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2.底の果て、まだ生きている

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『魂の天使の飼育場』は、地獄の底の更に下、この世の最下層にある。そこは悪魔さえ寄りつかず、結果的に『神』の勢力範囲、つまり天国領になっている。
 性根の腐った人間の魂の成れの果てが集うのが、この飼育処理場だ。
 人間の魂は地上で死ぬと、自然と天国か地獄のいずれかに引かれて、百二十年間そこで暮らすことになる。そうしていつかは、また地上に戻るべく、魂を浄化されてから赤児として母親の胎に灯るのだ。
 だが稀に、死後に天国にも地獄にも招かれない魂がある。それが『魂の悪魔』の正体だ。
 人間が堕ちて堕ちて堕ちた先、『地獄さえも生温い』と判断され、与えられた罰として虜囚となる場所だった。
 マデュやここの住人たちは、羽すらない悪魔モドキだ。神も天使もおろか、仲間であるはずの悪魔でさえも存在を嘲笑う、最底辺の生き物だ。
 身勝手な悪魔は、そんな無様な生き物にわざわざ手を掛けることなどしない。結果として『魂の悪魔の飼育場』は、地獄の更に下にあるのに天使が管理している。れっきとした『天国領の飛び地』だった。

*

『魂の悪魔』たちは、まるで人間のように規則正しく生活している。
 食事は一日に一度、天国時間で昼の十二時。就寝時刻も決まっているし、水浴びの時間もある。
 羽のある本物の悪魔と違って、悪辣な人間の魂を少し加工しただけの半端物だから、魂からエネルギーを摂り、排泄の代わりに魂をしっぽから吐き出し、汚れた身体を洗って、使い古しの布きれにくるまって眠る必要がある。
 マデュは多分、朝誰よりも早く目覚めている。この、地の底に日の出などないが、夜の間の真っ暗闇がほのかに明るくなる瞬間がある。そこで、パチリと目を覚ましてしまう。何故なのかは分からないが、それ以上寝ていられない性質だった。
 とりあえず寝床にしている部屋の隅から起きて、まずは三つ編みを結う。
(今日も枝毛、ないな)
 そう思って、髪から手を下ろす。この長さが邪魔で、切ってしまいたいと思うときもある。無理矢理だが、古びた鎖の接合部がずれて尖ってしまっている部分に引っ掛ければ、切ることもできそうだ。
 だが、切ろうと思うたび、手が止まった。
 この三つ編みは、何か大切なもののような気がするのだ。
 恐らく気のせいなのだが、それでもマデュの手が、髪を切断しに動くことはなかった。
 早く起きたって、他にやるべきことなど何もない。だから、何となく、片足を繋がれたままでもできる運動をして、他の『魂の悪魔』が起きるのを待つ。
 食事と水浴び時間以外はそれぞれ好きなことをしているが、牢が近い者同士で駄弁っている者が多く、マデュもまた、お喋り好きだった。
 いつも会話の中心に居て、茶々を入れたり面白がって聞いたりする。その内容がくだらない『人間の時の悪行自慢』や『性の経歴自慢』みたいな下品なものでも、構わず笑う。だが、話題が『ユイエとマデュの淫らな食事風景』に至ると、マデュは真っ赤になって口を噤む。周りの全員のオカズにされているというのは、なかなか死にたくなる気分だ。まだ消滅したくはないのだが。

 やがて、水浴びの時間になった。今日は午前中の番のようだ。
『魂の悪魔』同士が牢から出て顔を合わせるられるのは、水浴びのときだけだ。
 どういう仕組みか誰も知らないが、白い大理石でできた浴槽内の水に浸すだけで、汚れが落ちるのだ。そのくせ水が濁っていっているようにも見えない。天国領とは不思議なものだ。
 水浴びは、時間も面子も、毎日違う。牢の番号で管理され、『魂の悪魔』同士で結託しないように考慮されているようだ。マデュの番号は二十二番だ。
