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5章 薄氷の上
19話 倫理:薄氷の上(1)
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「見ろよ……アホが……!」
歯噛みをしながら、独り言つ。
――やっぱり、ろくでもない記憶の扉だった。
「開けてはいけない」と分かっていたのに、なぜ開けた?
開けた扉に拳を叩き付けてやろうと思ったが、そこにはもう何もなかった。
辺りはまた真っ暗だ。
もう進みたくない。そう思うのに、足が勝手に動く。
しばらく歩いた先に、また扉があった。
――開けたくない。開けてはいけない。
でも、開けなければいけない。
そう思いノブを回そうとしたが、回らない。
鍵がかかっているのか、壊れているのか……。
「…………っ」
――音が聞こえる。声が聞こえる。
今は何も聞き取れないが、少しずつ大きくなってきている。
そのうち言葉として認識できる音量になるだろう。
きっと、あの男――雪村修の声に違いない。
(ふざけんなよ……!)
なぜあの男が存在しない世界に来てまで、声を聞かなければならない。
近づくな。どこかへ行け。
行かないなら、自分がここを去る。
……そう考えた途端、扉が「カチ……」と音を立てた。
「…………」
一瞬たじろいだが、トモミチはその扉を開け放った。
――逃げたい。
どこだっていい。あの音がしないところなら――……。
◇
「栢木君、あんなあ、ちょっと……お願いがあんねんけど」
「はい?」
2023年、9月中旬。
工事部長の佃が倫理に声をかけてきた。
彼は先代――清社長の頃から40年以上務めているベテランの現場監督だ。
面倒見が良く、気前もいい。
部署が違うためあまり関わることはなかったが、倫理は彼には好感を持っていた。
だが……。
「あのなあ、あの、ちょっと……なあ」
佃が、申し訳なさそうな顔をしながら指でこめかみを掻く。
その手と反対側の手に、マス目が入ったA3サイズの紙を持っている――。
「……まさか、プランとか」
「ん、うん……」
「冗談でしょ? やりませんよ。……知ってるでしょ?」
嫌な顔を隠しもせず、つっけんどんに返す。
――6月末のこと。
社長にプラン図面――家の平面図のラフ図案を書け、と命令された。
仕方なしに、分からないながらも懸命に書き上げた。が、社長はそれを思い切り馬鹿にして笑った。
クソつまらない〝いじり〟だった。あれから3ヶ月ほど経っているが、未だに頭にこびりついている。
許していない。社長の顔を見るたび、殴りたい衝動に駆られる。人なんか殴ったこともないのに、だ。
「頼むわ、人おらんで困ってんねん。設計の求人も全然来ぇへんし。……やり方教えるし、頼むわ」
「…………」
佃が業務を大量に抱えていることは倫理も知っている。
設計の宮田が辞めたのが5月。
さらに、現場監督が2人、7月、8月と続けざまに失踪した。いわゆる〝バックレ〟というやつだ。
そのしわ寄せのほとんどが、部長の佃に向かっている。彼にこんな風に頼まれては、断りようがない……。
「……分かりました」
「ああ……ありがとう、栢木君。助かるわ、ホンマに……」
佃は、設計のテキストを用いて懇切丁寧に教えてくれた。
どんな部屋がどれだけ必要か、洗面所や風呂は大体どれくらいの大きさか、どこの方角にどの部屋を置けば格好がつくか、など……。
「どう? 分かってきたらカンタンやし、楽しいやろ」
「そうっスね。……せやけど、すんません。やっぱ最初が〝アレ〟やったんで」
倫理の言葉を聞き、佃は眉間にシワを寄せた。
「いつまで言うてんねん」などと言ってたしなめられるかと身構えたが、彼の反応は意外なものだった。
「おさむちゃん、……社長も、社員のときは、ちゃんとやっとってんけどな」
「…………」
