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 人魚の王宮は、古代から連綿と引き継がれてきた、由緒のある建物だ。
 食料の豊富な浅い海にあって、珊瑚の化石の積まれた石垣と、凝灰岩で出来た何本もの柱が目印だ。敷地は広く、数多くの部屋が並んでいる。エトが暮らしていた深海の岩場の隙間とは大違いだ。
 さて、その第十五王子・エトの部屋。
 長く使われていなかった寝台は古いが、エトの身体によく馴染んだ。だが、まだ寝ていたくなるような欲求を振り切って、エトは身支度を調えた。
 王子としての、魔法の掛かった装飾品、それはすなわち身を守るまじないのかかった宝石を腰にかけ、磨かれた珊瑚の赤玉のピアスを纏う。この北方の海を統べる一族として、立派な出で立ちのはずだ。
 そこに、昨日もらった花冠をかぶる。上機嫌になって、魔法の水鏡の前に立った。
 だが、姿見の水鏡に映ったエトは、いささか自分にがっかりした。立派な装飾品を身に着けても、花冠が素晴らしくても、エト自身はいたって平凡な、少年と青年の間の姿だったからだ。十七という年齢を考慮しても、少し幼い容貌。耳までの黒髪を真ん中で分けただけの簡素な髪型。目だけは、夏の海のように澄んだ青できれいだと思うが、長年の運動不足はエトの身体を細いままにしたし、日の当たらない場所で暮らしたために、肌は青白いほどだ。
(普通、だなあ……)
 王族ではない他の人魚に会ったことはないが、兄や姉たちと比べてもエトは貧弱で、北方の海の王家特有の濃い金髪でもない。
 エトだけは、南海の人魚の王国から嫁いできた母親似なのだ。南海は平和らしく、比較的小柄な身体の王家だと聞く。まさにエトはその特徴を残していた。そのため兄姉は「母上の忘れ形見だ」とエトを優しい目で見てくれるが、あまり嬉しくはなかった。
 水鏡を見たまま、溜息を吐く。そのとき、長姉のエネリの声がした。
「エト、起きてる? 寝心地大丈夫だった?」
「おはようエネリ姉さん、起きてるよ」
 エネリは豊満な肉体と長い金髪を持つ、それは美しい人魚だ。古の海の大怪物・セイレーンの血族として相応しいすがた。彼女と自分を比べて、落ち込んでしまう。
「どうしたの、そんなに水鏡ばっかり見て。それに、頭に載ってるの、何?」
「エネリ姉さん……ぼく、どうやったら兄さんたちみたいにかっこよくなれるだろう」
「あらあ……病気が治ったと思ったら今度は思春期?」
 にやにやと、姉が近付いてきて、エトの肩に両手を置いた。
 こうして並ぶと、より自分の普通さが際立つようだ。
「違うけど……ぼくさ、昨日きれいな人間のお兄さんに、この花冠もらったんだ。ぼくの鱗と同じ色でしょう、ぼくに合わせてくれたみたいで、すごく、嬉しかった」
 まだ思い出せる、夜目にも麗しい花の色、軽い冠の感触、あのひとの笑顔。
 それがどれだけ嬉しかったか彼に伝えたいのに。
「え? 人間から? 妙なひともいるものねえ」
 考え込むように瞳を上に上げたエネリには構わず、エトは夢見るように続ける。
「だから……あのひとにお礼がしたいんだ。お礼に行って、もう一度、会いたい……けど、こんな普通のぼくじゃ、あのきれいなひとに釣り合わないなあって」
「……エト、やっぱりあなた、思春期に片足を突っ込んでいない? 人間とは……ずっと、緊張関係にあるから、そう簡単に心許しちゃ駄目よ」
 目を尖らせて警告してくるエネリだが、エトはきっとあのひとなら大丈夫だと思っている。
「分かってるよ。でもさ、冠をもらったんだから、お礼は貝殻のネックレスかなあ? どう思うエネリ姉さん」
「重い重い重い! それ、人魚族の求婚のサインでしょ!」
 姉は大仰に否定してくるが、誰かへプレゼントすることが初めてであるエトは、手持ちのアイディアがない。昔父が母に送った、オパール貝のネックレスは見事だったと聞く。そういうものしか思い付かないのだ。
