恋いろ神代記~縁離の天孫と神結の巫女~

嘉月まり

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第10章 連理

7※

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 その刹那、
「――一ノ兄!!」
闇も光も濁ったような空間を、一閃の幼い声が貫く。
 その声に禊は一瞬肩を震わせ、動きを停めた。
「……」
神の目が動く。蝋燭の火が空気の流れに揺らめく。壁の影が揺れる。心臓がドクドクと波打つのがわかって、体の感覚と意識がぷつぷつと小さな線で繋がっていく。禊は手にものすごい力が入っていたのに気付いて、その中でやわらかい何かが張り詰めているのに気付いて、その痛々しい感触に力を緩めた。
 そして数秒前に響いた声が誰のものか認識して、ようやく顔を上げてそちらを向いた。
「……、……一ノ弟?」
「一ノ兄……。もういいだろ、一ノ兄。姉ちゃんももうわかってる。わかってるから……」
「……」
「ごめんな……一ノ兄……」
今にも泣き出しそうな顔をしてうなだれる弟分を、禊は唐突に夢から醒めたような呆けた眼差しで見つめる。
 ただ一ノ兄と呼ばれるたびに体が和らぐ気がして、ああ自分はだったと自覚することができた。生意気でお喋りで、元気だけはありあまった……たくさんの才にあふれた弟の、ただ一人の兄。血のつながりはなくとも、互いに別のものでつながっている。
 見せかけの、本物以上の兄弟。
 そしてそれを自覚した途端、小さな小さな嗚咽おえつが空気に混じっているのに気付いた。
 見下ろせば、何よりも――自分の命よりも大切な主が、決してあってはならない姿で横たわっていて、両腕で顔を隠し泣きじゃくっている。
「み……より……様」
呟いた声は少女には届かない。ただ返されるのは、ごめんなさい、ごめんなさいという……今にも消えそうな、かすれた声で紡がれる謝罪の言葉。
 何を――彼女が謝ることがあるのだろう。
 この世界に彼女が謝らなければならないことなどないはずなのに。彼女の唇が紡ぐのは、あらゆる喜びや幸せの言葉だけでいいはずなのに。そうあるように、自分は〝禊〟として……肉体的にも精神的にも、あらゆるわざわいから彼女を遠ざけ……護らなければいけなかったのに。
(……俺は今……何をしていたんだろう)
 嫌な汗が顔ににじむ。なのに腰の辺りに痺れるような心地よさと熱が残り、それを自覚した途端、頭の中が真っ白に凍りついた。その寒気にざわっと肌が粟立あわだって、ビリビリと痛いほどに突っ張るのを感じた。
 喉が渇く。
 ごくりと唾を呑み込み視線を下にやれば、
「……ッ」
まだ硬さを保った己の雄が、眼前の女を今にも引き裂こうと、先端を花の中にうずめていた。
 ……それは、ひどく滑稽な映像だった。
 男になりきれなかった欲の形はこの上なく惨めで、無様で、だが滑稽であったからこそ、禊はたった今おのれがなしてきたすべてのことを瞬時に理解して――

