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第11章 天津水
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「すまない……」
「……」
日嗣は心のまま、苦味を帯びた声で許しを乞うようにその言葉を告げる。だが……目の前の男ははなから諦めているかのように、傘をなお深く傾ける。そして、同じように低い声でそれを語った。
「神依様は……今、とてもお辛い状況にあられます」
「……」
「風や眼差しに乗せられる悪意に心を痛め、あまり家から出たがらなくなりました。稽古の場では、所作や舞以上に……外見や振る舞いに心ない中傷を受けたようで、食も細くなりました」
「……」
「しかし私には……そうなる前の、彼女のあり方がとても好ましいものだったのです。一時の痛みから逃そうと、あの方を狭い真四角の箱に詰め込むような、そんな真似をいたしたくはありません」
「……しかし、それをしなかったからこそ今あれは苦しんでいるのではないか。禊たるお前がなぜ――」
だがそれを口にしてすぐ、日嗣は嫌な気分になって軽く頭を横に振った。それでは……今までと何も変わらない。ただの、淡島の巫女の一人になるだけだ。
(本当は――解っている)
きっとこの禊がそれをしなかったからこそ、自分もまた、こんなにもあの娘が気になっている。
そしてそう思った瞬間、日嗣はあることに思い至った。
この禊もまた、まだ名を持たなかった少女の特異な漂着を目の当たりにしている。日嗣自身の衣にくるまった少女を見ている。その後、少女はまた海で……猿彦のまじないがかかった、ありえない場所で神々と再会した。その不可思議な縁も、きっと理解しているのだろう。
それに何より……この青年は、日嗣が秘めた朱印の存在を知っているのだから。
ならば、おそらく――。
「あるいはそれは……俺のためか。お前は俺の過去をも知っている。俺が淡島の巫女に……女としての巫女に関わらないことも知っている。だからわざと――」
「……それは私が申し上げることではありません。……ですが、もしも本当に……貴方様が我が主に神たる慈悲を降してくださると仰るのなら」
「……」
「……どうか、御自らお声をかけて差し上げて下さい。神依、とその名を口にし、その字を世に顕して差し上げてください。そしてできうる限りのお優しい声で、今日までの苦労をねぎらい、讃え、その沈んだ心を癒し、慈しむように笑んで差し上げてください。……貴方は決して、鋭き葉の神ではない。この国元すべての命を満たす、とても温かくて、甘くて、やわらかな……稲穂の神であらせられるのですから」
「……」
「どうか、貴方様が貴方様であるがままに……今の神依様にとっては、それが何より心安らぐものになるはずです。……私はすでに、猿彦様から慈悲を頂戴いたしました。ですから今度は……貴方様が我が主に」
「……俺は」
「……恐れないで差し上げてください。神依様はそれを決して拒まれません。ましてや、嗤い嘲ることなどなおございません。……あの方は、本当にお優しい方でいらっしゃいます。それをどうか、疑わないであげてください。そしてどうぞ、此度こそは」
「……」
「……恋を、なさってください。とても幼く、残酷で、我儘で、無責任で……けれどもそのぶんだけ、美しい恋を。……貴方がた神々は、そうして命をつないできたのですから……どうぞ、今度こそ……恋を、なさってください」
その言葉に、日嗣はもう何を返す必要もなかった。
***
(……これはあのときの夢、だ)
と、そこで日嗣は不意に覚る。
***
あの緋に染まる雲海で、そしてこの雨の淡島で……少女と、少女のもっとも近くにいる人間からもたらされた同じ言葉。日嗣以外に知る者のない兆しが、再び違う形で目の前に現れた。
