恋いろ神代記~縁離の天孫と神結の巫女~

嘉月まり

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第9章 身寄り

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 神依たち三人に取ってその神の訪問は、穏やかな川の流れにぽちゃりと小石が投げられたような――一種、不協和音を伴うものだった。
「――妻問い、ではあらせられないのですね。あるいは……洞主様のお口添えがあられたということは」
「おや。玉衣の言質などなくとも私は、目の前に初々しく可憐な巫女がいたら優しくその背を抱き、蜜を垂らした言葉を囁き合っては夢心地のままに花を散らし、腕に囲ってともに愛を育みたいと思うのだが――それは神も禊も関係なく、男として当然のさがだろう?」
「それは、大部分で私ごときには解りかねますが」
(……禊……)
 神依はその神と人の会話を聞きながら、いろいろな意味でいたたまれない心地で甘い酒をちびちびと舐めていた。
 妻問い――でないことだけはとにかく安心したが、神と禊の新手の嫌がらせにも聞こえる会話が今は神依の精神を蝕む。几帳の向こうで控える童の肩も、今は心なしか小刻みに震えていた。気持ちはわかる、神依だって笑うしかない。
(なんだろう、わたし悪くないのにすごく恥ずかしい……! ……。何ていうか、……いろんな神様がいるんだなあ……)
 そんなことを思いながら半分以上を聞き流している間に、話は禊によって勝手に進められていく。
「恐れながら……妻問いでなければ何を」
「元々は個人的な興味でもあった。確かめたいこともあったし――猿彦から、少し変わった水蛭子ヒルコが流れ着いたと聞いてね」
「あ……」
伍名は一度盃を傾けると炭鉢をちらりと見、冷えるからもう少しこちらへおいでと神依の肩に手を回す。しかしあくまでもその手は優しく、強制的ではないのになぜか拒否できない。距離が縮まると、伍名は不意に声を潜めて言葉を続けた。
「……御令孫の、朱印の話も聞いている」
「――…!!」
その思いもよらない言葉に、神依と禊は息を呑み視線を交わす。
 それは、今の神依に取って特に秘さねばならぬもの。身の異質さを秘め、他の巫女の嫉妬の怨嗟や憎悪が依り憑くのを防ぎ……今となってはあの日、初めてこの世界に来て初めて二人だけで過ごした時間を、初めて触れ合いその腕に抱かれた証を、何人にも汚されないため。
 そしてもちろん猿彦も、ある程度はその機密性を理解していたはずだった。
 しかしそれでもこの秘密をこの神に告げたのは……ひととなりも含めこの神がそれを知るに足る神であり、それが必要なことであったか、何か意味があることに違いない。
 違いないのだが……。
 まるで二人の不安を表すように行灯あんどんの火がゆら、と揺れ三人の影を震わせる。
 儚い明かりの中、どこか怯えを含んだような驚愕の表情で自身を見る神依と禊に、しかし伍名は軽く頭を横に振って大丈夫だと示した。
「……禊。御霊祭の折、あれほどに素晴らしきことばを詠じられるほど知慮に富んだお前ならば、わかるだろう。御令孫は天津神でありながら我々国津神に取っても特別な存在。ゆえに、そのことを悪しきに使い、また吹聴してその御身を汚すことは絶対に致さぬ」
「それは……存じておりますが」
「うん。――そして神依。お前はただ友たる猿彦を信じれば良い。……それは、できるね」
「は……はい。でも……」
 神依たちには、この神の意図がわからない。わからないから恐れてしまう。
 伍名は優しく神依の手を取り自身の両手で包むと、まるで親が子供に言い聞かせるように言葉を続けた。
「……では、少しずつ順番に話そうか」
「……はい」
神依が頷くと伍名は笑みを深め、三人一緒の方がいいからと童を呼び禊の隣に座らせる。
 それから神依の持つ底を濡らす程度の盃に並々と甘い酒を足すと、さらに懐から小さな薬包を取り出し無言のままにさらさらと中の粉を流し入れた。粉は酒に溶け、ゆらりと糸のような水筋をその水面に滲ませる。
「伍名様……?」
神依は何をされたかわからず、不思議そうに盃と神とを見比べては名を呟き、問いに変える。しかし伍名は答えず、違う言葉を紡いだ。
「まずは……そうだな。御令孫の朱印を、見せてもらえるかな」
「……、」
その言葉に、神依と禊は視線を交わし互いに是非を問う。
(……どうしよう)
 神依は、少し怖かった。