「あんなんなってもうて……キヨっさんも草葉の陰で泣いとるわ……」
――これまでの話から推測するに、先代の清社長は義理と人情に厚い、古き良き時代の〝昭和〟の人のようだ。
対して息子の修は、悪い意味での〝昭和〟の象徴。
先代より20歳以上若いとは思えない、差別意識と古い固定観念でガチガチの男だ。
男は、女は。そのトシで何がどう、こう。
営業が仕事を取ってやってる。デスクワークはお茶くみとコピーしかない楽な仕事――。
それに加え、仕事と私生活の切り分けができない。
社員の前で、姉である経理部長を「お姉」と呼ぶ。
都度「会社では〝松野〟と呼べ」と注意されているが、直らない。直す気がないのだ。
経理部長に工事部長――年上の2人が時代についていこうといているのに、肝心かなめの〝長〟が何ひとつアップデートしない。
そのせいで人がどんどん離れていっている。
(大変やな、松野さんも佃さんも……)
◇
「栢木君。悪いんやけど、また市役所に書類届けてくれへん? オレ、行かれへんねやわ」
「あ……はい」
2023年、11月2日。
疲れた顔の佃が倫理に書類を渡してきた。
この仕事は本来、倫理の仕事ではない。
以前までは宮田が担っていた。彼女が辞めてからは、手が空いている現場監督が持ち回りでやっていた。
そんな中、夏に現場監督が2人消えた。
その穴を埋めるのは、部長の佃を始めとする残りの現場監督達。
結果、工事部は簡単な仕事すら回せないほどに逼迫してしまっていた。
そんな経緯があって、そのお鉢が倫理に回ってきているというわけだ。
――本当は嫌だ。
自分だって楽な仕事をしているわけではないのだから。
が、工事部の面々ほどではない。
佃や他の現場監督が連日夜遅くまで働いているのを知っている。
それに、部長2人に「頼む」と頭を下げられては、断りようがない――。
ちら、と佃の方を見ると、「行き先ボード」に文字を書いているところだった。
(西宮、南あわじ……)
佃に渡された書類の提出先は、交野市役所。会社からはそう遠くはない。高速に乗れば40分ほどで行ける。だが、佃の行き先とは反対方向だ。
交野市を経由して西宮市と淡路島へ向かうとなると、相当の時間と距離を要するだろう。
交野市を外せば少しは楽になるだろうが、それでも……。
「……大変ッスね」
思わずそう言うと、佃は大きくため息をついて力なく笑った。
「……これから『ゴメンナサイ』しに行かなアカンねん。工期伸びてもうたからな」
淡路島の現場は、8月に逃げた現場監督が受け持っていたところだ。
施主からのクレーム電話を何度か取ったことがある。
「監督が逃げるなんて」「どういう会社だ」と言われ、平謝りするしかなかった。
「ハァ……ほな、行ってくるわな」
「行ってらっしゃい」
「これ終わったら3連休や。休めるかなぁ……ハハッ」
そう言って荷物を背負うとまた大きくため息をつき、佃は会社を出て行った……。
「ねえねえ、栢木君。今日、佃部長と会うた?」
連休明けの月曜日。
経理部長の松野が怪訝な顔で倫理に尋ねてきた。
「いや、見てないッスね。ボク出勤したときから、いてませんでしたよ」
「行き先書いてないんやけど、どっか直行したんやろかー。……ね、ちょっと電話してみてくれへん?」
「はい」
受話器を取り、佃の携帯に電話をかける。
しばらくコールすると留守電のアナウンスが流れた。
「お疲れさまです、栢木です。折り返し連絡ください」
しかし佃からの折り返しはなく、会社に現れることもなかった。
次の日もその次の日も佃は姿を見せず、連絡が取れない状態が続いた。
佃の無事、そして辞職が倫理達社員に知らされたのは1ヶ月後。
12月初旬、冷たい風が吹く日だった。
佃のデスクには、彼が受け持っていた現場の図面や資料が大量に残されていた……。
歯噛みをしながら、独り言つ。
――やっぱり、ろくでもない記憶の扉だった。
「開けてはいけない」と分かっていたのに、なぜ開けた?