 ユイエが紙に書かれた番号の牢の鍵を外して回り、二十名集まったところで、水浴び場のある『飼育場』の中心に連れて行かれる。天使側は二人いる。ユイエが先導し、もう一人の管理者がしんがりを務めるだけなので、『魂の悪魔』同士が暴れれば、こんな場所から逃れられるかもしれないのに、とマデュはいつも考える。だが、他の誰もがそれを考えていないようだ。それほど、あの『絶頂』の快感はすごいものなのかもしれない。
 毎回、二十名の中には、マデュを初めて見る手合いがいる。そして、若さと容貌の愛らしさに驚かれるのだ。
 今日も、名前を覚えることすらしたくないような、いやらしい目でマデュを見る壮年の男と、初顔合わせだった。隣に来てべらべらと喋るので、マデュは嫌々ながら付き合ってやる。だが、いつも問われる一言で、マデュは口を閉ざした。
「そんな若さでここに堕とされるなんて、どんな悪さしたんだよ、マデュちゃんよ」
 言葉を止めたマデュを、周りの悪魔がげらげら笑う。
「あー……そういやお前、ここ来たばっかりの新入りだったな。知らねえよな」
 不思議そうにする男に、マデュ本人は自分の『欠落』を説明したくない。不感症というだけでも面白がられているのに、更にもっと笑われるネタがあるなんて。不運にも程がある。
「マデュはな何にも覚えてないんだと──記憶喪失」
「はあ!? 本当かよ。じゃあ何でこんなところに来たんだよ」
 新入りの者は皆同じ反応し、同じ言葉を言う。だからマデュはもう対応するのも面倒で、口を閉ざし、周りが好きに風聞するに任せる。
「何でだろうな。ユイエのお気に入りだからじゃねえの。ユイエと同じ時期に来たらしいしな」
「死んだとき、頭でも打ったんじゃないのか? そんで、その後全身大やけどとか」
「ははっ、何したらそんなに恨まれるんだよ」
 下卑た大笑いが響く中、マデュは目を逸らして、こっそり頬を膨らませている。自分の所為でもない、いや、自分の所為なのかもしれないが、覚えてもいないのに、笑い種になるのは屈辱だ。でもマデュが怒れば怒った分だけ、他の者たちは面白がるから、黙っているのだ。
『魂の悪魔』は、建前上、『人間界での悪行を反省し、魂の消滅の痛みで苦しむ罰を受ける』ためにこの姿になる、とここに来たとき聞かされた。
 人間の魂の浄化など、本来は下級天使の仕事だそうで、地獄に落としたとしてどうにも反省しないような悪人を罰するため、真っ黒に染まった魂をわざと余らせ、『改心しない魂の悪魔』に食べさせているのだという。
 だというのに、マデュはこの『飼育場』に押し込められたより前の記憶が無い。
『反省しろ』と言われても何も覚えていないし、その所為で『苦しんで消滅する』ことになるなんて、真っ平すぎる。
 だから、最初の頃はユイエに「俺は何もしてない」と何度も訴えたのだが、毎度相手にされなかった。
 ユイエは知っているのだろうか、ここに堕とされるような悪行を犯した人間のマデュのすがたを。高尚な天使様は、そんなひとでなしを嫌っているのかもしれない。欲情は覚えるようだから、少なくとも容姿は嫌われていないようだけれど。
「あーあ……もうやだ、こんな人生」
 マデュはこっそり独り言ちた。嫌だけど、苦しんだ末に魂が消えるのはもっと嫌だ。でもマデュの体内はたぶんきっともう、真っ黒に染まりきっているのだろう。
『魂の悪魔』は、個人差はあるが、だいたい『飼育場』へ堕ちて半年から一年で消滅するそうだ。
 マデュはもう一年近く居るからそろそろだと覚悟している。その前にユイエの気が変わって人間の魂を食べさせるのを止めてくれればいいが、そんな様子は微塵もない。
 一時期マデュは、魂を食うのを拒んだことがある。
 牢の柵の内側にちょこんと置かれた真っ黒な魂が『食事』だなんて思えなかったし、実際まずい。人間の魂を食べるのも、それでいずれ消滅してしまうのも嫌だった。
 ならば、食べなければいいのではと考え、ずっと手をつけずにいた。
 そうしたら、ユイエが牢に入って来て、無理矢理手で押し込もうとした。
 その手を噛んだからなのか、全く理由は分からないがユイエの次に取った手段は『口移し』だった。