そしてまるできっかけをくれるように、青年は手にした傘を捧げてくれる。
しかしそのときの日嗣は、それを取る前に問わずにはいられなかった。
「お前は……自分が何を言っているか、わかっているのか」
「……」
青年は答えない。けれどもその心境は容易く想像できた。
――やはりこの禊は、もう諦めているのだ。〝天孫〟たる己に臆したか、それとも不必要に自分自身を見下げているのか、立ち向かう気概もなく顔を伏せてはその心を閉ざしていく。
「……」
日嗣が傘を取れば、禊は立ち上がり深く深く頭を下げた。そして……一度も目を合わせることなく、踵を返す。
「――お前は本当に、それでいいのか。俺の想いこそまだ、お前のものに及ばぬというのに――お前は本当に、それでもいいのか!」
「……」
返事はない。それどころか、立ち止まる素振りもなく来た道を戻っていく。
(……馬鹿者が)
日嗣はそれを見送り、苦々しく手にした傘を見つめる。いっそ目の前に立ちはだかって、胸ぐらをつかんで責め立てるなり殴りかかってくるなりしてくれた方が、どんなに楽だったか知れない。
それでも……その青年は、日嗣が欲しかったものすべてを無償で与えてくれた。日嗣を日嗣として顕し、己が最も大切に想うものをゆだねてくれた。
……その痛々しいほどの優しさを、これ以上つまらぬ悪意に蹂躙されたくはなかった。
だからこそ、日嗣は傘とともに託された想いを得て、神楽殿へと足を向ける。肩に登っていた子龍はきょろきょろと二人を見比べていた。
しかし、
「――日嗣様」
その刹那、あり得ないことが起こって日嗣はその進みかけた足を止めた。
(今のは……何だ?)
こんなことは……あのときにはなかった。
あのときは、そこで別れて終わりだったはずなのに……不意に背後から、その青年の声で名を呼ばれて……日嗣はわけもわからず振り返った。今までどの〝禊〟にだってそれをされたことはなかったのに、なぜここでそれをされたのか、確かめたかった。
「――…!」
そして振り返った瞬間に一変した景色に目を眩ませ、日嗣は思わず息を呑む。
世界が反転する。そう感じるほどに、空気が光を纏い、翻していく。
雲の隙間から何本も射す光の筋。それが次々と重なり、紗となって雲海に棚引く。
そのやわらかな光は名残の雨をきらきらと照らし、青年を白く染め上げていた。澄んだ空気の向こうには、空も緑も瑞々しく――ただ一人、たった一人のその青年の飾らぬ美しさを際立たせる。
お天気雨だった。
その色はあの、御霊祭の終わりのようで――日嗣は時間が混ざったその空間で、ようやく、初めてその青年と向き合った。
「……ご無礼とは思えど、今日はあの雨の日にお伝えしたことを改めさせていただきたく、ここに参りました」
「……」
今や青年は、背に侍らす空と同じように――否、それよりも清々しく晴れやかな顔をしていた。そして傘を持っていたはずの手にはいつの間にか一筋の稲穂が握られ、そのすぐ下には見覚えのない水晶の紐飾りが結ばれていた。
出来の悪い紐飾り。けれどそれに、見た目以上の価値があることはすぐに察せられた。一生懸命に綿をいじっていた少女。玉造りに励んでいた子供。それを見守る小さな神々たち。あの紐飾りには、きっとたくさんの心が編み込まれて、結ばれている。
日嗣は何だか自分だけあの薄暗い空の下に置き去りにされたようで、少しそれに嫉妬した。この男はきっと、自分がまだ得ていないそれを得て、こんなにも変わったのだ。
そしてそれを誇るかのように、男は言葉を続ける。
「あの日の私の言葉は、ただいくつかの事実を除いて……すべてまやかしでした」
「……知っている」
「はい。けれどそれでも……今日もまた、私は同じ言葉を紡がなければなりません。……覚えていらっしゃいますか?」
「……」
