 そんな中ライトは、満足そうにうなずいていた。練習した成果がちゃんと発揮されたためだ。兵士を殺したことに対する感慨はとくにない。彼は扉に寄りかかった兵士の死体を蹴り飛ばしてどかすと、工房に戻った。


 * * * * *


 モンフォール領とランツ国王直轄領の境では、緊張状態が続いていた。
 アベル率いるモンフォール騎士団五千と、ロテール3世が率いる国王軍三万が睨み合っているのだ。

 通常これほどの戦力差があると、まともな戦争にすらならない。劣勢な方の兵士が逃げ散ってしまうからだ。しかしモンフォール騎士団は意気軒昂、一歩も引く気配を見せなかった。

 国王とその側近は、敵の意外な士気に戸惑っていた。彼らの計算では、モンフォール辺境伯は平身低頭して降ってくるはずだったのだ。もともと脅しのために兵を集めただけで、本気で戦争をする気はなかった。彼らの要求は、ライトの所有権を渡すこと、それからモンフォール領をいくらか割譲すること。辺境伯の力を削げればそれで満足だったのだ。


 * * * * *


 国王の要求にアベルは激怒した。彼は断固対決することを主張し、父に無断で布陣までしてしまったのだ。ライトに出会う前の彼なら、こんなことはしなかっただろう。国王に逆らうことも父に逆らうことも、彼にとっては耐え難い罪だったのだから。

 しかし今の彼の手には、アニマブレイズがあった。持ち主の欲望を増幅するという魔剣が。……欲望とは必ずしも利己的なものばかりではない。アベルの持つ最も強い欲望は「守りたい」というものだった。家族を、部下を、領地を、国を。

 国王と対峙している今の状況は、彼の欲望と矛盾しているように見える。しかし彼の欲望には明確に優先順位があった。一番が家族である。彼の弟になるはずのライトを監禁し、その「所有権」などを要求するような者は倒すべき敵であった。たとえそれが忠誠を尽くすべき国王であっても、なんのためらいもない。

 アベルが攻撃を開始しないのは、ひとえに父エルネストの許可が下りていないためだった。しかし膠着状態も長くは続かなかった。エルネストの手紙がアベルに届いたのである。

 エルネストは、開戦を認めた。
 手紙には、対陣してしまった以上、降伏してもただでは済まない。それゆえに戦って圧勝しろ、としたためられていたのだった。


 * * * * *


 ──かくして戦がはじまった。

 アベル軍の弓兵ニ千名が、矢を雨のように射掛ける。ライトが作り出した合成弓は、曲射で600mというバカバカしいほどの射程距離をほこる。対する国王軍の長弓は射程200m。もしもアベル軍に十分な弓兵がいたら、それだけで戦いが決してしまうほどの差だ。

 しかしニ千名だけでは、三万の敵軍を崩壊させるには至らない。とは言え、国王軍はおおいに動揺した。彼らは、このままでは一方的に叩かれると、おのおの陣形を乱しながら突撃する。

 アベル軍の重装歩兵隊は、縦横16名づつの方陣を基本とする。彼らは12個の方陣を横一列に並べた隊形で、静かに敵を待ち受けていた。戦場で敵の突撃を見守るなど、尋常な精神でできることではない。だが彼らは百戦錬磨の精鋭ぞろいだった。

 無数の矢に苦しめられながらも、アベル軍と接敵した国王軍の先鋒は、しかし最初の激突で砕け散った。アベル軍は256名ずつの密集隊形のまま、悠々と進軍する。立ちふさがる敵は鎧袖一触、蹴散らされた。なにしろ装備の質が違いすぎるのだ。アベル軍の槍は、一撃で敵の命を奪う。しかし国王軍の剣や矢は、アベル軍の鎧を貫くことができないのだ。

 前衛が潰滅したあとで、国王軍の騎兵隊が動き出した。そして戦場を大きく左──長く伸びたアベル軍の右翼のさらに右──に迂回してアベル軍の後方をつこうとする。アベル軍の槍ぶすまは正面からは突破できそうもない。しかし後ろから攻められればひとたまりもないであろう。

 しかしその策も通用しなかった。訓練された重装歩兵の密集陣というものは即座に正面方向を変えられるのだ。事実、スパルタのファランクスが背面を見せて逃走するフリをし、敵を罠にかけた例もある。

 アベル軍最右翼の一隊が素早く右に向き直り、横をすり抜けようとする騎馬隊に突撃した。その重装歩兵の前進速度は、国王軍の意表をつくものだった。ライトの加速ブーツを履いた彼らは、重装歩兵でありながら、騎兵なみの機動力を持っていたのだ。騎馬隊はちょうど横撃される形になり、またたくまに散り散りになった。

 不利な状況が続きながらも、まだ国王軍は戦列を保っていた。相手よりも圧倒的に多数であるという優位が、かろうじて彼らを支えていたのだ。国王軍はアベル軍と同じく、横に広く陣形を伸ばした。そして全戦線にわたって攻撃を開始する。アベル軍は強いが、その陣はごく薄い。なにしろたった16人の厚さしかないのだ。どこか一箇所でも穴が開けば、それが決定的な勝機につながるであろう。

 作戦としては悪くなかった。いくらライトの装備が優れているとはいえ、それを着る者が動けなくなれば意味が無い。間断なく攻撃をしかければ、交代要員のいないアベル軍は疲労で倒れ、敗北するはずだった。

 きっとそうなっていただろう。
 ──もしもその場にアベルがいなかったのなら。

 それまで後方で指揮に専念していたアベルが前に進み出た。
 輝く銀色の盾と鎧が、敵味方の注目をあつめる。

「喰らい尽くせ、アニマブレイズ!」

 先頭に立ったアベルは敵兵を斬りつけた。黒いオーラを纏った刃は、敵を鎧ごとやすやすと両断する。──しかしそれだけでは終わらなかった。

 アベルが斬り殺した兵士から、黒い犬のような影が12体あらわれる。黒い犬はすぐさま近くにいた兵士に飛びかかった。兵士にさわった黒い犬は、溶けるように消えていく。だが同時に、触れられた兵士も胸を抑えて倒れこむ。

「ヒィッ、ば、バケモノだ!」

 アベルが剣をふるたびに、正確に13人づつが命を落としていった。
 ここに至り、国王軍の士気は崩壊した。

 国王軍三万から考えれば、少ない犠牲だったかもしれない。
 だがその異様な光景が、彼らの心を完全に打ち砕いてしまったのだ……。
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