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第4章 恋教え鳥
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……ぽちゃん、とひとしずくの水が落ちる音が頭と耳の芯に反響する。
「……。……?」
ふ、と意識が体の中に戻ってきて、少女はゆっくりと目を開いた。それは朝、眠りから覚めたときのような――。
(ここは……)
気付けば少女は穏やかなせせらぎの中、ただ涙を流して呆然としてしゃがみこんでいた。
一瞬あの美しい緑の川に帰ってきたのかと思ったが、それにしては明るい。いや――遥か地の底に向かって歩いていたにしては、ここはあまりにも……美し過ぎるのではないか。
(…………な、に)
まだ醒めない少女の瞳を彩ったのは、あらゆる季節の花々と涼やかに揺れる梢、そして……地底には不似合いな、やわらかい太陽の光だった。
空は見えない。そこはあの自分が引き上げられた海辺の洞と似た形をしていたが、出入口のような裂け目もなく……なのにお日さまの光は暖かかったし、穏やかな風が髪をさらっては、入り交じる花の香を運んできた。
そしてその四方を囲む透明な石を孕んだ岩壁からは清水が湧き出し、花の小島の隙間を縫いながら少女の浸る小川や池に蕩々と流れ込んでいる。
(……お尻、冷たい)
そこでようやく現実に戻ってきた五感が、その水の感覚をごくごく平凡に少女に伝えてきた。
(禊に怒られちゃうかな)
濡れた分だけ重みを増した裳を引きずるように立ち上がると、きめ細かい白砂が水中でふわっと踊った。それからもう一度ぐるりと周りを見渡せば、視界の端にひらりと白いものが舞い込む。
「……あ」
見上げれば、それはあの縄と紙の飾りだと分かった。さらに自分がすでにその境界を越えていることに気付き、
「……!」
その背後に何かがあることを感じ取った少女は、緊張に強張る体と、畏れに膨れ上がる意思を無理矢理に抑えつけ……ゆっくりと……ゆっくりと、後ろを振り返った。
『……お帰りなさい』
「……っ!!」
そしてやはりと言うべきか……そこにあったのは、一人の女性。
『お帰りなさい……私の子』
自分と瓜二つの女性が、あらゆるものを慈しむような笑みを浮かべ、佇んでいた。
***
「あ……ぁ」
少女は驚愕に目を見開き、意味をなさない言葉を紡ぐ。
そのあまりの驚きと緊張に指一本動かせず、しかしそれゆえに視線を反らすことすらできない。
ただ――よく見れば、女性は本当に自分の姿をそのまま写し取っただけのものだとわかった。
少女の目の前には清らかな水をそのまま固め磨いたような大岩があり、その鏡のような面が表情の異なる少女の姿を薄く映している。岩の奥は暗くて何があるのか見えない。ただ彼女は幻影のようにそこにいて、少女を見つめていた。
いつの間にか握りしめていた手に汗がにじむ。
でも、まるで「大丈夫」と親が子をなだめるように風が頬をなで、髪を揺らしては花の香りを届けてくれて。
少女にはそれらすべてがこの女性のような気がして、ほんの少し迷った後に言葉を返した。
「あの……、あなたは。私の子って……じゃあ――」
『……そうよ。あなたはずうっとずうっと遠い私の子。そして私は……あなたのずうっとずうっと遠い母。あらゆるものの母。高天原の神々も私が生み、今は高天原よりも大きく広い神となって、あなたたちを見守っています。……だからあなたのことも、この世界に帰ったときからずうっと知っていたの』
「……お母さん?」
少女が何気なく呟けば、水晶の中の自分は嬉しそうににっこりと笑う。
「……」
少女はゆっくりと砂を踏み、水晶の大岩の前まで進み出た。そのままそっとその岩をなでれば、本当に水鏡のように波紋が起こる。
水の向こうの自分もまた同じように手のひらを合わせたが、互いに触れ合うことはできなかった。