「……その沈黙もまた、答えなれば」
ひとときの間に浮かんだのは……憑き物が落ちたかのような清かな笑み。そして告げられたのは、
「……どうか、恋をなさって下さい。それが許されない、私のぶんまで」
「――禊……」
「私は待てます。幾星霜を経ろうとも」
「……」
「だからどうか……今度こそ恋をして、愛を知ってください。私の大切な方を、私と同じくらい大切に慈しんであげてください。その命の器を、いっぱいに満たしてあげてください。そうすれば……きっといつか、今度は神依様が私にその楽しさを教えてくださる。だから私は今度こそ、心からそれを貴方に託せます」
「……、……なぜ……」
「さあ、どうしてでしょう」
ふっとその表情を意地の悪い笑みに変える青年。今まで見たこともない表情。それがきっと、ごく親しい者だけに見せる顔だということに気付いて、日嗣もまた苦々しく唇の端を上げる。
次に会うとき、きっともうこの青年との間には何の隔たりもない。淡島の住人として、神たる自分に礼は尽くしてくれるだろうが、今までとはきっと異なる。
猿彦ともまた違う――友となれるだろうか。あるいは好敵手か。それでも――それでも互いに譲り難い大切な存在を、一緒に護っていける。また自分が間違いを犯しそうになったときは、この男がそれを示してくれるだろう。
「お前は……本当にそれで、いいんだな」
「はい」
「…………すまない」
「謝ることはありません。……貴方がたは本当に……一体何に対して謝っていらっしゃるのですか」
青年は何かを思い出したように、苦笑してみせる。
「いや……なら、……ありがとう」
ただ謝るなと言うから代わりの言葉を紡げば、青年は満足そうに頷いた。そしてそれは、日嗣にはとても――心地よい。
そしてそれは青年も同じだったようで、また夕餉でも食べにいらしてください、と何事もなかったかのように一礼し、日嗣に稲穂を差し出すと、今度こそ家の方へと戻っていく。
稲穂を受け取るのと同時に、肩に乗っていた子龍もその青年の腕に戻り、元ある世界へ帰っていく。
……少女が神依となった日。停滞していた自分に、神託がもたらされたあの日。あの日から常に神依の側にあり、暮らしをともにしている不思議な龍の子。
あの存在に、何か意味があるのかないのか――だがそれも、きっと無理矢理に暴くこともないのだろう。
手の中の稲穂は、少しずつ優しい光の泡になって肌や衣に触れ、消えていく。代わりに心の奥が温かくなって、満たされていく。やわく不器用な、けれども純で素朴な信仰。それを飢えた魂が食み、喜んでいく。
それを感じた日嗣は、小さくなっていく青年の背にゆっくりと頭を垂れた。
何かを捧げられなければ、神は存在できないのだから。それを差し出してくれた優しい男に、日嗣はただ一柱の神として、ただ一人の人間として頭を下げた。
そして再び顔を上げた瞬間――
「――神依……!?」
またもや一変したその景色に、日嗣は焦燥とともにその名を呼んで、目を覚ました。
***
薄暗い室内。殺風景な部屋。
日嗣はそこが、高天原の私宮であることを思い出して――しかし得体の知れない恐怖に包まれたまま、体を起こした。
(今のは……)
空気はひんやりと冷たいもののはずなのに、汗が額に滲んできた。嫌な汗。それを拭おうと目を閉じれば、瞼の裏に先程の夢の情景が浮かぶ。
……青年が向かった先の世界は、一瞬のうちに夜の帳に包まれて……その深黒の世界に向かう後ろ姿は、いつの間にか神依のものになっていた。
奈落に呑み込まれていく少女を留めようと、声を上げたのに間に合わない。闇は裂かれた繭玉のように不揃いな黒糸となり、その糸は蛭のようにうねって神依にまとわりつく。……しかし神依はそれに気付かぬまま、ゆっくり、ゆっくりとその身を蟲の塊に浸していく。
(神依……。……神依……!)
