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第13章 墨染めの恋
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神依の家がある浮島近くの雲海が裂け、二人の神が姿を現したのはそのすぐ後だった。
伍名の言うとおりすぐに日嗣に呼び出された猿彦は、その強面の面に複雑な表情を隠しながら、いつもと同じように日嗣をその場所に導く。
ここに来るまでの瞬きの間――それでもその間は日嗣にも猿彦にも長く重たく感じられたが、猿彦は日嗣にかける言葉を見つけることができなかった。伍名が話を上げた天津神の正体を知り、その気性を知り……後悔はしていないが、不安はある。
それに加え、ことのあらましを聞き発端が自分であったことを知ったはずの日嗣さえ何も言わない。呼び声を聞いた時は怒っているのかと思ったが、焦っているのだとわかって殊更かける言葉は薄れていった。
ただそれを問うこともできないほど一人の少女を想えるようになっていることに……友自身は気付いているのだろうか、と心の片隅で思う。
「……何だこりゃ……」
そんな複雑な心境で道を開き地に降り立った瞬間、その浮島を囲っていたはずの結界の有り様を目にして言葉を失った。
あの鼠神はなかなか優秀で、島に入るには必ず竹林の小路と門を潜らなければならないはずだったのだが……その小路に続く跳び石の手前まで来れば、結界は一閃――地から空まで大きく斜めに裂かれており、今は力なくゆらゆらと、赤気のように風に流れるのみとなっていた。
きっと来訪者を拒んだのだろう。しかしその来訪者は、力尽くでそれを破った。
けれどもそれを視ることができない日嗣は気にしたふうもなく、足早に跳び石を渡っていく。
「――?」
そしてその道の先で、一匹の兎が行ったり来たりを繰り返しているのを見付けて足を止めた。この小島で初めて目にする、薄い桃色の毛。
(あれは……因幡兎?)
それは先程まで対していた男神の眷属。昔、伍名が救った兎神の一族の者だった。
「お前は――」
「……!」
日嗣が近づけば、兎神はその小さな体をなおすくませて耳を倒し、丸石のように固まってしまう。しゃがんで手を差し伸べれば体が小刻みに震え出し、極度に怯えられていることに気付いた日嗣は、その恐怖の中に月の神の残像を見た気がして再び立ち上がった。
後から来た猿彦もそれを一瞥し、家の方へと向かう。
……門をくぐった先は、しんと静まり返っていた。
「……」
日嗣は眉を寄せ、辺りを窺う。
物伝いに聞こえる食器が触れ合う音、忙しなく行き交う小さな足音、想い人の笑う声……昨日まではそんな、家に近付くたびに感じられる人の気配が好きだったのに。
なのに今はそれらすべてが失せて、一気に廃墟と化したかのように思えた。そしてその錯覚を後押しするように、蜘蛛の糸が木々の枝先や竹垣に絡まり、末を風に遊ばせている。
「――見ろ、孫」
「……!」
さらに友に促された方を見れば、そこには無惨に破壊された屋敷神の祠が佇んでいた。
祠に近づいた猿彦は、その太刀筋が結界を斬ったものだと気付き、面の下で眉を寄せる。一方日嗣は、視界の中に一ヶ所だけ開いている雨戸を見つけ……その奥の暗闇に得体の知れない恐怖を感じながら、そちらへ向かった。
(神依……)
いつも神依が迎えてくれる縁側はひんやりと冷たく、軒先の小さな神棚にもあの女神の気配は感じられなかった。
何か、悪い異変があったのはもう間違いない。しかし……それを確かめるのも怖い。
(だが……)
〝……貴方はいつも、人を愛する覚悟が足りない。〟
(……行かないわけにはいかない)
たとえ幻想であったとしても、結ばれた像の中で一度は己に捧げられた神婚の贄。あのハレの日の光景をもう一度、今度はこの世界で見ることができたなら。
あの清廉な娘を……この腕に抱きしめ、胸に寄せることができたなら。
「……」
そう思って日嗣はゆっくりと、雨戸に触れる。
雨戸は少し建て付けが悪かったようで、それ以上は開けなかった。着替える間もなく、かさばるだけでもはや邪魔とも思える衣を寄せて中に上がると、何かを燃やしたのだろう灰の臭いが鼻をつく。
(何だこれは……いや)