『悲しい思いを……怖い思いを、やるせない思いをさせてしまってごめんなさい。だけどあなたは……本当に、あの子が思ったとおりなのね』
「え?」
『ううん。それより、ほら』
「あ」
もう一人の自分が頬をなでる仕草をして、少女は今更涙の跡に気付いてそれをぬぐった。それを見て、対の顔はやわらかく笑う。
『あんな私に寄り添ってくれて……ありがとう』
「……あの……、あの、でも、お父さんは?」
『もちろんいるわ。でも――今は高天原よりもずうっとずうっと高い場所。……あなたはもう、わかるでしょう? あの方も一度は私を迎えにここまで来てくれたのだけれど、あの方は私がこんなにも美しくなることを知らずに去ってしまったの』
「……あ」
その言葉に、少女は手を重ねたままもう一度背後の世界を振り返る。
そこはただただ、命にあふれた美しい世界。
朽ちた肉は地に還りまた生まれ変わる……それも、自然の摂理だった。くるくる回って戻るもの。繋がって一つになるもの。始まりも終わりもなくて、区別できないもの。わかちがたいもの。わけられないもの。
だからこの世界は、丸いのだ。
けれど……あの父神に取って、美しい母神の姿を汚した死は穢れそのものだった。それは淀となって、連綿と続く流れをせき止めてしまった。
少女が眉を下げれば、水の中の自分は気にしないで、と頭を横に振る。
『あれは私たちが、幼かったの。あの方は死が理解できず、私もその先にあるものをまだ知らずにいた。その代償は、お互いを蔑み呪い合う、辛いものになってしまったけど……』
「……」
『だけど私は生まれ変わって、世界というこの大きな腕でたくさんの子を抱き、慈しむことができる』
「じゃあ……今は、寂しくない?」
『もちろん』
「……」
そうして穏やかに笑むもう一人の自分に、少女は不思議な違和感を覚えていた。
どうしてこんなに……優しい顔ができるのだろう。どうしてこんなに、満ち足りた顔ができるのだろう。ただ姿を貸しているだけ……元は自分の姿のはずなのに。
自分には絶対に作れないような表情を、彼女は本当に自然のままに作ってみせてくれる。
「……強いんだね」
それでようやく少女が笑めば、
『お母さんだもの――』
もう一人の自分は力強く頷いて、それからふと可笑しそうに言葉を続けた。
『だけど、いつかはあなたも、そうなれるのよ』
「……え?」
『あなたたち巫女は私と同じ、神を生む力を持っているの。〝神婚〟というのよ。神と神、あるいは神と人が契りを結ぶこと。そして――それこそが巫女の本当の役目』
「巫女の……役目?」
それはすでに、禊が語ってくれていなかっただろうか。少女は記憶を辿って、それをそのまま口にしてみる。
「巫女は神々に信仰を、歌や舞を捧げてその魂を慰めるって……違うの? 契りを結ぶ?」
その言葉の意味もわからず目を丸くして首を傾げれば、もう一人の自分はただ頷きまっすぐにこちらを見つめ返してきた。そして、その言葉を刻むようにもう片方の手を少女の胸元に置く。
『巫女は人の姿のまま神の妻になれるもの。男神には、それを求める権利がある――』
「……?」
『あのね……神を生んだ女は神になれるのよ。祭り上げられるの。そうすれば、悠久の時を愛しい人と添うことができる』
「そ――」
それはつまり、とようやく話の中身を理解した少女は一気に頬を染めて、悪戯そうに笑うもう一人の自分を窺った。
命を生むには必ず男女二人が要る。そしてその性を持った者が命を生むには、必ず――
「わ……、……わたし、できない」
『どうして?』
「……っ」
どうしてと言われても、その理由を具体的に答えることはできない。ただ――頭の中に日嗣と肌を重ねたときのことが蘇って、恥ずかしさでいっぱいになってしまったのだ。
あのとき……あの男が自分に何を問い、何を求めたのかはわからない。けれどもそれを越えて、結果的には肌を重ねた。神威の欠片を刻まれた。
神たる男は本当はそれがどんな意味を持つか、知っていたのだろう。なのに自分は、知らなかったとはいえ、仕方なかったとはいえ……求めてしまった。ゆだねてしまった。