 〝……一ノ兄は、絶対神依様を裏切ったりしない〟
 〝わたし……あなたを信じてる〟

――取り返しのつかないことをしてしまった後悔と悲しみと、自らに対する荒れ狂う怒りと憤りに、声すら出せず荒ぐ息を無理矢理に抑え奥歯を噛んだ。
「ッく……」
ギチギチと、自らそれを噛み砕かんばかりの渾身の力で噛んで、むしろそれでこの汚らわしい罪がそそがれるなら、喜んで口内を血に染めようと思った。それで足りないなら、数々の恐ろしい道具の使い方を自ら逐一丁寧に主に教示して、この体を差し出したかった。それで許されるなら肉片一つになっても構わないとさえ思った。
 その自傷の念とともに急速に冷めていく下半身の熱に、忌まわしい肉塊をゆっくりと引き抜けば……畳を濡らしたのは、微細な泡で白みを帯びた……透明に近い水の糸。
「ッ……は……はあッ……ああ……!」
そこにはたった今思い描いたような無惨な赤い色をしたものはなくて――そのせめてもの安心感に、禊は抑えたはずの息を吐き出し、むせぶ。
 寸でのところで――少女の純潔は、守られていた。
 彼女が幸福を得るため、神に捧げなければならないその身は、清らかなままだった。
 ……ふと聞き慣れない、穏やかな声が差し出される。
「……もう、いいのかい」
 そちらを見れば、暴挙の前と変わらぬ――それどころかそれ以上に優しく、痛みを帯びた笑みを浮かべる男神の姿があった。
 禊はなぜ、と問いかけにも似た恨みの言葉を紡ぎかけ、そのまま飲み込む。
 ――これは、ずっと己が心に溜め込んできた穢れ。愛情という、本当は何よりも尊いはずのものがわだかまって、こずみ、濁り、淀み、膿み、腐ったものだった。
 まだ蝉が鳴いていたころ主が問い、自らが口にした答えを形にしたもの。
 神はただ神依という器を薬でほんの少し溶かして歪め、その分厚い泥土の一部をさらりとなでたに過ぎない。しかしそれだけで、その淀は決壊して器からあふれた。
 器の歪みは消えない。ずっと痛々しく、その形のまま。それでもあのままでいたら……結ばれた二人を前に、腐った自分はさらなる暴虐を主にしていたかもしれない。神をも畏れぬ暴挙を、なしてしまったかもしれない。
「……っう……」
それを考えれば胸がずきずきと重く痛む。
 にじむ視界は、むせたからだろうか。けれど単なる生理反応なら、どうしてこんなに心臓が痛むのだろう。
 その胸の痛みは、あらゆる無念さを禊に刻んでいく。そして痛みを伴う記憶は、一生消えることはない。
 禊という従僕としてもあれず、ただ一人の男としてもあれない痛み。激痛。
 牙を剥いたはずの肉塊は今やこの上なく己の惨めさを表すものとなり、情けなくて、口惜しくて……。一番大切だったはずの存在に一番近い場所にいながら、なぜそれを果たせなかったのかと憤る自分と、それでも欲望のまま花をむしらなくて良かったと安堵する自分がいて、そのどちらもが意識の臓腑ぞうふをえぐっていく。
 そして禊はそれを血の生ぬるさだと思ったけれども、ぽたぽたと、ふっくらとして温かいその場所に、同じくらい温かく丸みを帯びた水が落ちていった。
「……みそぎ?」
「……神依……様」
 ややあって、もう聞き慣れた、耳触りの良い声で再びそう呼ばれたとき、禊はようやく頬に伝うそれに気付いた。
 神と童に支えられ体を起こしていた主は、やはりその頬に同じものを湛えていたが――どこかぽかんとした、これもまた見慣れた呆けた顔で、こちらを見ていた。愛しい愛しい、あどけない阿呆面。
「――…禊」
「……」
今度は「こっちへ来て」という声音で呼ばれたが、もうそれに従う資格は自分にはない。
 禊は衣だけ整えると神依から離れ、部屋の隅に向かうとただ座して頭を畳に擦りつけた。
「……申し訳ありません。私はもう、貴女様にそう呼んでいただく資格はありません」
「禊」
「貴女様のような優秀な巫女にはより優秀な禊がふさわしいと、私から洞主様に顛末てんまつをお話しいたします。このような醜態を晒して、一の位など……おこがましい。せめて貴女様の御心が安らぐよう、童は置いていきますので。幼いながら道理をわきまえ、けだものから貴女様を護った優秀な者です。ゆくゆくは、貴女様をたすける一の者となりましょう。ですからどうか、今まで通り懇意に」
