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fragile7
しおりを挟む翌朝早く目が覚めた俺は、腕の中で眠っている悠香を飽く事なく見つめていた。
一事は失ってしまったかもしれないと密かに絶望し、それでも再び戻ってきてくれた悠香。
大切な人をこの手に抱いて眠るという事が、こんなにも幸せだなんて知らなかった。
先に目が覚めて彼女の寝顔を見つめていられるこの嬉しさ、このなんとも言えない満ち足りた気持ち。
そんなささやかでありふれた幸せを、今更ながらにかみ締めていた。
浅く広く、来る者拒まず去る者追わずなんて嘯いていた時期があったのは確かだが…。
そんなもんくそくらえだ。
「堕ちたものだな」と安藤辺りが言いそうなものだが知ったこっちゃない。
込み上げてくる愛しさに堪りかねて、悠香の頬にそっとキスをする。
「ん…」
うっすらと目を開けた悠香が俺の姿を認めてふっと微笑んだ。
「どうしたの?」
くぐもった声でそう言いながらも、返事を待たずにまどろみの中に沈んでいく。
「何でもない」
昨日の晩、少しばかり無理をさせてしまったから(もっとも、彼女の意見は多少違うかもしれないが)眠たいのも無理はない。
耳元でそう言うと、悠香は鼻先を俺の胸に押し当てるようにして抱きついてきた。
そのまま又すやすやと寝息をたてる悠香の頭をしばらく撫で続けた。
* * * * * *
そのまま二度寝してしまった俺は、規則正しい物音で目が覚めた。
半分以上寝惚けたまま腕の中の恋人を抱きしめようとして、自分の左腕が使い物にならないくらい痺れている事に気が付く。
同時に傍らにあった筈の悠香の温もりがない事に気付き、慌ててその辺を弄った。
…まさか。
「悠、香…?」
心臓が壊れてしまうのではないかという程、急激にその動きを速める。
広くはないプライベートルームを大股で突っ切りLDKへ続くドアを開け放った。
なにやら刻んでいたらしい悠香が、物音に驚いた様子で振り向いた。
それだけで涙が出そうなほど安心している自分が少しばかり情けなくもあったが、それでも確かめずにはいられなかった。
「智…?」
リズミカルに包丁を使う悠香の邪魔にならないよう、胸の下で軽く手を組み柔らかい髪に顔を埋める。
「なに作ってるの?」
「キャベツの千切りよ。
これ刻んでしまったらお終いだから、そこのサラダボウルを取ってもらえるかしら?」
「…コレ?」
抱きついたまま、片手だけ解いてテーブルの上にあった食器を取って渡すと、悠香は包丁を置いてくるっと振り向いた。
「大丈夫よ、どこにも行かないから。
それと、改めておはよう、智」
ほんの少し背伸びをして頬に唇を押し当てる悠香の頬を、壊れ物に触るかのようにそっと掌で挟み込む。
「なぁに?」
柔らかく微笑む悠香の下唇を啄ばみ、額、鼻の頭、両頬とキスをすると、彼女はくすぐったそうに身を捩った。
「ほら、お腹ペコペコでしょう?