「だって、他に何をあげればいいんだよ。あんなに素敵なもののお返し、思い付かないよ」
「……季節の海の幸とかの方が喜ぶでしょ、人間は。アサリとか……牡蠣の一族は良い塩梅じゃないの」
「ええ、ぼくがお会いしに行って大丈夫かなあ? 族長に『お前は誰だ』とか言われそう」
 人魚の王族はエト以外皆、ここいらの海の生き物の族長と交友関係を結んでいて、顔見知りだ。だから、食用にちょっと海の生き物をいただく時にはこちらは儀礼を持って接するし、向こうも海の王族に捧げる供物として丁重に差しだしてくる、らしい。
「好きな人のためでしょ! 頑張りなさい!」
 そうエネリに背中を押されて、エトは浅瀬の生き物の族長たちに、頭を下げに行った。
 初め警戒されたが、「亡き王妃様の面影がおありになる」と緊張を解いてくれた。しかし、若くて活きのよくて味の良いお仲間をたくさんください、なんて素直に言うのは気が引ける。エトは、イソギンチャクの足のようなふわふわした言葉で説得する。族長はエトの気まずさも、意図も分かってくれて、
「海の王家の王子殿下の願いなら仕方ない」
 そしてエト自身が美味しそうだと思う生アサリ、生牡蠣をいただけた。魔法の網で飾り付け、意気揚々と浅瀬を出立する。
 昨晩と同じ進路で港に上がった。でも、昨日と違って昼間だから、水の上は透明度の高い水色の空だった。また違う地上の世界が見られるのが、とても楽しみだ。

 昼間のヒュンゲル水路は、観光ボートがちらほら水路下りをしていて、人魚にとっては泳ぎにくいことこの上なかった。
 お土産を水路の浅い底に引っ掛けないように気をつけながら、エトはあの人を見た場所までたどり着く。幸い、ボートも近くにいない。
 今度は迂闊に声を出さないように、そっと水面から顔を出した。空が青くてきれいだ。だが、見蕩れている場合ではない。
 ユーリを見かけた浮き舟は、水路側と道路側に二カ所入り口のある店舗だった。水路側のガラス戸は開け放たれており、きっと水路下りの客が声を掛けてきた時用にそうしているのだろうと推測が立った。
 だが、水路側は店の奥なので、入口側より花の数も少ないし、ユーリは入口側で作業をしている。
 昨日見た背中が、店先で客に花を売っているのが見える。昨日とほとんど一緒の格好だが、シャツの色がグレーに変わっている。
(ユーリさん!)
 心の中でだけ呼んで、その姿に見惚れた。慈しみを帯びた声、花を抱く姿がとても優美だ。すらりとした体躯に背の高いのがかっこいい。動く度に背中で跳ねる、薄茶の髪も生き生きしていて、ずっと目で追ってします。
(ああ、やっぱり、好きだぁ……)
 男同士、どころか仇敵同士たる人間族と人魚という間柄なのに。エトの頭からはそんなことが抜け落ちそうになっている。
 そのうち客足が切れた。
 チャンスだと思い、声を張り上げる。
「ユーリさん!」
「え?」
 ぎょっとしたような顔が、こちらを振り返る。目が合う。ああ、やっぱりこのひとはきれいだ。
「あの、昨日の人魚です! 助けてくださってありがとうございました!」
「おやまあ……また会えるとは。それに、名前……」
「すいません、勝手に呼んでしまって。昨日、聞こえたので……」
「いいですよ。間違っていませんし。僕はユーリ・スミットです」
 自分があまりに大胆な行動を取っていたことに、今更気が付く。会いたい一心でここまで来たが、夜より余程人目に付きやすい昼間に、何をしているのだろう。
 だが、その気持ちより、嬉しさの方が勝っていた。ユーリが水路側の扉から顔を出し、しゃがんでこちらの目線と会わせてくれたので、ニヤニヤしてしまいそうだ。
「あの、ぼく……、エトといいます。これ、お土産です。その……昨日の花冠の、お礼に……」
