Fly high 〜勘違いから始まる恋〜

吉野 那生

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心の行方

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   ~聡一郎~


彼女ほど何の見返りも求めず、ただ俺と時間や想いを共有しようとしてくれた人はいなかった。
ありのままの俺を受け容れようとしてくれた人はいなかった。
俺を想ってくれた人はいなかった。

今まで気付かなかったけれど、その想いの深さと純粋さでいつの間にか俺は彼女にしっかりと守られていた。
彼女の想いは、さながら目には見えない天使の翼のように、いつだって優しく俺を包んでくれていた。
それは具体的に彼女が俺に何かしてくれた、という事ではない。
しかし何か特別な事をしてくれなくても…いや、傍にいてくれるだけで不思議なほど心が安らかになった。

目が合うと微笑みかけてくるその優しい眼差しに。
最高のタイミングで淹れてくれるコーヒーに。
女性らしい細やかな心配りに。

そして何より彼女自身の存在に。
癒し満たされ、いつしかその想いは特別な物になっていった。
恐らく、彼女は俺にとって「初恋の女性」だった。

これまで女性の間を渡り歩き、酸いも甘いも手練も手管も知り尽くしているこの俺が。

惚れられた事なら数え切れないほどあっても、惚れた事は1度もないとうそぶいてきたこの俺が。

彼女の前では、何をどう話していいのかまるで分からなかった。
今まで駆使してきた「話術」の寒々しく薄っぺらい事!
そうなってしまうと、これまで何とも思わず彼女と接してこれた事の方が不思議でならない。
どんな顔をしていいのか、全く分からなくなってしまうのだ。

それにあの時、衝動に駆られて彼女に口付けてしまった事が、予想以上に俺を苦しめた。

あの柔らかい感触をもう1度味わいたい。
あの芳しい髪にもう1度顔を埋めてみたい。
無意識に抱き寄せてしまいそうになり、ハッと手を引っ込めた事も1度や2度ではない。

その度に俺は自身の浅ましさに心底呆れ果てつつ、気が付くと彼女の姿を目で追っていた。


   * * *


そんな折、俺は父である会長に呼び出され単独本社へ赴いた。
いつもなら俺への用件は、秘書にでも指示してメールさせている親父が珍しく直々にかけてきた電話に、嫌な予感がしていたのだ。
それでも時間を指定され、念を押されては断る事も出来ない。

半ば嫌々会長室に入った俺を、親父は満面の笑顔で迎えた。
その笑顔にますますきな臭い物を感じ、俺は眉を顰めた。
親父の仏頂面以外の顔など、もう長い事見た事がなかったというのに。


——おい、一体なんだっていうんだ?

無意識に警戒を強めていた俺の胡乱気な表情など気付きもせず、親父はとんでもない話を始めた。


野々村 はるか。
現在名門女子大学4回生、22歳。
父は国内有数のメガバンク、野々村銀行の代表取締役兼会長。

彼女のどこが親父のメガネにかなったのか…いや、彼女というよりも、その背後にある巨大な力と富か。

何にせよ、今までのらりくらりとかわし続けてきた数々の縁談の中でも破格の条件に、親父が直々に乗り出したという事らしい。

「現在大学に在籍中という事情を鑑みて、婚約発表は卒業後というのがあちらの意向だ。
しかし内々に話を進める分にはあちらも乗り気でな」


——って、ちょっと待てよ。
俺が逆らうなど露にも思っていない親父は、上機嫌であれこれ話しかけてくる。

このままでは押し切られてしまう。
それは予感ではなく、確信。

「いや、でも…」
敢えて反論を試みるが
「聡一郎」
決して大きくはないが、人に命じ慣れた低く抑えた声。
しかしその1言で俺は全ての意見を封じられてしまった。

今まで親父に逆らった事など1度もない。

長年のならいとは恐ろしいもので、こうなってしまうとどうしても俺は自分の意志を貫く事が出来なくなってしまうのだ。

とはいえ…自分の不甲斐なさも含めて、思い通りにならないあれこれに身体上の血が煮えくり返る。
ギリッと唇を噛みしめ、俯いて表情を隠す。
親父には見えない机の下で、掌に爪が食い込むのも構わずきつく両の手を握り締めた。