これは恐らく、ただの夢ではない。すぐに淡島に降りた方がいい。
そう感じて急ぎ布団を除ければ、日嗣が目覚めたことに気付いた控えの小舎人が障子の向こうに姿を見せた。
「お目覚めのところ申し訳ありません……御令孫」
遠慮がちに告げられる言葉。
「何だ」
やや苛立ったように答えれば、影はいっそう深く頭を下げて先を続けた。
「御令孫にお目通りをと……少し前より、伍名様がいらしております」
「……伍名?」
日嗣はその思いがけない名前と時間に、怪訝そうに眉をひそめる。
まだ早い時間。自分を――というより、常識を考えれば人を訪ねるにはあまりに礼を欠く時間。
……淡島は、進貢の時間だった。
「……」
日嗣は心のまま、苦味を帯びた声で許しを乞うようにその言葉を告げる。だが……目の前の男ははなから諦めているかのように、傘をなお深く傾ける。そして、同じように低い声でそれを語った。
「神依様は……今、とてもお辛い状況にあられます」
「……」
「風や眼差しに乗せられる悪意に心を痛め、あまり家から出たがらなくなりました。稽古の場では、所作や舞以上に……外見や振る舞いに心ない中傷を受けたようで、食も細くなりました」
「……」
「しかし私には……そうなる前の、彼女のあり方がとても好ましいものだったのです。一時の痛みから逃そうと、あの方を狭い真四角の箱に詰め込むような、そんな真似をいたしたくはありません」
「……しかし、それをしなかったからこそ今あれは苦しんでいるのではないか。禊たるお前がなぜ――」
だがそれを口にしてすぐ、日嗣は嫌な気分になって軽く頭を横に振った。それでは……今までと何も変わらない。ただの、淡島の巫女の一人になるだけだ。
(本当は――解っている)
きっとこの禊がそれをしなかったからこそ、自分もまた、こんなにもあの娘が気になっている。
そしてそう思った瞬間、日嗣はあることに思い至った。
この禊もまた、まだ名を持たなかった少女の特異な漂着を目の当たりにしている。日嗣自身の衣にくるまった少女を見ている。その後、少女はまた海で……猿彦のまじないがかかった、ありえない場所で神々と再会した。その不可思議な縁も、きっと理解しているのだろう。
それに何より……この青年は、日嗣が秘めた朱印の存在を知っているのだから。
ならば、おそらく――。
「あるいはそれは……俺のためか。お前は俺の過去をも知っている。俺が淡島の巫女に……女としての巫女に関わらないことも知っている。だからわざと――」
「……それは私が申し上げることではありません。……ですが、もしも本当に……貴方様が我が主に神たる慈悲を降してくださると仰るのなら」
「……」
「……どうか、御自らお声をかけて差し上げて下さい。神依、とその名を口にし、その字を世に顕して差し上げてください。そしてできうる限りのお優しい声で、今日までの苦労をねぎらい、讃え、その沈んだ心を癒し、慈しむように笑んで差し上げてください。……貴方は決して、鋭き葉の神ではない。この国元すべての命を満たす、とても温かくて、甘くて、やわらかな……稲穂の神であらせられるのですから」
「……」
「どうか、貴方様が貴方様であるがままに……今の神依様にとっては、それが何より心安らぐものになるはずです。……私はすでに、猿彦様から慈悲を頂戴いたしました。ですから今度は……貴方様が我が主に」
「……俺は」
「……恐れないで差し上げてください。神依様はそれを決して拒まれません。ましてや、嗤い嘲ることなどなおございません。……あの方は、本当にお優しい方でいらっしゃいます。それをどうか、疑わないであげてください。そしてどうぞ、此度こそは」
「……」
「……恋を、なさってください。とても幼く、残酷で、我儘で、無責任で……けれどもそのぶんだけ、美しい恋を。……貴方がた神々は、そうして命をつないできたのですから……どうぞ、今度こそ……恋を、なさってください」
その言葉に、日嗣はもう何を返す必要もなかった。
***
(……これはあのときの夢、だ)
と、そこで日嗣は不意に覚る。
***
あの緋に染まる雲海で、そしてこの雨の淡島で……少女と、少女のもっとも近くにいる人間からもたらされた同じ言葉。日嗣以外に知る者のない兆しが、再び違う形で目の前に現れた。