 そうして、虹色の網を店の床に引っ張り出して、おそるおそる見せた。ユーリは驚きを隠さなかったが、中身が立派な貝類だと分かると、ちょっと眉を寄せて笑ってくれた。
「旬のものですね。ありがとうございます。わざわざ届けに来てくれたのですか」
「いえ、その……ユーリさんに会いたくて」
 率直な気持ちを言ってしまう。隠しても仕方がないからだ。
「僕に?」
「花冠、嬉しかったから……それを伝えたくて。海に花はないから、ぼく、初めてで……それに、ユーリさん、かっこよくて……王子様みたいだったから」
 最後もごもごと口篭もると、くすくすとユーリは笑った。優しい微笑みが、エトの胸に染みる。
「それでですか。君が、まだかぶってくれているの。でも……潮に濡れすぎると、花は萎れてしまうんですよ」
「え!? 本当に?」
 慌てて冠を取ると、確かに水色の花がくたりと元気をなくしている。エトは顔をくしゃくしゃにして悲しむ。こんな風になるなんて、知らなかったのだ。
「ごめんなさい……折角のお花、駄目にしちゃって」
「ああ、花は繊細ですから。気にしないでください。それより、花は気に入りましたか?」
「はい! こんなに綺麗なもの、他にないです」
「それなら、昨日の花火も見たかったのでしょうね。すいません、ゆっくりさせてあげられなくて」
 ユーリという青年は、微笑みも素敵だけど、苦笑が似合うのは何故なのだろう。エトが彼を困らせてばかりいるから、その顔ばかり見ている所為だろうか。
「いいえ、ぼくを見つけたのがユーリさんでよかったです。他のひとだったら、どうなっていたか……」
「そうですね。今日も、早く帰った方がいいでしょう。昼間は、水路下りがいつ来るか分からないし」
「……はい。そうですよね」
 エトは、悲しくなって僅かに俯く。花冠は萎れ、こんな短い時間しか彼と話せないのが寂しい。
 すると、ユーリが頭をぽんぽんと撫でてくれた。頬が熱くなる。
「そんな顔をしないで。そうです、これも余り物ですいませんが……造花でよければ花冠を作ってあげますよ」
「造花?」
「人工の花です。これなら海水も大丈夫でしょう」
 そうして店の入り口へと戻っていったユーリは、青い花を抱えてまた水路の方へ来た。そうして彼はするすると、魔法のように花の列を作る。最後には丸く編み込んで、冠になった。
「さあ、どうぞ。君の目と同じ色の花にしてみました」
「わあ……! ありがとうございます!」
 エトはもう嬉しくて嬉しくて、水の下でばたばたとしっぽを動かした。ユーリが自分のことを考えて作ってくれたと考えると、こんなに喜びを覚えたことはないと思った。
「さあ、今度こそお帰りなさい。もう水路下りのボートがいます」
 そうしてユーリは立ち上がった。
 こんな少しの邂逅では、物足りない。でも、気遣ってくれるユーリの心を無碍にはできない。
「はい……あの、ユーリさん。また会いに来ていいですか?」
 真っ直ぐ彼を見上げて、願うように言うと、また苦笑が彼から漏れる。
「……ええ。でも、次は足を生やしていらっしゃい。人魚族は、魔法使いがいるでしょう。こんなに海の幸をここに持ってくるよりは、楽に魔法を掛けてもらえるはずですよ」
 ユーリが踵を返す。
「ではまた。エトくん」
 単純に名前を呼ばれるのがこんなに嬉しいなんて、知らなかった。
 宮殿に戻ってから、きょうだい皆に自慢して回ったエトだ。すっかり呆れられたが、エトには命のように大切なものなので、装飾棚の上に置いて寝台から眺められるようにした。ああ、今日も良い日だった。

*

 次の日。療養所から運んできた、子供の頃から貯めていたお小遣いを持って、地上を目指した。王子として人間と対面することがあるかもしれないからと、きょうだい全てに幾許かのお金は配られているのだ。
 人魚は貨幣を発行していない。海の中は基本的に物々交換なのだ。だから、近くの国の通貨をそのまま使っていることが多い。だからエトの持っているのは、ハルレヒトの硬貨だ。