今はそれよりも、家人の安否だ。それを思って真っ先に足が向いたのは、縁側の脇にある神依の部屋だった。
「神依……?」
本来は日当たりもよく、天気のいい日中は障子を開けていることもあった部屋。だが、今は閉め切られ呼びかけても気配すら感じられない。ただ廊下の先を見れば点々と窓や襖が開けられており、日嗣はそれを追ってみることにした。もともと、広くはない家だった。
「……」
歩を進めれば時折ぎし、と床が鳴って、ひどく不気味なものに思える。たった数歩のはずが長く長く感じられて……その部屋に辿り着いたときは、もう数刻を費やした心地になっていた。
そこは日嗣でさえ立ち入ったことのない部屋。家の中でもっとも間取りの良いその部屋は、日嗣らが訪れる時は襖に秘され、もしかしたら神依はただの客間程度にしか思っていなかったかもしれない。
その部屋の、わずかに開いた襖からは橙色の灯が漏れて――
「……」
「……っ!?」
少しの勇気とともにスッとそれを開いた瞬間、驚愕に息を呑む音と眼差しが、紫電の如く日嗣の胸を貫いた。
***
「ぁ……あぁ」
その中で真っ先に目が合った少女は、その途端あの兎のように身を強張らせて唇を震わせた。
「み……より……」
神依は禊と童に支えられ、かろうじて半身を起こしていた。真っ先に我に返った禊が慌てて手にしていた浴布で体をくるみそれを隠そうと抱き寄せるが、もうそのときには十分すぎるほど、その惨状は日嗣の瞳に映ってしまっていた。
神依が身に着けるのは、ただ腰や足にまとわりつくだけの倭文布の帯と、ぼろぼろに裂かれ褥や畳に布片を散らす衣。見慣れぬ簪で留められていた髪も乱れて解けかかっており、血の気の失せた白い肌にはらはらと流れていた。
禊が手にしていた浴布には白く粘ついたものの残滓も残っており、部屋中に散らばる道具の数々と合わせてもそこで何が行われていたかは明白で……最初に感じた何かを燃した臭いも、酒の臭いも、また何か違うものの臭いも、そのこもった空気の中に感じられた。
否定のしようがない、情事の跡。
何よりその証としてある……打たれた頬の痛みを癒すかのように顔に添えられていた指の、その隙間から覗く……銀朱の印。
神依の頬には、まるでこれは自分のものだといわんばかりに、ある神の朱印が刻まれていた。
「……ッ」
日嗣も神依も何も言葉を発することができず、ただ苦痛に顔を歪める。しかしその沈黙の中、互いの空気が一変したことにも気付いてしまった。
引き潮のようにざあっと後退していくそれは、互いに見てはいけないものを見てしまった、見られたくないものを見られてしまった、後悔や無念さを現したもの。
そして神依には、その感覚がどういうものか痛いほどわかってしまった。これはそのまま……かつて黄泉国で〝母〟が味わった羞恥と絶望。その場面を、今度は自分が淡島で再現してしまったのだ。
何の準備もないまま。説明も言い訳も許されないまま。
――嫌われる。
神依が思ったのは、ただそれだけだった。
「……ご……ごめん、なさい……」
日嗣の耳に、布擦れほどもか細い神依の声が届く。神依は日嗣の言葉も待たず、頬に流れる髪をかき寄せ、さらに禊の腕に隠れるように体を縮めた。しかし顔を背けたその背には何か強く打ったような痕もあって、どんな仕打ちを受けたのか日嗣自身にもその一端が垣間見れた。目を凝らせば、他にもところどころ赤い痣がある。
それが暴力によるものとそうでないもの両方だともわかったが、どちらにしても――ひどく、痛々しい。
(……わかっている。伍名がこれを暗に示したなら、神依が謝るようなことは何もない……。だから……謝らなくていい。……しかし……)
しかしどうしてやるのが一番いいのか、日嗣にはわからなかった。
暴力と凌辱の傷痕。また褥や衣に破瓜の証こそなけれど、その頬には長年この淡島にあってさえ見たことのない、露骨な寵愛の証があって――。
あまりの事態に、何を言葉にすべきなのかわからなかった。ただその姿があまりに痛々しくて、いじらしくて。
「……、……大叔父上だな」
「ですが――ですが操は守られております……! 神依様は荒ぶる神の暴威にも耐え忍び、辱めにも屈することなく、貴方様のためにその身の純潔と誇りをお守りになったのです! 御令孫におかれましては、どうか――」