『ふふ――おませさんね』
「ち……違うの」
まるで心の中を見透かしたように紡がれる言葉……母親が小さな娘に使うようなその言葉がなぜか無性に恥ずかしくて、もう自分が何を言っても敵わないような気がして、少女は火照った頬を隠すようにうつむき、その熱を冷ますように水の壁に額を付ける。
すると、今度はそれを慰めるように風が凪いで、少女の頭を優しくなでてくれた。
『……みより』
「…………え?」
その、唐突に自分の中の何かを揺らした言葉に、少女はびくりと肩を震わせ顔を上げる。
今――のは。
今のは――何だろう。
一粒の雨露のように優しく、一閃の雷のように激しく、一日の陽と月のように温かく、静かなきらめきを宿すもの――。
今度は少女が一心に彼女を見つめ返せば、向かい合う自分は……万物の母たる女神は寂しそうな笑みを浮かべて、
『……私にはもう、子をなすことができないの』
「え……っ?」
その神威に反する言葉を告げた。
その、もはや自身の存在を否定するかのような言葉に少女は返す言葉を思い描くことすらできなかった。
それをするには、少女の心は小さ過ぎた。ただ女神は、それすら承知のように続けてくれた。
『……あの後、私はこうして今と同じように……あの方と向かい合って、言葉を交わしたの。あのときの私はあの方がどうしても許せなくて、私はあの方を傷付ける呪詛の言葉を吐いてしまった。でもそれは……あの方の魂を削り取るのと一緒に、私自身の……女としての魂も一緒に削ってしまった』
「ど……どういう……意味……?」
『知らない方がいい……知ったらあなたは、きっと私のことを嫌いになるから。だから、言わない。ただ私もあの方も、間違いを犯してしまった。恋の間違いを犯してしまった。……ただ、それだけ……』
「こいの……まちがい?」
『……』
幼子のように問う少女に女神はそれ以上答えず、ただ自身の手をそのすがるような幼い両の手に重ねた。
そして、小さく恐れる少女をいとおしむように、やわらかく、繭のように言葉を織り始める。
『……あなたならわかるでしょう? 切なくなるような、満ち足りていくような……甘くて、楽しくて、怖くて、悲しくて、嬉しくて……とても幸せ。そういう気持ち、わかるでしょう?』
「……女神様」
『私は、淡島に生きる子たちにはそんな恋をして欲しい。この世界では、本当はそんな優しい物語を紡いでもらいたいの。今は……高天原の神々は神ゆえに傲り、その生と死の美しい物語を紡ぐことを忘れてしまっているけれど。淡島の巫女たちは人ゆえに疑い、その見えないものから遠ざかってしまっているけれど』
「……?」
『だけどあなたは、……あなたたちは優しい恋をして、大切な子をなして、私の大きくて広い腕に抱かせてちょうだいね。そしてできるならば、他の子たちも変わらず慈しんで。お願いよ――〝……〟』
――お願いよ……
……〝みより〟。
――神依。
「――お母さん!!」
それが自身の名であることを理解するのに、時間はかからなかった。
そしてそれを理解した瞬間、今は決してふれ合うことの叶わない両の手のひらから大きな波紋が広がる。
「――待って! わたし、まだ――」
聞きたいことがたくさんあったのに。
そんな少女の意思に反して、足元の水と砂がゆらりと歪み、あの真白の混沌のただ中に投げ出されたときのような不思議な浮遊感が体を包む。
この世界のこと。
神様たちのこと。
この世界に住む人たちのこと。
巫女のこと。
自分のこと。
あなたが語ったあらゆること。
まだたくさん――まだたくさん、聞きたいことがあったはずのに。
手のひらが離れ、天地の感覚がなくなっていく。うっすらと青に染まる視界の中、少女は意味もわからずせめてこれだけはと、最後の問いを口にしていた。
「――お母さんは、わたしたちのこと、嫌いじゃないよね……!?」
けれど返事はもう聞こえない。耳に伝わるのは、水と波の音。