 ユーリに言われたように自分の身体の魚の部分に魔法をかけて、またユーリの店へ行った。
 正確には、すぐに行こうとした。
 のだが。
 港で人間の足に変えて、着慣れないハルレヒトの民族服である二重ボタンのシャツと、腿の部分の膨らんだズボンに足を通し、木靴を履いたら。
 すっかり気分が盛り上がってしまった。
 港から続く一本道の華々しさに、目を取られる。
 屋台に、テラスに、雑貨屋に、貿易店に。どれも深海にない。浅瀬の王宮にすらない。
「わあ……素敵だ」
 鼻孔をくすぐる、肉の焼ける匂い。大鍋を店頭で掻き回している店もある。ふらふらとエトは寄って行き、慣れない手つきで支払いをして、『ベーコン』という肉を切ったものと、『豆』の『スープ』を買った。店の前の席で食べてみると。
「ほわぁ……」
 そんな感嘆の声しか上がらなかった。とろとろのスープ、ベーコンは噛み応えがあって美味しい。それに、まだそれほど高くない気温の季節と聞くから、身体が温まって嬉しくなる。
(もっと……食べてみたい……)
 これまで使い道がなかったお小遣いを、ここぞとばかりに使っていく。
 隣の店で油の中でぱちぱちと揚がっていた『ポテト』を。
 道すがらで、美しい黄色の色味の美しさに感動した『オムレット』を。
 食べて、楽しんで、はたと気付く。
(ユーリさんにお土産買ってない!)
 自分の食欲にかまけている場合ではない。この小遣いがどれだけの価値があるかエトには分からないので、何よりユーリへのお土産が最優先だ。
 エトは、『雑貨屋』や『貿易店』に次々入っていく。
 珍しい小物、珍しい装飾品、珍しい花。どれもエトの目を引いた。特にいいと思ったのは、ユーリがくれた花冠と同じ花の『ブローチ』だ。服に付けて装飾品にするらしい。
 即決でそれを買い、他にも小物入れだの、ハンカチだの、色々買いあさって。
 ユーリのところへたどり着く頃には、両腕にいっぱいの荷物を抱えていた。
 食べ物は自分で食べたけれど、他は全部ユーリへのお土産だ。喜んでくれたらいいと思いながら、浮花市の通り沿いを目を輝かせて歩いてやっと着いたのだった。
 エトの姿を見たユーリは、やっぱりまた苦笑してこちらを見た。
「随分賑やかですねえ、エトくん」
「ユーリさん! これ、お土産です!」
「ええ? こんなにいただけませんよ。たまの機会でしょう、君が持ってお帰りなさい」
 エトが差しだした紙袋を、ユーリは押し返した。エトはしょんぼりする。
「でも……」
「折角の思い出でしょう、大事にしてください」
 確かに忘れたくない思い出ではある。だからこそユーリに持っていて欲しいのだ。そう言いかけたところで、花屋の客が来てしまった。仕方なく口をつぐむ。
「いらっしゃいませ。チューリップが盛りですよ」
 でも、ユーリが生き生きと働くすがたが見られたのでとても楽しかった。団体の観光客が来たので、ずっとユーリをお客さんに取られたままだったけれど、眺めるだけで心がうきうきする。
 やがてユーリが昼食を摂ると言うので、お暇することにした。
「ユーリさん、これだけ、もらってください」
 一番お気に入りの花のかたちのブローチを渡す。ちょっと目を瞠ったユーリは、
「これ、僕が最初に渡した花ですね。よく見つけましたね、僕もこの花は好きです。ありがとうございます」
 ユーリは微笑んで受け取ってくれた。渡すとき、手と手がふれて、ドキドキした。
 そのまま帰路についた。気に入ってくれてよかったと、ずっと喜びに震えながら。

*

 また次の日。早朝のこと。
 人間の足と衣装に身を替えたエトは、少し肌寒い中、ユーリの店の前で彼を待っていた。まだ近くの花屋どころか港の飲食店すら開店していない早い時間で、眠いし退屈だったけれど、今日はずっとユーリと一緒に居たかったから頑張って立っていた。
