香盗人

麻田夏与/Kayo Asada

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香盗人

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 昔から、僕という存在は『姉・渡会《わたらい》オリエのまがい物』だった。
 渡会オリエを構成するものは、女性として完璧に美しい。
 時代錯誤さくごはなはだしい、田舎者の価値観だと、東京から引っ越してきたクラスメイトなんかは鼻で笑っていたにも関わらず、高校の学校祭に遊びに来たオリエを見て一目で彼も恋に落ちた。
 水に溶けてしまいそうな透き通った肌。ほっそりした、ガラス細工の天馬みたいな白い手足。黒目がちな瞳は星のごとくに輝き、セミロングの黒髪はいつも乱れ一つなく艶めき、かき氷のみぞれ味みたいな声でそっと静かに話す。
 そのまがい物──いや、もっと言ってしまえば『劣化コピー』の僕、渡会オクトは、如何様いかようにもし難いほどに、似るべき場所を間違えた。
 どんなに日を浴びても日焼けしない生っ白い肌。棒きれみたいな手足。姉の目が黒曜石こくようせきなら、僕のは底無しの泥沼だ。それを見られるのが嫌で、伸ばしている前髪はほとんど誰からも酷評され、くしを通したこともない髪は柔らかすぎて、いつも寝癖でとっ散らかっている。声が小さいのは同じでも、僕は甘やかさのないハスキーボイスだった。
 所々似ているけど、似るべきではなかった姉弟。
 それが、生まれ育ったひなびた街での渡会家の子供たちへの評価で、僕への烙印らくいんだった。両親は平等に姉と僕を愛してくれるので、それが救いで僕は腐らずにここまで生きてこられたが。
『美しい姉の弟』『渡会オリエの粗悪品』という値打ちは、佐埜さのシズルという唯一無二ゆいいつむにの僕の幼馴染みの少年も同じように認識しているようだ。シズルは姉が好きなのだ。姉と僕の天地ほどの違いを一番知っている。
 ただ彼は、心根が優しく品格を忘れないように育っているので、表だって僕を見下したり、けなしたりしない。
 それだけで僕には、恋をする意味のある相手だった。
 シズルもまた美しかった。
 西日を集めたみたいな色の薄い茶の髪、ヘーゼルブラウンの瞳。それから背が高いのは、遠い異国の血を引いているからだ。シズルを産んでもう十六年この国に住んでいるのに未だに日本語が片言である彼の母の容貌が色濃く出ている。
 シズルを見ているだけで僕は幸せだ。例えばこんな、晴天の高い紅葉の散る校庭で、体育の授業の棒高飛びに興じる彼を見ている時とか。
 しなやかな肉体が、まるで駿馬しゅんめのように優美だ。背面跳びであっさりと障害を乗り越えた彼に、女子生徒の間で黄色い声が生まれる。いいなあ、彼を堂々と讃えられるというのは。

「……ト。オクト、またぼうっとしてる」
「……あ、あー……ごめん」

 高校に入って唯一できた友達である北原エイタが、ふふっ、と微かな笑い声を上げた。彼とささやかな会話を楽しんでいても、前髪で隠した僕の目は大概たいがいシズルを見ている。エイタは多分それを知っていて、それでも僕に柔らかな声で話しかけてくれる。

「佐埜君、相変わらずすごいね。陸上部と良い勝負だ」
「え、あ、そう、だね。シズルは、すごいんだ」

 エイタだけにでもシズルを誇れたのは嬉しい。そこでポーカーフェイスを気取れず「ふひひ」なんて笑い声をこぼしてしまうから、僕は『粗悪品』なのだ。
 自然と目で追っていたシズルは、わらわらと集まってきた女子生徒の群れに囲まれていた。いつものことだ。

「ねえシズル君、この間、渡会君のお姉さんといた? 帰り道、一緒にいるとこカナちゃんが見たって」
「ああ。オリエ姉さん? あのひとの大学、英麗女子大だから、バスの路線同じなんだ」
「それだけ?」

 暗に、付き合っているんじゃないかと彼女らは指摘しているのだ。そうだったら面白くないのだろう。
 僕も、その気持ちは分からなくもないが、身の程知らずだと思う気持ちの方が強い。
 姉とシズルが並んでいると『世界が違う』という言葉の意味を思い知らされる。人間が神の被造物ひぞうぶつだという神話を、信じたくなるのだ。神の手で作られた美しい生き物が姉でありシズルだ。それに割り込もうなんて、どれだけ自己評価が高いのだろうと思ってしまう。

「シズル君、好きなひといないの」

 直接的に問いかけられたシズルは、少しだけ困った表情を見せた。「授業中だぞ」という体育教師の声に、女子たちが散会さんかいしていく。それを苦笑し眺めやったシズルは、目を伏せてこう言った。