まだたくさん聞きたいことがあったはずなのに――その中から無意識に出てきた言葉が紡ぎ終わるのと同時に、少女はどこかで見た青の世界に呑まれて、
(――お母さんの、……お腹の中だ)
その温かく満たされた水の中で、覚えているはずもないのに……ただそんなことを、思った。
「……。……?」
ふ、と意識が体の中に戻ってきて、少女はゆっくりと目を開いた。それは朝、眠りから覚めたときのような――。
(ここは……)
気付けば少女は穏やかなせせらぎの中、ただ涙を流して呆然としてしゃがみこんでいた。
一瞬あの美しい緑の川に帰ってきたのかと思ったが、それにしては明るい。いや――遥か地の底に向かって歩いていたにしては、ここはあまりにも……美し過ぎるのではないか。
(…………な、に)
まだ醒めない少女の瞳を彩ったのは、あらゆる季節の花々と涼やかに揺れる梢、そして……地底には不似合いな、やわらかい太陽の光だった。
空は見えない。そこはあの自分が引き上げられた海辺の洞と似た形をしていたが、出入口のような裂け目もなく……なのにお日さまの光は暖かかったし、穏やかな風が髪をさらっては、入り交じる花の香を運んできた。
そしてその四方を囲む透明な石を孕んだ岩壁からは清水が湧き出し、花の小島の隙間を縫いながら少女の浸る小川や池に蕩々と流れ込んでいる。
(……お尻、冷たい)
そこでようやく現実に戻ってきた五感が、その水の感覚をごくごく平凡に少女に伝えてきた。
(禊に怒られちゃうかな)
濡れた分だけ重みを増した裳を引きずるように立ち上がると、きめ細かい白砂が水中でふわっと踊った。それからもう一度ぐるりと周りを見渡せば、視界の端にひらりと白いものが舞い込む。
「……あ」
見上げれば、それはあの縄と紙の飾りだと分かった。さらに自分がすでにその境界を越えていることに気付き、
「……!」
その背後に何かがあることを感じ取った少女は、緊張に強張る体と、畏れに膨れ上がる意思を無理矢理に抑えつけ……ゆっくりと……ゆっくりと、後ろを振り返った。
『……お帰りなさい』
「……っ!!」
そしてやはりと言うべきか……そこにあったのは、一人の女性。
『お帰りなさい……私の子』
自分と瓜二つの女性が、あらゆるものを慈しむような笑みを浮かべ、佇んでいた。
***
「あ……ぁ」
少女は驚愕に目を見開き、意味をなさない言葉を紡ぐ。
そのあまりの驚きと緊張に指一本動かせず、しかしそれゆえに視線を反らすことすらできない。
ただ――よく見れば、女性は本当に自分の姿をそのまま写し取っただけのものだとわかった。
少女の目の前には清らかな水をそのまま固め磨いたような大岩があり、その鏡のような面が表情の異なる少女の姿を薄く映している。岩の奥は暗くて何があるのか見えない。ただ彼女は幻影のようにそこにいて、少女を見つめていた。
いつの間にか握りしめていた手に汗がにじむ。
でも、まるで「大丈夫」と親が子をなだめるように風が頬をなで、髪を揺らしては花の香りを届けてくれて。
少女にはそれらすべてがこの女性のような気がして、ほんの少し迷った後に言葉を返した。
「あの……、あなたは。私の子って……じゃあ――」
『……そうよ。あなたはずうっとずうっと遠い私の子。そして私は……あなたのずうっとずうっと遠い母。あらゆるものの母。高天原の神々も私が生み、今は高天原よりも大きく広い神となって、あなたたちを見守っています。……だからあなたのことも、この世界に帰ったときからずうっと知っていたの』
「……お母さん?」
少女が何気なく呟けば、水晶の中の自分は嬉しそうににっこりと笑う。
「……」
少女はゆっくりと砂を踏み、水晶の大岩の前まで進み出た。そのままそっとその岩をなでれば、本当に水鏡のように波紋が起こる。
水の向こうの自分もまた同じように手のひらを合わせたが、互いに触れ合うことはできなかった。
『悲しい思いを……怖い思いを、やるせない思いをさせてしまってごめんなさい。だけどあなたは……本当に、あの子が思ったとおりなのね』