 だから、思惑通り、ユーリの驚いた顔が見られたのはとても嬉しかった。
「エトくん……こんな朝早く」
「ご迷惑でしたよね。でも、どうしてもぼく、ユーリさんの顔が見たくて」
 明らかに困惑したユーリだったけれども、エトが譲らないのを察したのか、一つ溜息を吐いて、苦笑。
「……そうですか。ではエトくん、お店の準備手伝ってください」
「はい!」
 ガラス戸に設えられた南京錠をユーリが外し、店の中に入っていく。エトも後に続いた。そうして真っ直ぐに彼は、店の裏のガラス戸を開けた。
 するとそのすぐ脇で、古い小舟が錨を降ろしていた。見ると、ユーリと同じ髪色の小柄な老夫が乗っている。ボートの中いっぱいに、色とりどりの花の入ったバケツが積まれていた。
「おや、ユーリ、この子は何処の子じゃ。カイリによく似ておる」
 老夫が目を細めたので、慌てて名乗る。
「あ、ぼく、エトといいます! 今日はお手伝いで……」
 エトが言いかけたところで、ユーリが声を上げる。
「じいちゃん、彼はエトくん。最近友達になったんだ。内緒だけど、人魚族の子でね」
 最後は小声で言ってくれたユーリに、エトは感動した。初めての友達だ。本当は、恋人同士が良かったけども。
「エトくん、このひとは僕の祖父のユージンです。東のニリエラの街で花畑を営んでいて、僕がそれを売り捌くという寸法なんですよ」
 そうして片目を瞑ってみせたユーリの色気に胸をどきどきさせながらも、エトはこの国の地図を脳裏に描く。
「ニリエラ……? すごく遠いところじゃないですか」
 大河でフローリンゲンとは繋がっていたはずだが、それでも移動は大変だろう。
「人魚さんは博識じゃな。このボロ舟だと、二時間かかるなあ。骨が折れるわい」
 そうして腕を押さえて笑った老夫に、エトはぴんときた。こんな自分でも、このひとたちの役に立てるかもしれないと。
「あの! もしご迷惑でなければ、僕、空間魔法使えるので! 畑とここを直接繋いで持ってくれば、すぐです! この店のお手伝いさせてください」
 その提案に、ユーリとユージン老父は、一瞬凍った表情をした。そうして顔を見合わせて、そして互いに目を閉じてしまった。
 なんだろう、とエトは不思議に思った。だが、ユージン老夫が、
「お気持ちだけで結構だ。儂はな、苦労して孫の顔を見るのが好きなんじゃよ。だから、この舟の旅を邪魔せんでくれ」
 そう言ったのでエトは少ししゅんとした。でも、好きなひとの祖父だというひとを怒らせる訳にもいかない。エトは「分かりました、すいませんでした」と素直に謝った。
 何故だか、ユーリがずっと無表情でいるので、自分の所為で不機嫌にさせたかと問おうとしたら、
「エト君。君は人魚の王族の子なんですか? 人魚で魔法を使えるのは王族に連なる者だけだと聞きました。君は……」
「はい。セイレーンの子孫・セレーネ王家の血族で、現王の第十五王子です」
 はっきりとそう告げた。そういえばユーリに言ったことはなかったな、と気付く。でも、身分の差なんて、この歴然と横たわる種族の違いに比べたら、くだらないものだろう。
「そうですか。エト君なんて気軽に呼んだら駄目でしたね。それに、そんな立場ある者が、こんなところを何度もふらついていてはいけませんよ。危ないでしょう」
 くっきりとした笑顔で諭してくれるユーリはやはり優しいと思う。いつもエトの身柄を気にしてくれる。
「大丈夫です! これでもぼく、きょうだいの中で一番魔法が強いんです。大抵のことはなんとかできます」
「……ならいいんですが。あ、そうだエト君。港の『ブーランベル』という店に行って、朝ご飯を買ってきてくれませんか。祖父も僕もいつもここでいただくんです。君の分のお金も渡しますから」
 そうして、財布を預けてくれたユーリにやる気が出る。
「行ってきます!」