開けた扉に拳を叩き付けてやろうと思ったが、そこにはもう何もなかった。
辺りはまた真っ暗だ。
もう進みたくない。そう思うのに、足が勝手に動く。
しばらく歩いた先に、また扉があった。
――開けたくない。開けてはいけない。
でも、開けなければいけない。
そう思いノブを回そうとしたが、回らない。
鍵がかかっているのか、壊れているのか……。
「…………っ」
――音が聞こえる。声が聞こえる。
今は何も聞き取れないが、少しずつ大きくなってきている。
そのうち言葉として認識できる音量になるだろう。
きっと、あの男――雪村修の声に違いない。
(ふざけんなよ……!)
なぜあの男が存在しない世界に来てまで、声を聞かなければならない。
近づくな。どこかへ行け。
行かないなら、自分がここを去る。
……そう考えた途端、扉が「カチ……」と音を立てた。
「…………」
一瞬たじろいだが、トモミチはその扉を開け放った。
――逃げたい。
どこだっていい。あの音がしないところなら――……。
◇
「栢木君、あんなあ、ちょっと……お願いがあんねんけど」
「はい?」
2023年、9月中旬。
工事部長の佃が倫理に声をかけてきた。
彼は先代――清社長の頃から40年以上務めているベテランの現場監督だ。
面倒見が良く、気前もいい。
部署が違うためあまり関わることはなかったが、倫理は彼には好感を持っていた。
だが……。
「あのなあ、あの、ちょっと……なあ」
佃が、申し訳なさそうな顔をしながら指でこめかみを掻く。
その手と反対側の手に、マス目が入ったA3サイズの紙を持っている――。
「……まさか、プランとか」
「ん、うん……」
「冗談でしょ? やりませんよ。……知ってるでしょ?」
嫌な顔を隠しもせず、つっけんどんに返す。
――6月末のこと。
社長にプラン図面――家の平面図のラフ図案を書け、と命令された。
仕方なしに、分からないながらも懸命に書き上げた。が、社長はそれを思い切り馬鹿にして笑った。
クソつまらない〝いじり〟だった。あれから3ヶ月ほど経っているが、未だに頭にこびりついている。
許していない。社長の顔を見るたび、殴りたい衝動に駆られる。人なんか殴ったこともないのに、だ。
「頼むわ、人おらんで困ってんねん。設計の求人も全然来ぇへんし。……やり方教えるし、頼むわ」
「…………」
佃が業務を大量に抱えていることは倫理も知っている。
設計の宮田が辞めたのが5月。
さらに、現場監督が2人、7月、8月と続けざまに失踪した。いわゆる〝バックレ〟というやつだ。
そのしわ寄せのほとんどが、部長の佃に向かっている。彼にこんな風に頼まれては、断りようがない……。
「……分かりました」
「ああ……ありがとう、栢木君。助かるわ、ホンマに……」
佃は、設計のテキストを用いて懇切丁寧に教えてくれた。
どんな部屋がどれだけ必要か、洗面所や風呂は大体どれくらいの大きさか、どこの方角にどの部屋を置けば格好がつくか、など……。
「どう? 分かってきたらカンタンやし、楽しいやろ」
「そうっスね。……せやけど、すんません。やっぱ最初が〝アレ〟やったんで」
倫理の言葉を聞き、佃は眉間にシワを寄せた。
「いつまで言うてんねん」などと言ってたしなめられるかと身構えたが、彼の反応は意外なものだった。
「おさむちゃん、……社長も、社員のときは、ちゃんとやっとってんけどな」
「…………」
「あんなんなってもうて……キヨっさんも草葉の陰で泣いとるわ……」
――これまでの話から推測するに、先代の清社長は義理と人情に厚い、古き良き時代の〝昭和〟の人のようだ。
対して息子の修は、悪い意味での〝昭和〟の象徴。