ご飯にしましょ」
「悠香が良い」
「あら、食べさせて欲しいの?」
分かってるくせに悪戯っぽく言い俺の腕から抜け出すと、悠香はカップにカフェオレを注ぎテーブルに置いた。
「ほらほら、顔を洗ってらっしゃいな」
なんとなくはぐらかされた気分になりながらも、背を押されるままバスルームへ向かう。
朝食というには遅めの食事。
平日の午前中。
普段なら忙しく仕事をしている時間帯だけど、今日は違う。
2人きりで過ごす大切な時間。
カリカリに焼いたベーコンにふんわりとしたプレーンオムレツ。
綺麗な千切りにされたキャベツには自家製のドレッシングをたっぷりかけて。
ニンジンとセロリときゅうりのスティックは野菜不足の俺の為に用意してくれたのだろう。
バケットはしっかり色づくくらいに焼くのが好み。
そして食事時には、いつものブラックではなくカフェオレ。
女性の1人暮らしだから食器は必要最低限しかないので、俺と悠香のマグカップや皿がばらばらなのはご愛嬌。
「いただきます」
両手を合わせ、まずカフェオレを1口。
俺の好みをこんなにも熟知していて、尚且つ料理上手で気立ても器量も抜群に良いなんて。
その上俺の事をよく理解し、しかも愛してくれているときたもんだ。
こんなヒト、どこを探したって見つかりっこない。
幸福感に浸りながら出された食事を平らげていく。
ふと視線に気付き悠香の方を向くと、同じような表情を彼女も浮かべていた。
多分似たような事を彼女も感じているのだろう、と勝手に推測する。
食卓の上に置かれている彼女の手に自分の手を重ねると、悠香は微笑み俺の手を握り返してきた。
* * * * * *
「智、お天気も良い事だしこれが終わったらお買い物にでも行かない?」
とは、洗濯物を干しながらの悠香の提案。
もちろん断る理由なんか、どこにも見当たらない。
「どこか行きたいトコあるの?」
「ちょっと前に、3駅向こうに新しくショッピングセンターが出来たの、知ってる?」
妙に目をキラキラさせて振り向いた悠香があんまり可愛らしくて、つい苦笑が漏れた。
古今東西、その笑顔に逆らえた例などないのだから。
「何処へなりともお供させていただきます、姫」
と芝居かがった言い回しで腰を屈めながら言うと
「よろしい」
と悠香は大仰に頷き、俺の言い方が余程面白かったのかプッと吹き出した。
たったそれだけの事なのに…。
昨日までとは180℃違って見えて、俺は目を細めて悠香を見つめた。
「…?どうかした?」
「いや…」
曖昧に笑ってごまかす。
——今更、惚れ直しただなんて…とてもじゃないけど恥ずかしくて言えやしない。
エレベーターから降りると、悠香がそっと指を絡めてきた。
普段から手を繋ぐという事がそういえばなかったので、どこか新鮮な気分になる。
ふと見ると、悠香も少し照れくさそうに俯き加減で歩いていた。
——このままずっと、駅に着かなければ良いのに…。
なんて10代のガキみたいな事をふと考えてしまい、思わず赤面してしまった。
——なんてこった…大丈夫か?俺。
そんな事を考えながら歩いているうちに、あっという間に駅についてしまう。
切符を買う為とはいえ、外されてしまった手は行き場をなくし一瞬宙を彷徨う。
そんな俺の子供っぽい感情に気付く筈もなく悠香は
「はい、切符」
と小さな紙片を差し出した。
…今までの経験上、手を繋ぎたがるのは大抵女性の方だった。
俺はそれを鬱陶しく思う事はあっても、大人しく繋いでやる事などなかったというのに。
改札を通ってから、今度は自分から悠香の柔らかい手を取った。
彼女が驚きのあまり目を丸くしているが、お構いなしに手を引いて歩く。
その手をもう離すつもりはなかった。
* * * * * *
しばらく前に出来たというショッピングセンターは、3階建ての広々とした建物だった。
「智、こっち」
着くなり嬉しそうに目を輝かせ、俺の手を引っ張っていく悠香。
1階は食料品売り場とレストラン街、2階は生活その他雑貨、3階は衣料品。
平日とはいえ昼時だからか、なかなか盛況な各フロアを上から順に見て周る事にする。
その時、俺の携帯が鳴った。
「ちょっとごめん」
誰だ、今頃。
今日は休みだぞ。
そう思いながら通話ボタンを押した。
だが予想に反して受話器の向こうから聞こえてきたのは…
『もしもし、ごめんなさい。こんな時間に』
「いや、今日は休みだから。
それより何かあったのか?」
『…今から会えない?』
思わず後ろに立つ悠香の様子を伺った。
「どうしたんだ、一体」
不自然に潜められた声に、もしかしたら悠香も気がついたかもしれない。
『だって…何回家に電話しても留守電ばかりだし…。
今、何処にいるの?』
ショッピングセンターの名を言うと
『なら今から行くから待ってて』
と言うなり一方的に電話が切れた。
「おい、梓…」
冷たい電子音に溜息をついて後ろを振り向くと、呆れたような顔で立っている悠香がいた。
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