 道に迷い、知らない人に沢山行き方を教えてもらいながら、目当ての店で「ユーリさんのお使いです。朝食三人分お願いします」と勢いよく言えば、
「おや、人を寄越すなんて珍しい。新しい雇われさんかい?」
「いえ、今日だけお手伝いしてるんです」
「ふうん……まあいい。サラダの盛り合わせと、えんどう豆のスープだ。気をつけて持っていきな」
 そうして紙袋を渡されたが、少し重い。魔法で荷物を送ってしまいたくなるが、魔法の使えない人間族だらけの街でそんなことをしたら、人間族の忌み嫌う『魔族』であることがすぐにばれてしまう。仕方ないので、ゆっくりと運んだ。
 ハルレヒトは、人間族の居住者が九十五パーセントを占める、このあたりでは珍しい国だ。昔から、人間族以外の種族とは確執があったそうだが、決定的になったのは、十三年前にこの国を襲った大飢饉のときだという。
 森の奥のエルフ族は魔法を駆使し、自分たちの食料を確保した。人魚族も王家の魔法でそうした。だが、ドワーフ族や獣人族は餓え、人間の街で職探しを始めた──それが、一部の人間の反発を買った。
 エルフや人魚は卑怯だと糾弾されたし、人間より腕力で優れる獣人や工匠として素晴らしい腕を持つドワーフが雇用されたことにより、人間の取り分が圧迫されたというのだ。
 人間族以外にとってはほとんど濡れ衣だったのだが、それでも数の圧力に勝てない。人間族以外は『魔族』とひとくくりにされ、そうして人間族による『魔族狩り』が始まったのだという。
 深海で療養中だったし、幼少期だったエトは、『魔族狩り』を詳しくは知らない。それで母親を失ったことしか。
 だが、国際的に『魔族狩り』を非難され、中止を余儀なくされるまでの一年間、種族同士の争いは続いていたのだという。
(……よく考えたら、人間から、相当恨まれてるんだよな、ぼくたち人魚は。人魚も……母上を殺されたから、人間を許していないけど)
 だが、ユーリとはもっと仲良くなりたいと思う。種族の壁なんて、エトのこの想いには何一つ影響しなかった。あのきれいで優しいひとが、大好きだということだけが、今エトを突き動かしている。
「ユーリさん、ユージンさん、朝食買ってきました」
「ああ、ありがとうエト君。そこのテーブルで食べましょう」
 そうして、ささやかな食事と会話を楽しみ、ユージンはまた舟に乗って帰って行った。
 そろそろ開店時刻だと意気込んでいると、
「エト君、すいませんが……浮花市の端っこの球根屋に、お使いに行ってくれますか。祖父の庭に次に植える花を選んできて欲しいんです」
 そうしてまた店を出されてしまった。
 だが、次に植える花というのは、この店で売る花のことだ。重大な任務だと意気込み、市の端まで歩いた。
 球根屋は、もう信じられないほど花の種類を取り揃えていて、迷いに迷った。球根に手描きの花の見本が描いてあるのだが、どれも美しいのだ。
 困り果てていると、店員が寄ってきて笑顔でアドバイスをくれた。昼頃までかかってしまったのに、一緒に悩んでくれたのだ。
 ユーリ以外の人間も、人間族には優しいのだな、とエトは知った。気分良く戻ると、またお使いに出され、ユーリとなかなか顔を合わせられないまま、十七時の閉店時刻になった。
(今日はもう帰らなきゃな)
 もうすっかり夕方で、紫に染まった空がきれいだ。何だか切ない気持ちになりながら見上げていると。
「今日はありがとうございました」
 ユーリが、背中に夕日を背負ってそう言った。
 オレンジの光が強すぎて、顔が真っ黒になって見えない。
「エト君──ちょっと伺いたいんですけど」
「はい?」
「君、僕のこと好きでしょう」
 エトは、言葉を無くした。悟られているなんて思わなかった。振り返ってみると、三日連続で彼の許を訪れているのだから、察されていても仕方ないかもしれないと、今更認識した。
(わ……ぼく、恥ずかしい奴だ!)
