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第一話 原風景と憧れ
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夕焼けが、今日という一日の終わりを告げるように、西の空をじんわりとオレンジ色に染め上げていた。高橋家の台所は、相変わらず薄暗い。蛍光灯の白い光だけが、古びたタイルを照らし出し、そこに置かれた年季の入った土鍋の存在を際立たせていた。焦げ付きの跡がいくつも刻まれたその土鍋からは、ふっくらとした湯気が、まるで生き物のように静かに立ち上り、狭い空間をゆっくりと、しかし確実に温めていく。湯気の向こうに、丸みを帯びた背中が見える。母、和子だ。使い慣れた手つきで、忙しなく、けれどどこか慈しむように動き回っている。
とんとん、と小気味良い音を立てるのは、和子が長年愛用している出刃包丁。まな板の上で、旬の野菜たちが、これから形を変えていく運命を静かに待っている。ぐつぐつと煮える鍋の中では、昆布と鰹節の奥深い香りが、ゆっくりと、しかし力強く立ち上り、健太の鼻腔をくすぐる。時折、和子の口から漏れる「あらあら」という小さな独り言は、この台所の日常を彩る、優しいBGMのようだ。
これが、幼い頃の俺、健太の記憶の、最も鮮明な原風景だ。決して裕福とは言えなかった高橋家の食卓は、いつも質素だった。湯気を立てる白いご飯は、いつもほんの少しだけおこげの香りがして、食欲をそそった。滋味深い味噌汁は、季節の移ろいを映す鏡のようだった。春にはワカメ、夏には畑で採れたナス、秋にはきのこ、冬には豆腐と白菜。健太の小さな舌は、毎日違う表情を見せる味噌汁を、飽きることなく楽しんだ。裏の小さな畑で採れたばかりの、瑞々しい旬の野菜たち。それを、和子が丁寧に煮込んだひじきの煮物や、シャキシャキとしたきんぴらごぼう。素材そのものの味を生かした、ほうれん草のおひたしや、キュウリの酢の物。それが、高橋家の日常であり、当たり前の、けれど今はもう二度と戻れない、かけがえのない光景だった。
「今日も、お腹いっぱい食べなさいよ」。和子の、優しく、けれどどこか力強い声が、いつも食卓に響いていた。その声には、健太への深い愛情と、質素ながらも栄養のある食事を、しっかりと食べさせたいという、母親としての強い願いが込められていた。
小学校に上がると、世界が少し広がり、クラスの友達、裕介や美咲との他愛ない会話の中で、自分の家とはまるで違う、まるで絵本に出てくるような華やかな食事の存在を知った。「うちのママが作ったハンバーグ、すっごく美味しいんだ! デミグラスソースが、お店のより美味しいんだって」「エビフライも、揚げたてにタルタルソースをたっぷりつけて食べるのが、最高だよ!」「昨日はね、熱々のグラタンだったんだ。チーズがとろけて、もう、たまらないの!」色とりどりの、聞いたこともない料理名を、友達が目を輝かせながら語るたびに、健太の子供心に、言いようのない憧れが募った。(ハンバーグ…エビフライ…グラタン…どんな味がするんだろう?)想像の中のそれらの料理は、キラキラと輝き、まるで夢の食べ物のように思えた。友達の家の食卓が、まるで宝石箱のように華やかで、自分の家の質素な食事が、その隣に並ぶと、途端に色褪せて見えた。(うちのご飯だって、美味しいのに…)小さなプライドが傷つき、自分の家の食事が、少しだけ恥ずかしかった。
「うちのご飯だって、ちゃんと美味しいんだよ」。和子はいつも、穏やかな声で、少し寂しそうに言っていたけれど、当時の健太には、その言葉が素直に響かなかった。(もっと違うものが食べたいんだ。もっと、きらびやかで、夢のような食卓が欲しいんだ!)心の中で、小さな反抗期のようなものが、静かに、しかし確実に芽生え始めていたのかもしれない。
二章へ続く
とんとん、と小気味良い音を立てるのは、和子が長年愛用している出刃包丁。まな板の上で、旬の野菜たちが、これから形を変えていく運命を静かに待っている。ぐつぐつと煮える鍋の中では、昆布と鰹節の奥深い香りが、ゆっくりと、しかし力強く立ち上り、健太の鼻腔をくすぐる。時折、和子の口から漏れる「あらあら」という小さな独り言は、この台所の日常を彩る、優しいBGMのようだ。
これが、幼い頃の俺、健太の記憶の、最も鮮明な原風景だ。決して裕福とは言えなかった高橋家の食卓は、いつも質素だった。湯気を立てる白いご飯は、いつもほんの少しだけおこげの香りがして、食欲をそそった。滋味深い味噌汁は、季節の移ろいを映す鏡のようだった。春にはワカメ、夏には畑で採れたナス、秋にはきのこ、冬には豆腐と白菜。健太の小さな舌は、毎日違う表情を見せる味噌汁を、飽きることなく楽しんだ。裏の小さな畑で採れたばかりの、瑞々しい旬の野菜たち。それを、和子が丁寧に煮込んだひじきの煮物や、シャキシャキとしたきんぴらごぼう。素材そのものの味を生かした、ほうれん草のおひたしや、キュウリの酢の物。それが、高橋家の日常であり、当たり前の、けれど今はもう二度と戻れない、かけがえのない光景だった。
「今日も、お腹いっぱい食べなさいよ」。和子の、優しく、けれどどこか力強い声が、いつも食卓に響いていた。その声には、健太への深い愛情と、質素ながらも栄養のある食事を、しっかりと食べさせたいという、母親としての強い願いが込められていた。
小学校に上がると、世界が少し広がり、クラスの友達、裕介や美咲との他愛ない会話の中で、自分の家とはまるで違う、まるで絵本に出てくるような華やかな食事の存在を知った。「うちのママが作ったハンバーグ、すっごく美味しいんだ! デミグラスソースが、お店のより美味しいんだって」「エビフライも、揚げたてにタルタルソースをたっぷりつけて食べるのが、最高だよ!」「昨日はね、熱々のグラタンだったんだ。チーズがとろけて、もう、たまらないの!」色とりどりの、聞いたこともない料理名を、友達が目を輝かせながら語るたびに、健太の子供心に、言いようのない憧れが募った。(ハンバーグ…エビフライ…グラタン…どんな味がするんだろう?)想像の中のそれらの料理は、キラキラと輝き、まるで夢の食べ物のように思えた。友達の家の食卓が、まるで宝石箱のように華やかで、自分の家の質素な食事が、その隣に並ぶと、途端に色褪せて見えた。(うちのご飯だって、美味しいのに…)小さなプライドが傷つき、自分の家の食事が、少しだけ恥ずかしかった。
「うちのご飯だって、ちゃんと美味しいんだよ」。和子はいつも、穏やかな声で、少し寂しそうに言っていたけれど、当時の健太には、その言葉が素直に響かなかった。(もっと違うものが食べたいんだ。もっと、きらびやかで、夢のような食卓が欲しいんだ!)心の中で、小さな反抗期のようなものが、静かに、しかし確実に芽生え始めていたのかもしれない。
二章へ続く
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