「一ノ兄――」
 それを聞き、神依はもちろん童までもがみるみる目を丸くする。そして童はまた、禊が一番の下座にあるのは自分すら憚っているのだと悟って子供ながら苦々しく顔を歪め叫んだ。
「俺そんなの嫌だ! ぜってぇ嫌だからな!! 大体一ノ兄より優秀な禊がどこにいるんだよ、御霊祭だってそうだったろ!! だから俺だって一ノ兄を選んだのに――他の禊なんて寄越しやがったら、俺が追い払ってやるからな!!」
「一ノ弟!!」
「嫌だ!! 今は俺の方が偉いんだろ、だったら俺の言うこと聞けよ!! 俺だって――俺だって本当は、姉ちゃんと一ノ兄と、三人でずっと一緒にいたいんだよ……!」
「……」
 童はもう禊の威喝いかつを恐れなかった。そして瞬き一つせず、意地を張って瞳の上で涙を乾かしていたが……それも言葉ととめにやがて追いつかなくなる。
 そして誰よりも素直で子供らしい……恥も外聞も必要のない涙をぽろぽろとこぼして、神依に向き直った。
「ごめん――ごめんなさい、神依様。一ノ兄がああなったのは、俺のせいなんだ。だから、一ノ兄を嫌いにならないで」
「え?」
口早に告げられたそれに、神依は不思議そうに目を開く。
「俺が一番、一ノ兄のことよくわかってたのに。一ノ兄のこと一番理解して全部知ってる俺が、一番最後まで一番近くで一ノ兄の気持ち支えてやんなきゃいけなかったのに。俺が――俺が神様の方に近づいちゃったから。あのとき、御令孫が俺に優しくしてくれたから。あのとき俺が……一ノ兄の気持ち知ってたのに、一ノ兄から離れたから。だからきっと、一ノ兄は崩れちゃったんだ。でも俺、今度は間違えないから。だから一ノ兄を許して。嫌われるのが、一番辛いんだ。巫女やおかんなぎに好かれない禊は、本当に可哀想なんだ」
「童――」
「ごめんなさい……、ごめんなさい」
「ああ……」
 その必死の訴えに、神依は堪らず童を抱き寄せた。
 自身の無神経さが、禊だけではなくこんなに小さな子さえ傷付けてしまったことが切なくて、どうにかその願いをすくってやりたいとは思うけれど、今の気持ちは言葉にできない。
 淡島に流されたあの日から毎日一緒にいて、淡々と振る舞う禊を見てきた神依に取って――禊の涙は本当に稀で、特別なものだった。そしてそれは日嗣に似て、普段の振る舞いとはまったく異なるさまだけれど……一方で、それこそが彼らの本質なのだと今ならば痛いほどよくわかる。
 冷静に何かを語る様も、時折見せてくれる不器用な優しさも、悲憤に唸り、怒りにまかせ牙を剥くあの姿も。
 そのどれもこれもが人臭くて、いとおしいとも……怖いとも思える。
(でも……)
 それでも。
 叶うならば、隣で大事に見守ってあげたいと――そう思ったことは嘘ではない。
 それが本当に、禊に取って幸せなことなのかわからないけれど。また安易にその願いを口にすれば、いつかまた見えないところで見えない傷を付けてしまうかもしれないけれど……。
(……やっぱりわたし、禊に優しくないね……)
――そんな残酷なことを強いるくらいなら、奥社で洞主様や大兄さんと一緒に過ごさせてあげた方が幸せかもしれない。
 けれどそう思えばじわ、と涙が浮かび、神依にはどちらがいいのか決められなかった。引き留めていいのか、見送るべきなのか、わからなかった。
 ただお腹の辺りをそっとなでれば、涙の残滓が指先を濡らす。くすぐったい。
「……禊、こちらへ来なさい」
 そしてそんなふうに、神依が上手く言葉をまとめられないままいれば……代わりに口を開いたのは、伍名だった。
「――伍名――様」
その呼びかけに禊はふと顔を上げるが、しかしすぐにまた頭を垂れて拒絶の意を表す。
「それは――もはや私には許されないことです。私はもう……」
「たとえお前が神依の臣でなくとも、〝禊〟でさえなくとも。淡島の住人である以上、私の――神のしもべであることに変わりはない。こちらへ来なさい」
「……」