 マデュはそれに何故だか抵抗できなくて、それ以来ずっと口移しだ。やっていられない。

 ここの者たちは、こんなところに堕とされるほど悪事を重ねた老人が多いから、若く童顔で長い金糸の髪の中性的なマデュは性的な目で見られることが多い。男にも、女にも。脱衣所で肩に手を掛けられるのが、二日にいっぺんくらいの頻度である程だ。
「きれいな身体してるな。オマエ、マデュって奴だろ。ユイエにいつも犯されてるっていう」
 いつものように肩を触られて、睨めつけながら振り返ると、筋肉質な中年の男だった。金持ちの家で強盗をするとともに、そこの者を皆殺しにして楽しんでいたと豪語する、碌でもない奴だったはずだ。
「……犯されてねえけど」
「じゃあオレが代わりに犯ってやるよ。可愛い声で鳴くって、評判だぜ、オマエ」
 腕を掴まれそうになったので、もう話を聞くのも大人しくしておいてやるのも面倒で。マデュは突き出された腕の手首を握りしめ。
「ていっ」
 不埒な男を壁まで投げ飛ばす。これもいつものことだ。相手が女の場合は床に転がすに留めるが、男には容赦しない。
 何処で覚えたのか知らないが、マデュは格闘術の覚えがあるようなのだ。
 マデュが自分のことで知っているのは、どうやら自分は強いらしいこと、存在もしない枝毛を探すのが趣味であること、そしてもうすぐ消滅することだけだ。
「……っ痛え! テメエ、よくもやりやがったな! 紳士的にしてやったのに、調子に乗りやがって」
 そうして男は、すぐ側にいた痩せ細った老人を、まるで投擲物代わりにでもするように、マデュに投げてきた。細い体躯のマデュでは、流石に受け止めきれない。
 それでも、老人に怪我のないように自分の身体を緩衝物代わりにし、受身を取って床に転がった。腕を捻ってしまったかもしれない、じんじんと痛む。
「おい、クソ野郎。関係ないじいさん巻き込むなよ!」
「正義漢気取って、胸くそ悪い奴だな、オマエ。大人しく鳴いてろ」
 そうして掴み合って。
 マデュが男の足許を掬い、再び投げ飛ばしたところで、制止が入った。
「止めろ。秩序を乱すな」
 ユイエがマデュと男の中間に立ち、双方を見据えた。マデュは一瞬で気が萎えた。だが、相手の男はそうではなかったようだ、ユイエの首根っこを掴もうとしたところで。
 ユイエが男の頭を人差し指でつん、と触れた。たった、それだけだったのに、男は、鏡が設えられている壁まで吹き飛んで、ガラス鏡が粉々に砕けた。
 静寂が広がる。多分全員が、恐怖しているのだろう、このユイエという天使の力に。
「タウ」
「は……はいっ!」
 もう一人のここの管理者が、慌てた声を上げた。彼すらも驚いているのかもしれない、この事態を。
「二百六十番を拘束しておいてくれ。それと……すまない、鏡を元通りにしておいてくれるか」
「はい! 承知しました、ユイエ様!」
「俺は部屋に戻る。やることができた」
 背中を返したユイエがこちらを見て、片腕を掴んだ。
「来い」
 淡々とした声に、まずい、とマデュは思う。この騒動の責任を取りに、叱責か何かされるのではないかと思ったのだ。それは嫌だった。マデュは被害者だと主張したかったが、ユイエはどんどん先に行ってしまうので、仕方なく付いていった。もう、どうにでもなれという気持ちで。

*

 天使の詰め所は意外と狭い場所だった。それに、天使が居るのに明るくなくて、どちらかというと空気はどんよりしている。
 物珍しくてきょろきょろとしていると、ユイエに更に「こっちだ」と引っ張られて、狭苦しい部屋に押し込められる。
 古くさい寝台と、書き物机と暖炉しかない。囚人用の反省部屋かなにかだろうか。叱咤か、悪くすれば折檻でもされそうな気配に、マデュはごくりと唾を飲み込んだ。
「ここは……?」
「俺の部屋だ」
「はあ!?」
 こんな粗末な場所が、と思わざるを得なかった。ユイエにちっとも似合わない。だが、本人がそうだと言うのだから、否定するわけにもいかない。
(こいつ……本当に、何者なんだ?)