「……」
結局かけてやるべき言葉も見付からず禊に意味をなさない問いをすれば、堰を切ったように、なお一途にその想いを捧げられ……そのどうしようもない苦渋に日嗣はぐっと拳を握りしめ、無言のままわかっている、と頷いて答えた。
ただやはり何をするべきなのかがわからず、それでも神依に自分の心のひとかけらでも触れてもらいたくて……なるべく怖がらせないように隣にひざまずけば、その気配を感じたのか、一瞬視線がこちらに向けられた。
「……すまない。……俺が……」
もっと早く駆けつけていれば。
日嗣はその謝罪とともに精一杯の思いやりを乗せて、一度は握りしめた拳をほころばせ、その腫れた頬を抱こうと手を伸ばす。ところが――
「――触らないで!」
「……ッ」
日嗣に返されたのは、あまりに哀しく、あまりに鋭い、その一言だった。
「み……神依……」
「神依様……」
まさか神依が拒絶するとは思わなかった二人は呆然と、突然声を荒げた少女の上で視線を交差させる。
日嗣は宙に浮いたままの手をどうしていいかわからず、ただただ顔を歪める少女を、今にも涙があふれそうなその瞳を見ていた。
そしてふと、拒まれたのは自分がこの暴挙をなした大叔父に似ているからかと思い至る。しかし、だとしたら……この凌辱の傷はいつになったら癒えるのだろう。
もはやこの腕に抱くことなど不可能なのではないか。禊にはその身をゆだねているのに、その弱った心をすがりつかせているのに……、もう自分にはそれが許されない。
ならばいっそ、この身をすべて変えてしまえばいいのか。髪を断ち肌を焼き、似ても似つかぬ姿になれば。
しかしそれでもこの娘は受け入れてくれるだろうか。醜男だと罵られ、禊の方に心を傾かせてしまうのではないか。
原初の男神と女神のように……あたかもその復讐のように、今度は女が逃げ出してしまうのではないか。
そう思えば、魂まで慟哭しているかのような、そんな心地になった。宙にあった手は自然と胸元に戻り、痛みを痛みで抑えるように折り重なった衣をきつくつかむ。
「すま……ない。俺に触れられるのは……今は、嫌だろうな……」
「っ……ご、ごめ……なさい、……そうじゃ、なくて」
眉を下げ、拒まれた苦痛とともに、自分を見るでもなく呟く日嗣に、神依はその強張った顔の筋肉を何とか動かし、歪な笑顔を浮かべてみせる。
――目の前にある男神が、ずっとひとりぼっちだったことを忘れていた。本当は怖がりで、でもそのぶん優しくて……櫛をくれたときだって、同じように聞いてくれたのに。嫌なんかじゃなかったのに。だから本当は、拒絶してはいけなかったのに。
だけど……。
だけど今日は高天原で何か、大事な祭祀があったのだろうか。きっとそこから無理に駆け付けてくれたんだと、神依は精一杯、その心を酌もうと笑った。
「わ……わたし……、その、お酒、こぼしたり……寝不足で、気持ち悪くなって……」
「……」
「き……汚い、から……。でも日嗣様は……今日は、なんだか……特別な、格好してるから……」
「神依――」
「……汚しちゃ、いけないと思って……」
「……ッ」
しかしその言葉は互いの罪悪感を深めただけで、互いの優しさを交じらせることは決してなかった。
泣き笑いの表情を浮かべ、こんな状況にも関わらずそんな言葉を必死で紡いでくれた少女に、日嗣はたしかにいじらしさを感じていた。けれどそんな姿を見せてくれるほどに、何もしてやれなかった自分が情けなく思えてくる。何も知らなかった自分が赦せなく思えてくる。
こんな虚ろな装束のために拒絶され、こんな形だけの自分のために、あの痛みに慣れていないやわらかな身を傷付けさせて――そのやるせなさを、思いやりに変えてなでてやることすらできない。
ただ自分の無力さと愚かさ加減とに行き場のない怒りを覚え……唯一それをぶつけるにふさわしい者を恋しい少女の頬に見つけた日嗣は、
「――大叔父上ェ……ッ!」
剥き出しの歯を見せ、獲物を囲う獣のように引き絞った声で唸ると、立ち上がって一気にその身を翻した。
「孫――」
「どけ!」
背後にあった猿彦さえ突き飛ばし廊下を駆け抜ける日嗣に、猿彦はただ無言のままそれを見送る。