そしてまるできっかけをくれるように、青年は手にした傘を捧げてくれる。
しかしそのときの日嗣は、それを取る前に問わずにはいられなかった。
「お前は……自分が何を言っているか、わかっているのか」
「……」
青年は答えない。けれどもその心境は容易く想像できた。
――やはりこの禊は、もう諦めているのだ。〝天孫〟たる己に臆したか、それとも不必要に自分自身を見下げているのか、立ち向かう気概もなく顔を伏せてはその心を閉ざしていく。
「……」
日嗣が傘を取れば、禊は立ち上がり深く深く頭を下げた。そして……一度も目を合わせることなく、踵を返す。
「――お前は本当に、それでいいのか。俺の想いこそまだ、お前のものに及ばぬというのに――お前は本当に、それでもいいのか!」
「……」
返事はない。それどころか、立ち止まる素振りもなく来た道を戻っていく。
(……馬鹿者が)
日嗣はそれを見送り、苦々しく手にした傘を見つめる。いっそ目の前に立ちはだかって、胸ぐらをつかんで責め立てるなり殴りかかってくるなりしてくれた方が、どんなに楽だったか知れない。
それでも……その青年は、日嗣が欲しかったものすべてを無償で与えてくれた。日嗣を日嗣として顕し、己が最も大切に想うものをゆだねてくれた。
……その痛々しいほどの優しさを、これ以上つまらぬ悪意に蹂躙されたくはなかった。
だからこそ、日嗣は傘とともに託された想いを得て、神楽殿へと足を向ける。肩に登っていた子龍はきょろきょろと二人を見比べていた。
しかし、
「――日嗣様」
その刹那、あり得ないことが起こって日嗣はその進みかけた足を止めた。
(今のは……何だ?)
こんなことは……あのときにはなかった。
あのときは、そこで別れて終わりだったはずなのに……不意に背後から、その青年の声で名を呼ばれて……日嗣はわけもわからず振り返った。今までどの〝禊〟にだってそれをされたことはなかったのに、なぜここでそれをされたのか、確かめたかった。
「――…!」
そして振り返った瞬間に一変した景色に目を眩ませ、日嗣は思わず息を呑む。
世界が反転する。そう感じるほどに、空気が光を纏い、翻していく。
雲の隙間から何本も射す光の筋。それが次々と重なり、紗となって雲海に棚引く。
そのやわらかな光は名残の雨をきらきらと照らし、青年を白く染め上げていた。澄んだ空気の向こうには、空も緑も瑞々しく――ただ一人、たった一人のその青年の飾らぬ美しさを際立たせる。
お天気雨だった。
その色はあの、御霊祭の終わりのようで――日嗣は時間が混ざったその空間で、ようやく、初めてその青年と向き合った。
「……ご無礼とは思えど、今日はあの雨の日にお伝えしたことを改めさせていただきたく、ここに参りました」
「……」
今や青年は、背に侍らす空と同じように――否、それよりも清々しく晴れやかな顔をしていた。そして傘を持っていたはずの手にはいつの間にか一筋の稲穂が握られ、そのすぐ下には見覚えのない水晶の紐飾りが結ばれていた。
出来の悪い紐飾り。けれどそれに、見た目以上の価値があることはすぐに察せられた。一生懸命に綿をいじっていた少女。玉造りに励んでいた子供。それを見守る小さな神々たち。あの紐飾りには、きっとたくさんの心が編み込まれて、結ばれている。
日嗣は何だか自分だけあの薄暗い空の下に置き去りにされたようで、少しそれに嫉妬した。この男はきっと、自分がまだ得ていないそれを得て、こんなにも変わったのだ。
そしてそれを誇るかのように、男は言葉を続ける。
「あの日の私の言葉は、ただいくつかの事実を除いて……すべてまやかしでした」
「……知っている」
「はい。けれどそれでも……今日もまた、私は同じ言葉を紡がなければなりません。……覚えていらっしゃいますか?」
「……」
「……その沈黙もまた、答えなれば」
ひとときの間に浮かんだのは……憑き物が落ちたかのような清かな笑み。そして告げられたのは、
「……どうか、恋をなさって下さい。それが許されない、私のぶんまで」
「――禊……」
「私は待てます。幾星霜を経ろうとも」
「……」