「良い香りのひとかな」

    *

 僕の家は、父以外は同じシャンプー類とボディソープを使っている。父は固形石鹸で頭から身体まで全て洗ってしまうのに、整った容貌をしているのだからやっていられない。
 母の使う柔軟剤も、アウターにスプレーしている消臭ミストも、無香料だ。
 つまり何が言いたいかというと。
 姉と僕は、風呂上がりの状態では同じ香りをさせているはずということだ。
 リビングのソファに慎ましやかにもたれて動画を見ている姉は、まだ髪を乾かしていない。烏の行水で風呂から出てきた僕と姉に全くの共通点があるなど、シズルの言葉を聞くまで考えもしなかった。
 だが──シズルの言葉によるならば、ここから後に姉は『良い香り』を纏うのだ。シズルをして好きにならずにはいられなかったほどの。

(姉さん、香水なんてしてたかな)

 姉は、時折県内の情報誌のモデルをしている以外にアルバイトはしていない。派手にお金を使いたがるひとでもないから、広告で見るような高価なブランドの香水など持っていないはずだ。
 一緒に暮らしている姉のにおい、その見当が僕にはほとんどつかない。
 同性でもあるまいし、大学生の姉にいちいち接近などしない。それでなくても、きれいな姉に劣等感を抱いているのだから、近づいて同じ空気を吸うのも烏滸がましいと考えてしまうのだ。
 だから、僕には、シズルの愛する『香り』を知る術がなかった。本当はとても興味があるにも関わらず、だ。
 卑しい下心が僕にはある。
 姉の粗悪品そあくひんが姉に成り代わることはできない。だから僕は永遠に片思いなのだが、姉の『香り』なら真似が出来る。姉と同じになれる。もし僕からその香りがしたなら、姉に向ける目線と同じものを、一瞬でも貰えるのではないかと思ったのだ。
 そんな浅ましい思いで、僕は姉に探りを入れることにしたのだ。
 家に帰った後、家の共有部にある姉の私物をこっそり確認した。リビングには家でだけ使う眼鏡しかなかった。洗面所には、ハンドクリーム、メイク道具、スキンケア用品、ヘアオイルがあった。ハンドクリームは僕と同じニベア製品だから、これは対象外。だとすると。

(髪か)

 あの姉の濡れたような黒髪から良い香りでもしようものなら、確かに男はくらっと来るかもしれない。さっそく見つかった候補品を、僕は使ってみることにした。まだ動画を見ている姉に恐る恐る近づき、姉弟でもないとできない卑怯な手を使った。

「姉さん、ヘアオイル貸してくれない? 髪こんがらがっちゃって」
「ええ? それはいつものことでしょう。急にどうしたの」

 本当のことは口が裂けても言えない。曖昧に笑って誤魔化した僕に、何にも訊かずに貸してくれた姉は、天使であり菩薩ぼさつだ。

「オクトの髪ならワンプッシュで十分だと思うわ」

 そう教えてくれた姉が手渡してくれた、黄金色のオイル。ここに姉の秘訣ひけつがと思うと、どきどきした。ガラスの瓶を落としてはいけないのに、手が滑りそうだ。
姉の言うとおりに一度だけ押して、手のひらに出した液体は──独特の、つんと来るにおいがした。

(え?)

 顔をしかめるほど嫌ではないが、このにおいに恋をする男は相当な変わり者だと思う。

「……姉さん、これ、何のにおい? ちょっと変な感じがする」
椿つばき油よ。髪にとても良いの。香りは寝てる間に飛んじゃうから、気にしない方がいいわ」
「そう、なんだ。ありがとう」

 シズルの恋した香りはこれではない。それは何となく分かる。姉いわく、香りは飛ぶというのだから間違いないだろう。
 無駄につやつやになった僕の髪は、翌日エイタに「今日は何か違うね」という曖昧あいまいな指摘を受けるだけの影響にとどまった。
 手出しできる範囲で香りを確かめられるのは、あとはスキンケア用品だけだ。姉の撮影のある日、こっそり洗面所に足音を殺して潜り込んだ僕は、姉の使っているよく分からないにボトルの蓋を片っ端から開けた。家族の誰かに見つかったら僕の人生は終わりだ。
 そんな覚悟で挑んだのに、どれも特筆すべき香りはしなかった。

(そうなると、残るは──)