それからその慌ただしい音が消えた頃、同じようにその先を見つめる者たちの視線に気付くと……やはり無言のままに彼らの前に座して、その巨体を曲げた。
伍名の言うとおりすぐに日嗣に呼び出された猿彦は、その強面の面に複雑な表情を隠しながら、いつもと同じように日嗣をその場所に導く。
ここに来るまでの瞬きの間――それでもその間は日嗣にも猿彦にも長く重たく感じられたが、猿彦は日嗣にかける言葉を見つけることができなかった。伍名が話を上げた天津神の正体を知り、その気性を知り……後悔はしていないが、不安はある。
それに加え、ことのあらましを聞き発端が自分であったことを知ったはずの日嗣さえ何も言わない。呼び声を聞いた時は怒っているのかと思ったが、焦っているのだとわかって殊更かける言葉は薄れていった。
ただそれを問うこともできないほど一人の少女を想えるようになっていることに……友自身は気付いているのだろうか、と心の片隅で思う。
「……何だこりゃ……」
そんな複雑な心境で道を開き地に降り立った瞬間、その浮島を囲っていたはずの結界の有り様を目にして言葉を失った。
あの鼠神はなかなか優秀で、島に入るには必ず竹林の小路と門を潜らなければならないはずだったのだが……その小路に続く跳び石の手前まで来れば、結界は一閃――地から空まで大きく斜めに裂かれており、今は力なくゆらゆらと、赤気のように風に流れるのみとなっていた。
きっと来訪者を拒んだのだろう。しかしその来訪者は、力尽くでそれを破った。
けれどもそれを視ることができない日嗣は気にしたふうもなく、足早に跳び石を渡っていく。
「――?」
そしてその道の先で、一匹の兎が行ったり来たりを繰り返しているのを見付けて足を止めた。この小島で初めて目にする、薄い桃色の毛。
(あれは……因幡兎?)
それは先程まで対していた男神の眷属。昔、伍名が救った兎神の一族の者だった。
「お前は――」
「……!」
日嗣が近づけば、兎神はその小さな体をなおすくませて耳を倒し、丸石のように固まってしまう。しゃがんで手を差し伸べれば体が小刻みに震え出し、極度に怯えられていることに気付いた日嗣は、その恐怖の中に月の神の残像を見た気がして再び立ち上がった。
後から来た猿彦もそれを一瞥し、家の方へと向かう。
……門をくぐった先は、しんと静まり返っていた。
「……」
日嗣は眉を寄せ、辺りを窺う。
物伝いに聞こえる食器が触れ合う音、忙しなく行き交う小さな足音、想い人の笑う声……昨日まではそんな、家に近付くたびに感じられる人の気配が好きだったのに。
なのに今はそれらすべてが失せて、一気に廃墟と化したかのように思えた。そしてその錯覚を後押しするように、蜘蛛の糸が木々の枝先や竹垣に絡まり、末を風に遊ばせている。
「――見ろ、孫」
「……!」
さらに友に促された方を見れば、そこには無惨に破壊された屋敷神の祠が佇んでいた。
祠に近づいた猿彦は、その太刀筋が結界を斬ったものだと気付き、面の下で眉を寄せる。一方日嗣は、視界の中に一ヶ所だけ開いている雨戸を見つけ……その奥の暗闇に得体の知れない恐怖を感じながら、そちらへ向かった。
(神依……)
いつも神依が迎えてくれる縁側はひんやりと冷たく、軒先の小さな神棚にもあの女神の気配は感じられなかった。
何か、悪い異変があったのはもう間違いない。しかし……それを確かめるのも怖い。
(だが……)
〝……貴方はいつも、人を愛する覚悟が足りない。〟
(……行かないわけにはいかない)
たとえ幻想であったとしても、結ばれた像の中で一度は己に捧げられた神婚の贄。あのハレの日の光景をもう一度、今度はこの世界で見ることができたなら。
あの清廉な娘を……この腕に抱きしめ、胸に寄せることができたなら。
「……」
そう思って日嗣はゆっくりと、雨戸に触れる。
雨戸は少し建て付けが悪かったようで、それ以上は開けなかった。着替える間もなく、かさばるだけでもはや邪魔とも思える衣を寄せて中に上がると、何かを燃やしたのだろう灰の臭いが鼻をつく。
(何だこれは……いや)
今はそれよりも、家人の安否だ。それを思って真っ先に足が向いたのは、縁側の脇にある神依の部屋だった。
「神依……?」