先代より20歳以上若いとは思えない、差別意識と古い固定観念でガチガチの男だ。
男は、女は。そのトシで何がどう、こう。
営業が仕事を取ってやってる。デスクワークはお茶くみとコピーしかない楽な仕事――。
それに加え、仕事と私生活の切り分けができない。
社員の前で、姉である経理部長を「お姉」と呼ぶ。
都度「会社では〝松野〟と呼べ」と注意されているが、直らない。直す気がないのだ。
経理部長に工事部長――年上の2人が時代についていこうといているのに、肝心かなめの〝長〟が何ひとつアップデートしない。
そのせいで人がどんどん離れていっている。
(大変やな、松野さんも佃さんも……)
◇
「栢木君。悪いんやけど、また市役所に書類届けてくれへん? オレ、行かれへんねやわ」
「あ……はい」
2023年、11月2日。
疲れた顔の佃が倫理に書類を渡してきた。
この仕事は本来、倫理の仕事ではない。
以前までは宮田が担っていた。彼女が辞めてからは、手が空いている現場監督が持ち回りでやっていた。
そんな中、夏に現場監督が2人消えた。
その穴を埋めるのは、部長の佃を始めとする残りの現場監督達。
結果、工事部は簡単な仕事すら回せないほどに逼迫してしまっていた。
そんな経緯があって、そのお鉢が倫理に回ってきているというわけだ。
――本当は嫌だ。
自分だって楽な仕事をしているわけではないのだから。
が、工事部の面々ほどではない。
佃や他の現場監督が連日夜遅くまで働いているのを知っている。
それに、部長2人に「頼む」と頭を下げられては、断りようがない――。
ちら、と佃の方を見ると、「行き先ボード」に文字を書いているところだった。
(西宮、南あわじ……)
佃に渡された書類の提出先は、交野市役所。会社からはそう遠くはない。高速に乗れば40分ほどで行ける。だが、佃の行き先とは反対方向だ。
交野市を経由して西宮市と淡路島へ向かうとなると、相当の時間と距離を要するだろう。
交野市を外せば少しは楽になるだろうが、それでも……。
「……大変ッスね」
思わずそう言うと、佃は大きくため息をついて力なく笑った。
「……これから『ゴメンナサイ』しに行かなアカンねん。工期伸びてもうたからな」
淡路島の現場は、8月に逃げた現場監督が受け持っていたところだ。
施主からのクレーム電話を何度か取ったことがある。
「監督が逃げるなんて」「どういう会社だ」と言われ、平謝りするしかなかった。
「ハァ……ほな、行ってくるわな」
「行ってらっしゃい」
「これ終わったら3連休や。休めるかなぁ……ハハッ」
そう言って荷物を背負うとまた大きくため息をつき、佃は会社を出て行った……。
「ねえねえ、栢木君。今日、佃部長と会うた?」
連休明けの月曜日。
経理部長の松野が怪訝な顔で倫理に尋ねてきた。
「いや、見てないッスね。ボク出勤したときから、いてませんでしたよ」
「行き先書いてないんやけど、どっか直行したんやろかー。……ね、ちょっと電話してみてくれへん?」
「はい」
受話器を取り、佃の携帯に電話をかける。
しばらくコールすると留守電のアナウンスが流れた。
「お疲れさまです、栢木です。折り返し連絡ください」
しかし佃からの折り返しはなく、会社に現れることもなかった。
次の日もその次の日も佃は姿を見せず、連絡が取れない状態が続いた。
佃の無事、そして辞職が倫理達社員に知らされたのは1ヶ月後。
12月初旬、冷たい風が吹く日だった。
佃のデスクには、彼が受け持っていた現場の図面や資料が大量に残されていた……。
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