 姉の部屋の私物。
 姉は、個室に鍵を掛けない。僕もそうだ。家族の誰かが悪意を持って部屋を漁るだなんて、姉は考えないのだ。
 好都合な反面、後ろめたさが尋常ではなく押し寄せてきた。信頼してくれている姉を裏切り、私利私欲のために、姉の香りを盗もうとしている弟。最悪だ。
 だが、僕は、自分の利を取った。性格まで粗悪品のようだ。
 姉の授業が夕方まである日を選び、体調が悪いと偽り、僕は部活を休んだ。書道部の顧問が心配そうにしていたのが罪悪感を煽る。

「ただいま」

 わざと大きな声を出して、帰宅を告げる。
 共働きの両親はこんな時間には家に戻っていない。それを確認してから、僕は姉と僕の部屋のある二階へと急ぐ。鞄を部屋に置いてから、学生服のまま姉の部屋に忍び込んだ。
 一挙一動にこれほど気を遣ったことはない。カーペットに足跡が残るんじゃないかなんて馬鹿なことを気にしながら、部屋を見回すと、白い箪笥たんすの上が飾り棚のようになっていた。造花がさりげなくあしらわれた花瓶や、レースの飾り布、アクセサリー、友人とのチェキのデコレーション。そしてひとつだけ、小瓶があった。それに目が釘付けになる。

「これ……か?」

 ピンク色の液の入ったボトルには、スプレー口が取り付けられており、香水の一種であるように見えた。
 震える手でその瓶を取って、自室に急ぐ。心臓がばくばくと跳ねて、壊れてしまいそうだ。

(落ち着け。落ち着け、僕)

 極限まで音を立てないようにして扉を閉める。ベッドの前でへなへなと座って、ようやく呼吸が整った。手のひらに収まるサイズの香水瓶は、僕の手の温度で温まっていた。それほど握りしめたのが、愚かなことのように思える。
 改めて見ると、やはりそれは香水瓶のようだった。田舎育ちの僕でさえ知っている有名ブランドのロゴデザインが入っている。

「クロエ……か」

 どんなコンセプトのブランドなのかも、僕は知識がない。だが、姉の部屋にハイブランドの香水があるのは、少し違和感があった。こんなものを売っている場所は、ここらの街には存在しない。インターネット通販でもしたのだろうかと思うが、しっくりこなかった。
 だが、そんな疑問は後回しだ。
 僕は、あらかじめ百円均一店で買っておいた『アトマイザー』を鞄から取り出した。この瓶をずっと拝借している訳にもいかないので、検索で出てきた少量の保管方法をそのまま採用したのだ。購入するとき、二つあるレジの店員の片方がクラスメイトの兄だったので、寿命が縮む思いをしてやっと手に入れたものだ。
 スポイトが付属しているので、びんふたを開ける。途端に、濃厚かつ華やかな、花の香りがした。

「ああ……」

 漏れ出た吐息は、姉にはやはり敵わないという、諦観ていかんによるものだった。
 このみずみずしく芳しい香りを纏う姉は、容易に想像ができる。なんの花なのかなんて、僕には分からない。でも、どんな花より姉は美しいし、香りすらも従えてしまうような気がした。

(シズル)

 彼はこの香りの姉に恋をしたのか。
 なるほど、お似合いだと思う。心の底から。

    *

 一ミリたりとも場所を変えないように注意して姉の部屋に戻した香水。姉は、僕の侵入に気付かなかった。
 帰宅した姉から香水の香りが全くしないのは解せないが、香りというのは時間が経つと揮発するらしい。だから、帰ってくるまでの間に香らなくなっているのだろうと想像が付いた。
 さて、僕は姉の香りを──シズルを虜にした最強の武器を、手に入れてしまった。

(どうしよう)

 教室で香水など付ける訳にはいかない。教師にばれてお説教コースだ。土日にシズルに会うことも考えたが、上策とは言えない。シズルは隣家の子なのだから、適当な言い訳をして家に行けばいいのだが、シズルの家族にはちったら女物の香りをさせている僕を何と思うだろうか。
 そうとなると、狙いは放課後。シズルは吹奏楽部の唯一のコントラバス奏者なので、空き教室で一人、練習していることが多い。それにかこつけて、何度か話しかけたことがあるから、不自然には思われないだろう。
 僕は、芸術系の部活の並ぶ廊下から吹奏楽部の練習音が聞こえだしたのを契機に、部活を抜け出した。
 廊下でそっと、ワンプッシュ。手首に付けてみた。これなら、部室へ戻る時に水で洗い流せる。
花の香りのする僕は、渡会オリエになりきれてなどいないだろう。
だが、一目だけでいい。シズルが恋をしている目を、見てみたかった。