本来は日当たりもよく、天気のいい日中は障子を開けていることもあった部屋。だが、今は閉め切られ呼びかけても気配すら感じられない。ただ廊下の先を見れば点々と窓や襖が開けられており、日嗣はそれを追ってみることにした。もともと、広くはない家だった。
「……」
歩を進めれば時折ぎし、と床が鳴って、ひどく不気味なものに思える。たった数歩のはずが長く長く感じられて……その部屋に辿り着いたときは、もう数刻を費やした心地になっていた。
そこは日嗣でさえ立ち入ったことのない部屋。家の中でもっとも間取りの良いその部屋は、日嗣らが訪れる時は襖に秘され、もしかしたら神依はただの客間程度にしか思っていなかったかもしれない。
その部屋の、わずかに開いた襖からは橙色の灯が漏れて――
「……」
「……っ!?」
少しの勇気とともにスッとそれを開いた瞬間、驚愕に息を呑む音と眼差しが、紫電の如く日嗣の胸を貫いた。
***
「ぁ……あぁ」
その中で真っ先に目が合った少女は、その途端あの兎のように身を強張らせて唇を震わせた。
「み……より……」
神依は禊と童に支えられ、かろうじて半身を起こしていた。真っ先に我に返った禊が慌てて手にしていた浴布で体をくるみそれを隠そうと抱き寄せるが、もうそのときには十分すぎるほど、その惨状は日嗣の瞳に映ってしまっていた。
神依が身に着けるのは、ただ腰や足にまとわりつくだけの倭文布の帯と、ぼろぼろに裂かれ褥や畳に布片を散らす衣。見慣れぬ簪で留められていた髪も乱れて解けかかっており、血の気の失せた白い肌にはらはらと流れていた。
禊が手にしていた浴布には白く粘ついたものの残滓も残っており、部屋中に散らばる道具の数々と合わせてもそこで何が行われていたかは明白で……最初に感じた何かを燃した臭いも、酒の臭いも、また何か違うものの臭いも、そのこもった空気の中に感じられた。
否定のしようがない、情事の跡。
何よりその証としてある……打たれた頬の痛みを癒すかのように顔に添えられていた指の、その隙間から覗く……銀朱の印。
神依の頬には、まるでこれは自分のものだといわんばかりに、ある神の朱印が刻まれていた。
「……ッ」
日嗣も神依も何も言葉を発することができず、ただ苦痛に顔を歪める。しかしその沈黙の中、互いの空気が一変したことにも気付いてしまった。
引き潮のようにざあっと後退していくそれは、互いに見てはいけないものを見てしまった、見られたくないものを見られてしまった、後悔や無念さを現したもの。
そして神依には、その感覚がどういうものか痛いほどわかってしまった。これはそのまま……かつて黄泉国で〝母〟が味わった羞恥と絶望。その場面を、今度は自分が淡島で再現してしまったのだ。
何の準備もないまま。説明も言い訳も許されないまま。
――嫌われる。
神依が思ったのは、ただそれだけだった。
「……ご……ごめん、なさい……」
日嗣の耳に、布擦れほどもか細い神依の声が届く。神依は日嗣の言葉も待たず、頬に流れる髪をかき寄せ、さらに禊の腕に隠れるように体を縮めた。しかし顔を背けたその背には何か強く打ったような痕もあって、どんな仕打ちを受けたのか日嗣自身にもその一端が垣間見れた。目を凝らせば、他にもところどころ赤い痣がある。
それが暴力によるものとそうでないもの両方だともわかったが、どちらにしても――ひどく、痛々しい。
(……わかっている。伍名がこれを暗に示したなら、神依が謝るようなことは何もない……。だから……謝らなくていい。……しかし……)
しかしどうしてやるのが一番いいのか、日嗣にはわからなかった。
暴力と凌辱の傷痕。また褥や衣に破瓜の証こそなけれど、その頬には長年この淡島にあってさえ見たことのない、露骨な寵愛の証があって――。
あまりの事態に、何を言葉にすべきなのかわからなかった。ただその姿があまりに痛々しくて、いじらしくて。
「……、……大叔父上だな」
「ですが――ですが操は守られております……! 神依様は荒ぶる神の暴威にも耐え忍び、辱めにも屈することなく、貴方様のためにその身の純潔と誇りをお守りになったのです! 御令孫におかれましては、どうか――」
「……」
結局かけてやるべき言葉も見付からず禊に意味をなさない問いをすれば、堰を切ったように、なお一途にその想いを捧げられ……そのどうしようもない苦渋に日嗣はぐっと拳を握りしめ、無言のままわかっている、と頷いて答えた。