 ユーリが近付いてくる。彼が笑みを浮かべているのに、逃げたいと思う。咄嗟に背を向けると。
「答えないのは卑怯ですよ」
「ユ、ユーリさん!?」
 温かさが背中を包んで、心臓が跳ねた。まさかこれは、ユーリの体温だろうか。
(ぼく、ユーリさん、に、抱きしめられてる……?)
 そう思うと、脚の間がうずうずして、身体が発火しそうになって、消え去りたい気持ちとずっとこうしていたい気持ちが綯い交ぜになる。
「答えてください。僕のこと、好きですね?」
「そ、そんなことは……、な、ない……です……」
 しどろもどろで言い訳したら、くすくすと耳許で笑い声がした。
「嘘吐きですね。こんなに固くしてるでしょう」
「え?」
 つうっ、と。熱くなっている場所を探られて、そこと背中に知らない感覚が走って、身体が甘くなる。吐息が荒くなる。
(なんだ……これ)
 抱かれていることも、まさぐられていることも、エトを混乱させるのに、どんどん思考を身体の感覚に支配されていく。
 くすくす。くすくす。
 ユーリのその笑い声だけに、占められていく。
「ここ、気持ち好いでしょう? もっと、気持ち好くなりたくありませんか、僕と」
「ユーリさん、と?」
「ええ。正直に言いなさい、エト君」
(ぼくの、正直な、きもち……?)
 そんなのはもう。エトの中に言葉は一つしか残っていなかった。
「ユーリさんが、好き、です」
「……いい子ですね。こっちへいらっしゃい」

 薄明の刻。足音をあまり立てずに歩くユーリの後ろをついていった。
 ユーリが一言も喋らないから、エトも何を言ったらいいのか分からなくて、黙っていた。
「ここが僕の家です」という灯りの点いていない煉瓦造りの建物に案内された。中はあまり広くない。エトの自室の半分くらいで、最低限の生活用品しかなかった。
「すいません、座るところがベッドしかなくて」
 苦笑したユーリが、闇の中で、タンスらしきものの上にあった板状のものを倒した。
「それ、何ですか?」
「お気になさらず。時にエト君、セックスのご経験は」
「はい!?」
 エトはもう、口も利けない。セックスとは、交尾のことだろう。そんなもの、伴侶を得てからするものだというのが人魚の常識だ。
 そんな説明を、しどろもどろにすると、暗い中でも分かるくらいに、ユーリが唇を弧のかたちにした。
「じゃあ、僕とが初めてということで──これから君は、『キズモノ』になるんですよ」
「キズ、モノ?」
 聞いたことのない言葉だ。首を傾げると、「王様にはまだ内緒にしておいてくださいね」とにんまりしたユーリがぼんやり見える。
 そうして、あっさり衣服を脱がされた。
 まだエトは、何が起きているか理解していない。だが、人魚の時には隠れている性器が露出している人間の身体は、とても恥ずかしいと思った。
「エト君の身体、青白くってきれいですねえ」
 のほほんと褒めてくれたのが嬉しいが、それ以上に羞恥心が強い。深海で育ったエトは、多分ユーリよりもずっと、闇の中でも目が見える。だから、裸になったユーリのしっかりと筋肉のついた身体も、どこか冷たいような獰猛な目も、はっきり分かってしまうのだ。
「はじめましょうか。エト君、こちらに」
 腕を引かれて、ベッドの上に座ったユーリの脚の間に身体を挟まれる。ユーリの性器が目の前にあって、息を呑む。
「あ、あああの、ユーリさん! これ!」
「フェラチオ、知らないですよね。これを口に含んで、元気にして、君の中に挿れられるように奉仕するんですよ──君が」
「ぼく、が」