 相変わらずやわい声音で紡がれるその言葉だったが、その言い方は禊には抗えないものだった。
 禊は一度それに応えるように顔を上げると、神依を見、許しを乞うように再び頭を下げてから神の前に座り直す。しかしやはり、神依とも童とも目を合わせようとはしなかった。
「神依、お前にも辛い思いをさせてすまなかった。……彼が、怖いかい?」
「……」
 伍名は、青年を物言いたげに見つめる腕の中の少女に問う。そして神依は、少しの沈黙のあと緩く頭を横に振った。
 まったく怖くないと言えばやはり嘘になる。それでも……あの涙を見た時、ようやくいつもの禊に戻ってくれたんだ、という安堵の気持ちがあったのも事実だ。そして童もそれを信じている。
 胸元をくすぐった髪に、伍名はほのかに笑み、頷いた。
「……ありがとう。神依、禊、そして童。今夜のあらゆることが、お前たちには辛く、痛みを帯びるものだったかもしれない。けれどその痛みのどれもが、お前たちには必要なものであったことをわかってほしい。……というのは……神たる私の傲慢だが」
「……」
「禊、左手を出しなさい」
「……は……? ……はい」
禊は何を言われているのかわからず、しかしそれでも言われたとおりのろのろと左手を伸ばす。
 そしてそれをじっと見つめるかつての主の視線に、居心地の悪さとともにほのかな喜びを感じてしまう自分を救いようのない馬鹿だと自嘲していれば……その内の一本の指に、何かきらきらと光るものがまとわりついていることに気付いた。
「……!?」
 見間違いかと手を動かせば、それは細い細い光の筋となって揺らいで存在をあらわにする。その光の糸はへその尾のようにくるくるとして空中を漂い、手に合わせてその動きを収束させた。
 光の加減か、その糸の末は空気に混じって見えなかったが……。
「……伍名様……これは?」
それを問う神依の眼差しもまたその見えない糸を追い、神依自身の手をその瞳に映していた。腹の上で、心の残滓を抱いた手。
 伍名は神依のその手に自らの手を重ね、優しく腹をなでさせる。
「それが、縁というものだ。……禊。その指は、人の世では心の臓につながる指だと言われている」
「……心臓に?」
「そう、心に。……お前のそれはまだ間違いなく、神依のものと繋がっている。だから何も……恐れることはない。そしてやはり、諦めることはないんだよ。お前が一人の男として立ち上がるなら……御令孫かて、一人の男としてお前の正面に立ちはだかってくれるだろう」
「……」
「……これが今日まで耐えたお前に与えられる、私と猿彦のせめてもの慈悲だ。だから去るか残るか、お前が自分で選びなさい。……神依に朱印を刻みたい。先に申したとおり、そのみさおは守ろう。それでも……手伝ってくれるかい?」
「……」
 その問いに禊は長い長い時をかけて沈黙し、やがて頷く。
「……伍名様。貴方の娘が男泣かせなのは、きっと貴方の血のせいだ……と。どうか神依様の、父神様にお伝えください」
「おや。それは――…そうだな、一理ある。うん、心に留めておくようにしよう」
「――禊!」

***

 そうして神依は後に、
「姉ちゃんに尻尾が生えてくるならここからだよな」
「うん、そしたら鼠軼様に尻尾で物を取る方法を教えてもらうんだ」
「……ただでさえ貴女は振る舞いが奔放なのに、猿の位まで落ちるのは辞めていただきたいのですが」
と、ふざけて言葉を交わせるくらい、その夜のことを良い方に向かわせることができた。
 伍名の朱印は童が言うとおり、神依が自分で確かめるにはなかなか難しい場所に刻まれたが、禊や童いわく、土の色を混ぜたそおの色をしているという。
 しかし伍名が何を思ってその場所を選んだか、神依は問わない。伍名もまた朱印について語ることはなかったが、たまに訪れては二人で穏やかな時を過ごすこともあった。
 ただその日の晩、神が姿を消した後――しとしとと降り始めた薄い雨の中、禊はようやく、〝禊〟という自らのことについて、語り始めた。
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