ただやはり何をするべきなのかがわからず、それでも神依に自分の心のひとかけらでも触れてもらいたくて……なるべく怖がらせないように隣にひざまずけば、その気配を感じたのか、一瞬視線がこちらに向けられた。
「……すまない。……俺が……」
もっと早く駆けつけていれば。
日嗣はその謝罪とともに精一杯の思いやりを乗せて、一度は握りしめた拳をほころばせ、その腫れた頬を抱こうと手を伸ばす。ところが――
「――触らないで!」
「……ッ」
日嗣に返されたのは、あまりに哀しく、あまりに鋭い、その一言だった。
「み……神依……」
「神依様……」
まさか神依が拒絶するとは思わなかった二人は呆然と、突然声を荒げた少女の上で視線を交差させる。
日嗣は宙に浮いたままの手をどうしていいかわからず、ただただ顔を歪める少女を、今にも涙があふれそうなその瞳を見ていた。
そしてふと、拒まれたのは自分がこの暴挙をなした大叔父に似ているからかと思い至る。しかし、だとしたら……この凌辱の傷はいつになったら癒えるのだろう。
もはやこの腕に抱くことなど不可能なのではないか。禊にはその身をゆだねているのに、その弱った心をすがりつかせているのに……、もう自分にはそれが許されない。
ならばいっそ、この身をすべて変えてしまえばいいのか。髪を断ち肌を焼き、似ても似つかぬ姿になれば。
しかしそれでもこの娘は受け入れてくれるだろうか。醜男だと罵られ、禊の方に心を傾かせてしまうのではないか。
原初の男神と女神のように……あたかもその復讐のように、今度は女が逃げ出してしまうのではないか。
そう思えば、魂まで慟哭しているかのような、そんな心地になった。宙にあった手は自然と胸元に戻り、痛みを痛みで抑えるように折り重なった衣をきつくつかむ。
「すま……ない。俺に触れられるのは……今は、嫌だろうな……」
「っ……ご、ごめ……なさい、……そうじゃ、なくて」
眉を下げ、拒まれた苦痛とともに、自分を見るでもなく呟く日嗣に、神依はその強張った顔の筋肉を何とか動かし、歪な笑顔を浮かべてみせる。
――目の前にある男神が、ずっとひとりぼっちだったことを忘れていた。本当は怖がりで、でもそのぶん優しくて……櫛をくれたときだって、同じように聞いてくれたのに。嫌なんかじゃなかったのに。だから本当は、拒絶してはいけなかったのに。
だけど……。
だけど今日は高天原で何か、大事な祭祀があったのだろうか。きっとそこから無理に駆け付けてくれたんだと、神依は精一杯、その心を酌もうと笑った。
「わ……わたし……、その、お酒、こぼしたり……寝不足で、気持ち悪くなって……」
「……」
「き……汚い、から……。でも日嗣様は……今日は、なんだか……特別な、格好してるから……」
「神依――」
「……汚しちゃ、いけないと思って……」
「……ッ」
しかしその言葉は互いの罪悪感を深めただけで、互いの優しさを交じらせることは決してなかった。
泣き笑いの表情を浮かべ、こんな状況にも関わらずそんな言葉を必死で紡いでくれた少女に、日嗣はたしかにいじらしさを感じていた。けれどそんな姿を見せてくれるほどに、何もしてやれなかった自分が情けなく思えてくる。何も知らなかった自分が赦せなく思えてくる。
こんな虚ろな装束のために拒絶され、こんな形だけの自分のために、あの痛みに慣れていないやわらかな身を傷付けさせて――そのやるせなさを、思いやりに変えてなでてやることすらできない。
ただ自分の無力さと愚かさ加減とに行き場のない怒りを覚え……唯一それをぶつけるにふさわしい者を恋しい少女の頬に見つけた日嗣は、
「――大叔父上ェ……ッ!」
剥き出しの歯を見せ、獲物を囲う獣のように引き絞った声で唸ると、立ち上がって一気にその身を翻した。
「孫――」
「どけ!」
背後にあった猿彦さえ突き飛ばし廊下を駆け抜ける日嗣に、猿彦はただ無言のままそれを見送る。
それからその慌ただしい音が消えた頃、同じようにその先を見つめる者たちの視線に気付くと……やはり無言のままに彼らの前に座して、その巨体を曲げた。
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