 タウとか呼ばれていたもう一人の管理者は、明確にユイエが上位者であるとして接している。それにあの、屈強な男を指一本で吹き飛ばす『力』。尋常のものとも思えない。
「何をぼうっとしている。そこに座れ」
「そこ……?」
「寝台」
 何気なくそう言われて、マデュを寒気が襲った。
(犯される……っ!)
 秩序を乱した所為で。ついに、ユイエの欲望の餌食になってしまう。だとしても、マデュは抵抗できない。まさに指一本で、押さえつけられてしまうだろう。
 震えそうになっていると、ユイエははぁっと溜息を吐いた。そうして無理矢理座らされ、覚悟を決めようとして目を瞑っていたら、片腕を取られた。先程捻った方だ。
「天使は、『力』を使って囚人を治癒することは許されていない。だが、手当ならば……規定はない」
 ひやっとした布のようなものが、手首を包めた。熱を持ったそこは、気持ち良さを訴える。
(え?)
 こわごわと目を開けると、ユイエが目の前にいた。そして、真剣な顔をして、マデュの左腕に包帯を巻いている。
「なん、で……」
 訳が分からなかった。これではまるで、いや、ユイエがそう言ったように、手当をされている。
「老人を庇って怪我をしただろう。だからだ」
「だから、って……」
 囚人同士が勝手に喧嘩をし、勝手に負傷したのを、天使が癒やすなど。信じられなかった。第一、彼の言った『力を使った治癒は不許可』はすなわち、囚人の怪我など放っておけということだろう。その不文律を破ってまで、何故ユイエはこんなことをしているのだろう。
(あ……れ……)
 目許が熱い。なんだか、泣きたいような気分だった。ユイエに優しくされるのが、嬉しくて、切ない。胸が締め付けられる。
 ユイエの手の温度。はらりと耳にかかる髪の毛。吐息の香り。そんなものが、マデュの身体を甘酸っぱくして、心が熱くなるのが自制できない。
(俺……どうしちゃったんだろう)
 どきどきしている。ユイエの体温が嫌じゃない。身体がむずむずする。
「……マデュ?」
 不審げなユイエの声ではっとした。覗き込んでくる彼が、彼の紺青の目が、真っ直ぐで。
「顔が赤い。他に何処か怪我でもしたか。発熱があるなど普通ではない」
 そうして額をふれられたとき。身体が、熱を帯びたのが分かる。顔が近い。ふたりきりの場所で、こんな風に顔を近づけたことなどないはずなのに、この距離を、知っている気がした。
 無意識に三つ編みを握る。これは、これはかつてユイエが、葡萄の蔓で──。
 知らない光景が脳裏をちかちかと過る。ユイエの真剣な顔。優しい顔。それに、悲しげな顔。
 なだれ込んできた像に、マデュは戸惑う。見たこともないはずのものが、くっきり思い出せる。何故、何故と自分に問ううちに、もしかして、失った自分の記憶の中に、ユイエがいたのではないか、なんて思った。
 人間と天使に接点などない。だから、そんなはずないのに。
 ひどくしっくりきた。
 だから、自然と尋ねていた。口が勝手に言葉を喋る。
「なあユイエ、俺、なんで何も知らないんだ? 俺、お前のこと……知ってるかもしれない」
 ユイエの目が、見開かれるのを見た。手が額から放される。どうしてそんなに驚くのだろう。
「ユイエ?」
「知らなくていい」
 硬質な、金属のような声がマデュを拒絶した。
「お前は、何も、知らなくていい」