 妻問いではないと、言葉で言われても信じきることはできない。例え目の前に坐すのが、猿彦が信頼を寄せる気性穏やかなる神だとしても、その魂が荒ぶれば何をされるかわからない。そして――そしてそれを、ここにある誰もが制止することはできないだろう。
 巫女として逆らえ得ずとも、禍津霊の一方的なそれは陵辱であったし、雨の日、神楽殿――あのときの日嗣は、その荒ぶった御霊は神依の言葉を聞き入れてはくれなかった。
 何も邪魔するものがなければ……末は、きっと同じだっただろう。
 神依は散々噂されたように異種のものに処女を散らされ――あるいはそれによって巫女たる魂が目覚めれば、一夜の背となる神をより一層激しく求め、その身を快楽の渦に沈めていたかもしれない。
 愛情のなきままに……それを日嗣の過去に重ねれば、とても悲しくて、胸が痛んだ。もしそれを許したら、その――今の日嗣自身に許してもらえなくなるような気がして、神依はそれも嫌だった。嫌で嫌で、たまらなかった。
「……」
そしてそんな主の度を越えた不安や困惑を感じた禊は、自分が引き受けることを視線で告げるとそのまま深く頭を下げる。
「恐れながら……御前におかれましては、国津神八百万を戴き最もにぎなる御霊を御身内に宿す、仁徳厚き神ならんことを言の葉のよすがに――主に代わり、申し上げたきことがございます」
「許そう。何だい」
「はい。主は淡島に流れ着いた日より、人前で無意に肌を晒すことを好まれません。禊である私も、当初はそれを拒まれました。ですので――真に妻問いではないと仰せられるのであれば、どうか寛大なる御慈悲と御容赦を賜りたく」
「ほう――それはまた」
伍名は殊更に平伏する禊の肩を柔く叩き顔を上げさせると、特に振る舞いを変えることなく続けた。
「水蛭子が禊を拒み、淡島の巫女が神を拒むとは――やはりその、猿彦が言っていた稀有けうな漂着のせいだろうか」
「あ……あの。……ごめんなさい……」
「ああ、いや――責めているわけではないんだよ」
不意に沈んだ声でなされた謝罪に、伍名はまたごくごく自然な動作で神依の頭をなで、またその気持ちを和らげるようにそのまま指先で髪をなぞり、頬をつついた。
 それが、かつて濡れそぼつ髪を直してくれた洞主のものと似ている気がして、神依はふと微笑む。
「伍名様……」
「悪かったね、私の言い方が良くなかった。あまりに稀なる花の色に、年甲斐もなく惑わされてしまったようだ」
「あ、いえ」
「神依。……お前は確かに稀人マレビトだ」
「まれ……びと?」
「ああ。淡島という共同体の外――海の彼方、山の奥などいわば異界ともいえる世界から訪れる、特別な存在。けれどもそれに、負い目や引け目を感じることはない。それは善きにしろ悪きにしろ、新たな流れを生み出すものでもある。一番良くないことは、滞ることだからね」
「滞る……」
「そう。金も物も、憎しみも愛情も。それが穢れというものだ。しかし、出会いは異質であればあるほど運命さだめでもある。むしろ、それこそが御令孫には好ましかったのであろう」
「そう……なんでしょうか」
「そうだとも」
その神が語ったことは、今日まで神依が背負ってきた心の荷をわずかに降ろしてくれたような気がした。
 ずっと一人、他の巫女たちに交じれぬまま時間だけが過ぎてしまった。禊もまた時折自分に何かを秘せ、この頃は少し距離を置かれるようになってしまった。
 だけどそれは――少なからず、自分が変だからだと思っていた。
「わたし……それでも、おかしくないですか?」
「無論。とても愛らしく、そして才ある巫女だ。御霊祭も、ずっと見ていたよ」
「……ありがとうございます」
ほう、と神依の肩から力が抜けるのを感じて、また部屋に入ってより初めて真っ正面から自身を見つめてくれた少女に、伍名はそれを心底喜ぶように顔をほころばせる。
 それから――その笑みの中にまた違うものを宿し、改めて禊や童を順に見ると、ゆっくりと言葉を続けた。
「それでは、肌を晒すに信を得るよう……まずは、神依。……お前の父の、話をしよう」
「…………え?」
「――伍名様」
あまりに思いがけない言葉に神依が呆けたように呟き、また先程の視線が何であったのかすぐさま理解した禊と童が目を見開く。
 しかし伍名はわずかな仕草でそれを留めると、再び神依をその穏やかな眼差しで、見つめた。
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