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過去の亡霊編
新たな命令
しおりを挟むその命は唐突だった。
いや、唐突過ぎたといった方が良いかもしれない。
『辺境伯シルヴァンと共に王都へ来い』
ご丁寧に、“アリシア”ではなく“結”当てに出された国王ノワールからの命令書。
これで
「今までは記憶を失い、仮にアリシアと名乗っていたが本当は結という名なので、アリシア当てに出された命に従う義理はない」
という言い逃れも出来なくなった。
新しい命令書にシルヴァンと結、そしてレプスは互いに顔を見合わせた。
「私も…王都へ?」
シルヴァンにしてみれば、実に20年ぶりに王都への帰還という事になる。
いや、“帰る”訳ではないにしても。
これまで、シルヴァンの声も聞きたくないし顔も見たくないという態度を徹底していたノワールにとって、よほどの事が起こったのか。
それとも何か、不測の事態が…?
状況がわからないだけに推測のしようもないが、ここにきて何故状況が変わったのか。
——どちらにしても、自分が留守にすると知るや、猿達が攻めてくるのは間違いないだろう。
決して自惚れるつもりはないが、ここ4~5年は小競り合いといってもごく小規模なものばかりで、大規模な侵攻は行われてはいなかったというのに。
しかし、考えようによってはこれはもしかしたら良い機会なのかもしれない。
国王の使者が滔々と口上を述べるのを大人しく聞くふりをしながら、シルヴァンは様々な可能性について検討を始めた。
猿の王太子はしばらく国境付近に止まると言っていた。
栗鼠族の元斥候兵を千猿国に遣わし、王太子と密かに情報を交換する段取りもついている。
それに千猿国の王は確かかなり重い病に罹っていて、最近はだいぶ弱っているとの噂もある。
だからこそ、王太子は焦っているのかもしれない。
神狼国と不可侵条約を結びたいと仄かしていたのも、国王になるにあたって何らかの地盤を固める必要があったのではないか。
いや、しかしこれらは全て推測でしかない。
確かな情報の裏付け無しには、軽率な判断は出来かねる。
けれども…時は待ってはくれない。
今出来る最善の選択を。
それがもし無理なら、せめて次善と思われる選択を。
——何か、良い手は…。
自分がこの地を離れる事により、辺境の地に生きる人々が脅威に晒される事のないように。
シルヴァンの頭を占めているのはその事だけだった。
ノワールによって切られた期限は10日。
その短い間に支度を整え、結と使者と共に王都へ向かわなければならない。
——短すぎる。
最初の使者が来た時から、万が一の可能性を考えて密かに準備だけはしてきたけれど。
千猿国とせめて一時的にでも不可侵条約を結ばない事には、シルヴァン様とて安心してこの地を離れる事は出来ないだろう。
レプスもまたシルヴァン同様、様々な事に思いを巡らせながら彼の傍らに控えていた。
問題は山積みで、しかも難問ばかりだ。
千猿国との関係性。
ユイを襲った者達を唆した猿人と、おそらくこちら側のスパイの存在。
ゾットとアルバの死の真相。
そして国王の真の思惑。
全てを探る事は難しいが、かといって手をこまねいている訳にはいかない。
必要な、そして確かな情報を集めておかなければ、いざという時反撃すら出来なくなってしまう。
その 一方で…。
今、シルヴァンと共にこの地を離れる事に、レプスは躊躇いを感じていた。
もちろんシルヴァンから、無理強いされた事はない。
けれども彼に仕えて20数年、側を離れた事は1度たりとてなかった。
王都を離れる際ですら、2度と戻らない覚悟でついてきたのだ。
止められても宥めすかされても「お供します」の一点張りで。
今回も当然付いていくつもりでいたのに、ここに来て揺らぎ始めた心に、誰よりも驚いたのはレプス本人だった。
——グリスとシルヴァン様が守り続けてきたこの地を、みすみす奪われるような事だけは避けたい。
グリスが愛したこの地を戦場には出来ない。
我々が少し判断を間違っただけで家を焼かれ、傷付き、飢えるのはこの地に暮らす人々。
その生活は、命ですら容易く脅かされる。
そんな事、絶対にあってはならない。
ここに私が残ったからといって、何か出来る事があるとも限らないけれど。
でも…結をシルヴァン様が一緒とはいえ、王都に向かわせるのも…。
行くならば自分もそばについていて、可能であれば様々な悪意や思惑から守ってやりたい。
王宮には細かいしきたりや作法がある。
シルヴァンにはわからない事も、男性故に気が付かない事もあるだろう。
——どちらを選んでも、選ばなかった方を思って後悔しそう。
千々に乱れる思いに唇をキュッと噛み締めたレプスの肩に、そっと大きくて温かい手が添えられる。
それが誰の手かなんて確かめなくても、その温もりを、感触を身体が覚えている。
隣に立つ夫をチラリと見上げたレプスに、グリスは目線だけで伝えた。
『どちらかを選ばねばならないのなら、少しでも後悔の少ない方にしておけ』
と。
*
残された決して多くはない時間で、どれだけの事を成せるか。
そこからは時間との戦いだった。
ノワールの使者に悟られぬよう、ハクと繋ぎをつけ腹を割って話し合う機会を持てた事が1番の成果だったといえよう。
そんな機会は、この先もう無いだろうと人払いをした上で、2人きりでの話し合いは数時間にも及んだ。
ハクは最悪国王の退位も視野に、まだ迷いびとの事があまり知られていないうちに国を手中にする事を考えていると言った。
その為にこちらに手を貸して欲しい。
表立ってのそれが無理なら、せめて国が安定するまでは…と。
その申し出は、まさしくシルヴァンにとって願ってもないもので。
シルヴァンは千猿国…というより、ハクとの間に仮初めとはいえ不可侵条約を結ぶという密約を取り付けた。
ただし期限は半年。
王太子であるハクが父王を抑えておけるのはそれが限界だという。
けれどシルヴァンは、もう少し短めに時期を読んでいた。
——3ヶ月、もって4ヶ月といったところか。
それまでに何らかの動きを見せるか、最果ての砦に戻らなければ…。
ハクを信用する事はまだ出来ない。
しかし今は賭けるしかないと思う。
『先日の話が本物なら、行動で示してくれ』
別れ際、そう言ったシルヴァンにハクは苦笑いで応じた。
『銀狼様こそ、つがい様をお守りくださいませ』
『言われずとも』
たった数回会っただけで、互いの人物も影響力も背景も、実際の所はわからないに等しい。
それでも今は互いを信じ、賭けるしかないのだ…。
それは諸刃の刃のように思われた。
ハクを見送ったシルヴァンは立ち上がり大きく伸びをする。
頭の中に石でも詰まっている中と思うほど、頭が重く何も考えられない。
やらねばならない事、決めなければならない事はそれこそ山程あるのに…。
——今、頭の回っていないこの状況では大した案も出ないだろうな。
1つため息を吐くと、シルヴァンは執務室を出た。
向かった先は食堂。
この所の忙しさに食欲は失せていたが、結の顔を見れば少しはマシな気分になるかもしれない。
そう思ったのだが…。
——何故、こうなった?
結の柔らかい太腿に頭を乗せ、シルヴァンは目を瞑っているのに目眩がするという、非常に珍しい状況に陥っていた。
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