 そう言われた瞬間。さっき確かに脳裏にあったものが、なくなった気がした。
 ユイエの、何かを、思い出した気がしたのに。
 何だったのか、もう、分からない。
 それがマデュには悲しいことのような気がした。
「できたぞ。そろそろ『給餌』の時間だ。今日はここで食べていくか」
 言われて見ると、包帯が完全に巻き終わっていた。手首が固定されて、あまり痛くない。
「え……? あ、ああ。その方がいい、な。他の奴らに聞かれてるの、嫌なんだ」
「……俺もだ」
 小さく呟かれた言葉は、聞かなかったことにした。

 口移しの魂は、やっぱり苦い。
 だが、ユイエの手が、いつもより優しい気がした。怪我をした左手を庇うようにしてくれる。それに指先が、もどかしいほどゆっくりと、肌を辿る。
「マデュ」
 顔はいつも通りに無表情なのに、どうしてそんな、悲しそうにマデュを呼ぶのだろう。
 心が痛くて、でも甘くて、くらくらする。唇のふれたところから火が点きそうで、困る。
 このまま、燃え尽きそうな気がした。魂ごと。
 これは、最期のその時の予感だろうか。
(消滅したら、ユイエに会わなくて済むな)
 それだけが胸の透く事柄だ。
 そのはずなのに。
「マデュ」
 ユイエが、他の誰かにマデュにするように口移しで魂を食べさせることを考えたら、何故だか腹の底に澱が溜まるのだ。
 そんな自分に言うに言われぬ気持ちになる。
「マデュ、大丈夫か。……痛そうな、顔をしている」
 胸をいじっていたユイエが、とつとつと尋ねてくる。マデュが快感を得ていないと思ったのだろう。
 そんなことは、ないのに。ユイエにふれられて、気持ちが好くないはずがないのに。
「……別に、痛くない。きもち、いい」
 他の誰にも聞かれていないから。ここにいるのはユイエだけだから。ほんのちょっと、素直になってみる。
 すると、腕の中に閉じ込められた。
「マデュ……マデュ」
 まるで求めるかのように、ユイエが呼ぶから。腕を回し返してみた。
 抱き合っている、と思うと、何故こんなに心が穏やかになるのだろう。
 奪われるように塞がれた唇、じれったいほどそっと、マデュ自身を辿る指に、追い詰められる。
 その先にあるものは、少し、死に似ていると思う。マデュは息も絶えそうなほどの快感の中、精を吐き出した。
「ああっ……ゆいえ。ユイエ」
 彼を呼び。喘ぎ。絶頂しているのに、頭が何処か冷えている。
(もう、あとちっとだけ、か。生きていられるのは)
 記憶にはないが、この若さでこんな場所に落とされるくらいだから、きっと希代の悪人だったのだろうと、マデュは最近諦めている。消えるのも仕方がないかもしれない。
 でも、まだ。まだ生きている。
 最期の瞬間に感じるものが、ユイエに与えられる快楽だったなら、気持ち好さも痛みも混ざって、辛さが緩和されるかもしれないな、なんて考えて、自嘲する。
 目の前にいるユイエが、静かに問うてくる。
「何を笑っている」
 くだらない囚人の感情が、気になるのだろうか。不思議だった。
「お前の所為だよ」
 そう言ってやると、ユイエの無表情が一瞬だけ、揺れた。
(何だ?)
 分からない。だけれど、何かがこの天使の琴線にふれたらしい。口移しが、いつもより優しかったから、きっとそうだ。
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