「シズル」

 声を掛けた僕をびっくりした目で見て、シズルは演奏を止めた。

「オクト。部活は?」
「教室に忘れ物して抜けてきた。そしたら、シズルが見えたから」

 言い訳がましく聞こえていないだろうか。そればかり気になったが、シズルは気付かなかったか、あるいは気付かないふりをしてくれた。

「コントラバス、随分上手くなったね」

 さりげない話題を探して近づくと、シズルの端正たんせいな顔が僅かにゆがんだ。

「オクト、何か女の子みたいな香りがする」

 しまった。話題の俎上そじょうに挙げられたときの言い訳を考えてなかった。まずい。大変にまずい。

「あ……えと、これ、は、姉さんの」
「オリエ姉さん? 香水なんてしてたっけ」

 首を傾げるシズルに、ますます頭が混乱する。

(姉さんの香り、じゃないのか)

 シズルの好きなのは。
 小さい頃から姉や僕と遊んでくれて、そのときが、一番楽しそうな顔をしていたのに。姉といる時間がしあわせなんだろうと、ずっとそう思っていたのに。

(別の、子……なんて)

 僕には探しようがない。幼馴染みの彼のことは、そこそこ知ったつもりでいたのに、その目に姉ですらない誰かが映っているのを感じとることもできなかったのだ。

(何やってるんだろ、僕)

 もうやっていられなくなった。そもそも発想が馬鹿だった。好きなひとの、好きなひとに向ける目を見たい、だなんて。僕なんかがシズルの秘密を解き明かしていいはずもない。
 惨めさが押し寄せてきて、僕は適当なことを言って教室を出ようとした。

「オクト」

 シズルの清々すがすがしい声が背中を殴りつけてくる。こんな僕などもう放っておいて欲しいのに、そうしてくれない幼馴染みを恨む。筋違いだ。振り向けないまま立ち止まると。

「部活の後、一緒に帰ろう。俺、墨汁ぼくじゅうの香り好きでさ、部活の後のオクトと居ると落ち着くんだ」
「……分かった。教室で待ってるよ」

 僕はもうこの香りを洗い流すことと、アトマイザーを捨てることしか考えられないのに、口は勝手にそう答えていた。諦めが悪くて嫌になるばかりだ。

    *

 数日後、土曜日。
 モデルのアルバイト帰りの姉から、例の花の香りがした。そして、我が家に爆弾を落としたのだ。

「この方、お付き合いしている写真家の浜辺さん」

 子煩悩の父は噴火した火口のように頭から湯気を出し、今にも若い浜辺さんに殴りかからんばかりだ。僕と母とで必死に止めた。

「まあまあ。オリエ、最近きれいになったと思ったら、こんな素敵な恋人さんがいたのね」

 僕は、そうして腑に落ちた。姉の部屋の香水は、きっと浜辺さんに貰ったものだろう。それを借りたなんて家族に知れたらと思うと、息が詰まりそうになった。
 母が浜辺さんを夕飯に誘ったので、僕はますます居場所がなくなり、お腹が痛いと嘘を言って自室に籠もった。こういう時は心身統一。何か書こう、筆を持ちたい。
心頭滅却しんとうめっきゃく』と書いたところで、部屋の寒さに気が付いた。火もまた涼しというが、心頭滅却しきれていない僕は寒さに耐えきれない。すずりに筆を置き、顔を上げると、小窓の外に雪がちらついているのが見えた。
 初雪だ。

「わあ……っ」

 こんなに早く初雪が降るなんて、珍しい。
 カーテンで閉ざした窓を開けたら、別の意味で僕は嬉しくなった。向かいの窓で、シズルも初雪を見ている。
 シズルが手招いたので、急いで窓を開ける。

「初雪だな」
「そうだね。きれいだなあ」

 この間の一件なんて忘れてくれているようなシズルがありがたくて、素直に言葉を返せた。もうあんな馬鹿な真似はしないから。こういう、些細ささいな時間を大事にしたい。

「今、何してたの」
「ちょっと、筆握ってた。姉さんの彼氏が急に来てさ。リビングに居づらかったから」
「そっか」

 二人で見たこの思い出を大事に、会話が終わったら『初雪』としたためようと思った。僕の他愛ない青春の一ページだから。

「墨ってさ、あれ、何の香りなの。独特だよな」
「ああ、えっと、白檀びゃくだんとか、ジャコウとか、色々入ってる、かな」
「白檀、か」

 何故だか噛みしめるように、シズルが呟いた。線香にも入っている香りだと言ったら、あまりいい気はしないだろうから黙っていた。

「俺、その香り、好きだよ」

 色素の薄いシズルの目が、何故だかとても真剣に見えたから、僕の心臓はどくどくと、シズルのコントラバスみたいな重低音じゅうていおんで音を立てた。馬鹿だな、僕は。
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