「だからどうか……今度こそ恋をして、愛を知ってください。私の大切な方を、私と同じくらい大切に慈しんであげてください。その命の器を、いっぱいに満たしてあげてください。そうすれば……きっといつか、今度は神依様が私にその楽しさを教えてくださる。だから私は今度こそ、心からそれを貴方に託せます」
「……、……なぜ……」
「さあ、どうしてでしょう」
ふっとその表情を意地の悪い笑みに変える青年。今まで見たこともない表情。それがきっと、ごく親しい者だけに見せる顔だということに気付いて、日嗣もまた苦々しく唇の端を上げる。
次に会うとき、きっともうこの青年との間には何の隔たりもない。淡島の住人として、神たる自分に礼は尽くしてくれるだろうが、今までとはきっと異なる。
猿彦ともまた違う――友となれるだろうか。あるいは好敵手か。それでも――それでも互いに譲り難い大切な存在を、一緒に護っていける。また自分が間違いを犯しそうになったときは、この男がそれを示してくれるだろう。
「お前は……本当にそれで、いいんだな」
「はい」
「…………すまない」
「謝ることはありません。……貴方がたは本当に……一体何に対して謝っていらっしゃるのですか」
青年は何かを思い出したように、苦笑してみせる。
「いや……なら、……ありがとう」
ただ謝るなと言うから代わりの言葉を紡げば、青年は満足そうに頷いた。そしてそれは、日嗣にはとても――心地よい。
そしてそれは青年も同じだったようで、また夕餉でも食べにいらしてください、と何事もなかったかのように一礼し、日嗣に稲穂を差し出すと、今度こそ家の方へと戻っていく。
稲穂を受け取るのと同時に、肩に乗っていた子龍もその青年の腕に戻り、元ある世界へ帰っていく。
……少女が神依となった日。停滞していた自分に、神託がもたらされたあの日。あの日から常に神依の側にあり、暮らしをともにしている不思議な龍の子。
あの存在に、何か意味があるのかないのか――だがそれも、きっと無理矢理に暴くこともないのだろう。
手の中の稲穂は、少しずつ優しい光の泡になって肌や衣に触れ、消えていく。代わりに心の奥が温かくなって、満たされていく。やわく不器用な、けれども純で素朴な信仰。それを飢えた魂が食み、喜んでいく。
それを感じた日嗣は、小さくなっていく青年の背にゆっくりと頭を垂れた。
何かを捧げられなければ、神は存在できないのだから。それを差し出してくれた優しい男に、日嗣はただ一柱の神として、ただ一人の人間として頭を下げた。
そして再び顔を上げた瞬間――
「――神依……!?」
またもや一変したその景色に、日嗣は焦燥とともにその名を呼んで、目を覚ました。
***
薄暗い室内。殺風景な部屋。
日嗣はそこが、高天原の私宮であることを思い出して――しかし得体の知れない恐怖に包まれたまま、体を起こした。
(今のは……)
空気はひんやりと冷たいもののはずなのに、汗が額に滲んできた。嫌な汗。それを拭おうと目を閉じれば、瞼の裏に先程の夢の情景が浮かぶ。
……青年が向かった先の世界は、一瞬のうちに夜の帳に包まれて……その深黒の世界に向かう後ろ姿は、いつの間にか神依のものになっていた。
奈落に呑み込まれていく少女を留めようと、声を上げたのに間に合わない。闇は裂かれた繭玉のように不揃いな黒糸となり、その糸は蛭のようにうねって神依にまとわりつく。……しかし神依はそれに気付かぬまま、ゆっくり、ゆっくりとその身を蟲の塊に浸していく。
(神依……。……神依……!)
これは恐らく、ただの夢ではない。すぐに淡島に降りた方がいい。
そう感じて急ぎ布団を除ければ、日嗣が目覚めたことに気付いた控えの小舎人が障子の向こうに姿を見せた。
「お目覚めのところ申し訳ありません……御令孫」
遠慮がちに告げられる言葉。
「何だ」
やや苛立ったように答えれば、影はいっそう深く頭を下げて先を続けた。
「御令孫にお目通りをと……少し前より、伍名様がいらしております」
「……伍名?」
日嗣はその思いがけない名前と時間に、怪訝そうに眉をひそめる。
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