「え?」
『ううん。それより、ほら』
「あ」
もう一人の自分が頬をなでる仕草をして、少女は今更涙の跡に気付いてそれをぬぐった。それを見て、対の顔はやわらかく笑う。
『あんな私に寄り添ってくれて……ありがとう』
「……あの……、あの、でも、お父さんは?」
『もちろんいるわ。でも――今は高天原よりもずうっとずうっと高い場所。……あなたはもう、わかるでしょう? あの方も一度は私を迎えにここまで来てくれたのだけれど、あの方は私がこんなにも美しくなることを知らずに去ってしまったの』
「……あ」
その言葉に、少女は手を重ねたままもう一度背後の世界を振り返る。
そこはただただ、命にあふれた美しい世界。
朽ちた肉は地に還りまた生まれ変わる……それも、自然の摂理だった。くるくる回って戻るもの。繋がって一つになるもの。始まりも終わりもなくて、区別できないもの。わかちがたいもの。わけられないもの。
だからこの世界は、丸いのだ。
けれど……あの父神に取って、美しい母神の姿を汚した死は穢れそのものだった。それは淀となって、連綿と続く流れをせき止めてしまった。
少女が眉を下げれば、水の中の自分は気にしないで、と頭を横に振る。
『あれは私たちが、幼かったの。あの方は死が理解できず、私もその先にあるものをまだ知らずにいた。その代償は、お互いを蔑み呪い合う、辛いものになってしまったけど……』
「……」
『だけど私は生まれ変わって、世界というこの大きな腕でたくさんの子を抱き、慈しむことができる』
「じゃあ……今は、寂しくない?」
『もちろん』
「……」
そうして穏やかに笑むもう一人の自分に、少女は不思議な違和感を覚えていた。
どうしてこんなに……優しい顔ができるのだろう。どうしてこんなに、満ち足りた顔ができるのだろう。ただ姿を貸しているだけ……元は自分の姿のはずなのに。
自分には絶対に作れないような表情を、彼女は本当に自然のままに作ってみせてくれる。
「……強いんだね」
それでようやく少女が笑めば、
『お母さんだもの――』
もう一人の自分は力強く頷いて、それからふと可笑しそうに言葉を続けた。
『だけど、いつかはあなたも、そうなれるのよ』
「……え?」
『あなたたち巫女は私と同じ、神を生む力を持っているの。〝神婚〟というのよ。神と神、あるいは神と人が契りを結ぶこと。そして――それこそが巫女の本当の役目』
「巫女の……役目?」
それはすでに、禊が語ってくれていなかっただろうか。少女は記憶を辿って、それをそのまま口にしてみる。
「巫女は神々に信仰を、歌や舞を捧げてその魂を慰めるって……違うの? 契りを結ぶ?」
その言葉の意味もわからず目を丸くして首を傾げれば、もう一人の自分はただ頷きまっすぐにこちらを見つめ返してきた。そして、その言葉を刻むようにもう片方の手を少女の胸元に置く。
『巫女は人の姿のまま神の妻になれるもの。男神には、それを求める権利がある――』
「……?」
『あのね……神を生んだ女は神になれるのよ。祭り上げられるの。そうすれば、悠久の時を愛しい人と添うことができる』
「そ――」
それはつまり、とようやく話の中身を理解した少女は一気に頬を染めて、悪戯そうに笑うもう一人の自分を窺った。
命を生むには必ず男女二人が要る。そしてその性を持った者が命を生むには、必ず――
「わ……、……わたし、できない」
『どうして?』
「……っ」
どうしてと言われても、その理由を具体的に答えることはできない。ただ――頭の中に日嗣と肌を重ねたときのことが蘇って、恥ずかしさでいっぱいになってしまったのだ。
あのとき……あの男が自分に何を問い、何を求めたのかはわからない。けれどもそれを越えて、結果的には肌を重ねた。神威の欠片を刻まれた。
神たる男は本当はそれがどんな意味を持つか、知っていたのだろう。なのに自分は、知らなかったとはいえ、仕方なかったとはいえ……求めてしまった。ゆだねてしまった。