   ~美月~

「婚約…ですか?」

「そうだ。
これは随分前から決まっていた事なのだが、若がなかなか首を縦に振らなくてな。
けれど会長直々のお言葉もあって、来年の春に婚約発表をする事が正式に決まった」

「正式」に込められたアクセントに、彼の意図を感じた。

珍しく独りで本社へ赴かれた社長をお迎えに、木嶋さんと一緒に専用車に乗り込んで、すぐの話だった。

「…そう、ですか」

表情を変えぬよう、冷静に相槌をうったつもり。
けれど上手く出来ていたかどうか、自信がない。

「お相手は国内有数の大銀行の頭取野々村家令嬢はるか様。
お家柄といい年頃といい、これ以上ないくらい相応しい縁組だ。
若も今年34になられる。
身を固められてもいい年頃だろう。
そもそもこのお話は、父であり会長であられる龍爾様もひどく乗り気でな…」

噛んで含めるような物言いも、私の耳には殆ど届かなかった。


私達はあの日、社長と秘書ではなく、ただの神崎・R・聡一郎と本城 美月として僅かなりとも心を通わせる事が出来た。
そう思っていた。
少なくとも私はあの時、彼への想いがただの憧れや義務感ではない事を自覚した。

そして彼もまた…。
いえ、あの時彼がキスしてくれたからといって、私の想いに応えてくれたをという事にはならないかもしれない。
それでも、多少なりとも憎からず思ってくれていると、そう思っていた。


けれど、あのパーティの晩から私と神崎さんとの間には、目に見えない壁が出来てしまった、ような気がする。
どこがどうとはハッキリ言えないけれど。
表面上は…何ら変わりないように見えるけれど。

それでも木嶋さんには、私と神崎さんの間に「何か」あったのだと分かったのだろう。
その上で釘を刺していると、そういう事なのだ。


別に多くを望む訳ではない。
誰よりも彼の傍にいられるなどと、思い上がっていた訳でも。

それでも今回の神崎さんのご婚約話は、思っていた以上に私を打ちのめした。


   * * *


屋敷に戻るまで、神崎さんは1度も私と目を合わそうとはしなかった。
最低限の用件を木嶋さんに告げ、‪今晩‬は何があっても取り次ぐなといつになく厳しい声で言い置き自室に入られた。

「あの…」

「これからはもう、寝る前の紅茶は必要ないから」

扉越しに告げられた言葉に、思わず俯く。

「…分かりました、失礼します」

いつだったか、疲れているのに寝付けないとおっしゃられたので、温かいミルクティを淹れて差し上げた事があった。
以後、彼が眠る前に紅茶を準備する事は日課になった。

彼の携帯から私にメールが届き、紅茶を用意してお部屋へお届けする。
その際の5分にも満たない会話…仕事抜きの他愛もない世間話を、彼はとても楽しそうに聞いてくれた。

1日の疲れをこれで癒していただこうなんて、そんな事が本当に出来るなんて思い上がっていた訳ではない。

ただ神崎さんが「美味しい」と言ってくれるのが嬉しくて。
彼の笑顔が、ただ見たくて…。

自室に戻り鍵を掛けると、腰が抜けたようになってしまった。
扉に背を預けその場に座り込んでしまう。
心が溢れ出したかのように、後から後から透明な雫が頬を伝って落ちた。

「…ふっ……」

ここなら誰に聞かれる事もないと分かっていても、大声を上げて泣く事も出来ない。
ただポロポロとこぼれ頬を濡らす雫。
それを止める事も拭う事も出来ず、私は涙を流し続けた。

心が痛かった。
お前なんか要らない、そう言われている気がして…とても辛かった。


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