『ふふ――おませさんね』
「ち……違うの」
まるで心の中を見透かしたように紡がれる言葉……母親が小さな娘に使うようなその言葉がなぜか無性に恥ずかしくて、もう自分が何を言っても敵わないような気がして、少女は火照った頬を隠すようにうつむき、その熱を冷ますように水の壁に額を付ける。
すると、今度はそれを慰めるように風が凪いで、少女の頭を優しくなでてくれた。
『……みより』
「…………え?」
その、唐突に自分の中の何かを揺らした言葉に、少女はびくりと肩を震わせ顔を上げる。
今――のは。
今のは――何だろう。
一粒の雨露のように優しく、一閃の雷のように激しく、一日の陽と月のように温かく、静かなきらめきを宿すもの――。
今度は少女が一心に彼女を見つめ返せば、向かい合う自分は……万物の母たる女神は寂しそうな笑みを浮かべて、
『……私にはもう、子をなすことができないの』
「え……っ?」
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それをするには、少女の心は小さ過ぎた。ただ女神は、それすら承知のように続けてくれた。
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「こいの……まちがい?」
『……』
幼子のように問う少女に女神はそれ以上答えず、ただ自身の手をそのすがるような幼い両の手に重ねた。
そして、小さく恐れる少女をいとおしむように、やわらかく、繭のように言葉を織り始める。
『……あなたならわかるでしょう? 切なくなるような、満ち足りていくような……甘くて、楽しくて、怖くて、悲しくて、嬉しくて……とても幸せ。そういう気持ち、わかるでしょう?』
「……女神様」
『私は、淡島に生きる子たちにはそんな恋をして欲しい。この世界では、本当はそんな優しい物語を紡いでもらいたいの。今は……高天原の神々は神ゆえに傲り、その生と死の美しい物語を紡ぐことを忘れてしまっているけれど。淡島の巫女たちは人ゆえに疑い、その見えないものから遠ざかってしまっているけれど』
「……?」
『だけどあなたは、……あなたたちは優しい恋をして、大切な子をなして、私の大きくて広い腕に抱かせてちょうだいね。そしてできるならば、他の子たちも変わらず慈しんで。お願いよ――〝……〟』
――お願いよ……
……〝みより〟。
――神依。
「――お母さん!!」
それが自身の名であることを理解するのに、時間はかからなかった。
そしてそれを理解した瞬間、今は決してふれ合うことの叶わない両の手のひらから大きな波紋が広がる。
「――待って! わたし、まだ――」
聞きたいことがたくさんあったのに。
そんな少女の意思に反して、足元の水と砂がゆらりと歪み、あの真白の混沌のただ中に投げ出されたときのような不思議な浮遊感が体を包む。
この世界のこと。
神様たちのこと。
この世界に住む人たちのこと。
巫女のこと。
自分のこと。
あなたが語ったあらゆること。
まだたくさん――まだたくさん、聞きたいことがあったはずのに。
手のひらが離れ、天地の感覚がなくなっていく。うっすらと青に染まる視界の中、少女は意味もわからずせめてこれだけはと、最後の問いを口にしていた。
「――お母さんは、わたしたちのこと、嫌いじゃないよね……!?」
けれど返事はもう聞こえない。耳に伝わるのは、水と波の音。
まだたくさん聞きたいことがあったはずなのに――その中から無意識に出てきた言葉が紡ぎ終わるのと同時に、少女はどこかで見た青の世界に呑まれて、
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その温かく満たされた水の中で、覚えているはずもないのに……ただそんなことを、思った。
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