 想像もしたことのないことに頭がぐらぐらしてくる。なのに、ユーリの脚の間からは、嗅いだことのない、ぞくぞくする匂いがした。それに誘われるように、だがたっぷり躊躇ってから、エトは目の前のものをそっと口に含んだ。
 不思議な感触だ。
 ふにゃふにゃしているが、先端の方は何か硬いような場所がある。温くて、ふわふわで、探るようにぺろぺろと舐めていると、
「エト君、まだ下手ですねえ。こうするんですよ」
 不意に後頭部を押さえられて、含んだものを咥内に押し付けられる。それだけでなく、何度も頭を揺らされて、次第に口の中で大きくなっていくそれが喉奥を突くのが嘔吐感を込み上げさせるのに、ユーリは頭を離してくれない。
「ふ……ひ、ん──あ」
 呼吸すら儘ならなくなるのに、ユーリの雄が口の中で育つのが、嬉しい。だって、これを『元気にする』とエトの中に挿れてくれるというのだから、辛くても、頑張らなければ──だが、挿れるとは、何処にだろう。
「……ああ、少し良くなってきました。エト君、君は淫らな子ですね。教えてもないのに、自分のを触って」
「へ?」
 驚いて口を彼から離す。自分の手を見ると──脚の間の性器を自分で握っていた。いつの間にだろう。顔が羞恥で真っ赤になる。
「あの、ぼく、そんなつもりじゃ……」
「王様は君がこんなえっちな子だって知ったら悲しむでしょうね。ごきょうだいも」
「ひぃ……っ、言わ、ないで」
 ユーリがけらけらと笑う。何故かその声に、いつもの優しさがないような気がして、エトは少しこの行為が怖くなってきた。ユーリほどの優しいひとが、態度を変えるほどのものなのだろうか、これは。
 そう思うのに、口で奉仕するのも、自分を慰めるのも、止まらない。背筋が快楽──やっと知ることになったものに、ぞくぞくと震えそうになる。
「そのまま達してしまいなさい。奉仕は止めていいですから。自分の指で無様に射精するのを見せなさい」
 そうして、ユーリの指がエト自身を、つうっとなぞった。それが気持ち好すぎて、エトはそこばかり擦る。ユーリの指の幻想が、あまりにエトを追い詰めたので。
「は……あ、う……っ!」
 全く知らない、下から込み上げる感覚があって。エトは自身から、初めての射精をした。どくり、どくりと、吐き出すたびに腰が震える。腹を白いものが汚す。この快感を二度と忘れられないだろうと思った。
「……早い、ですね。それに濃い」
 くすくす笑う声すら心地良くて、困ってしまう。
 床にぱたぱたと落ちた粘液を、ユーリの指が掬い上げ、そうして彼はにっこり笑った。
「気持ちが好かったですか? 自分でするのは」
「は……い……」
「それじゃあ、もっといいこと、しましょうね」
 そうして腕を引かれて、ふかふかのベッドに顔を押さえつけられた。辛うじて首を横に倒すが、背中をすうっと指で辿られて、それにすら感じてしまう。
(ぼく……こんなにいやらしい奴だったの?)
 そうだったらどうしようという気持ちと、でもユーリがそれを望んでいるなら、という気持ちが両方過る。
 きっといま、頭を伏せられてユーリの一挙一動を待っているのは、男として情けないことだ。でも、でも──ユーリにふれられるのは、天国に飛んでいきそうなほどしあわせなのだ。
 ユーリの腕が、ベッドヘッドの引き出しをひいて、中から小箱を取りだした。箱の中から白い粉を手に出して、彼が口に入れるのが見えた。
「ユーリさん、何、してるんですか……?」
「これは通和散と言って……東国で作られた、男同士での性交用の道具です。唾でふやかして使うんですよ」
 最初に持った疑問は、何故そんなものをユーリが持っているのだろう、ということだった。その次に、ふやかして何にどうするのか、だ。
 エトは迷って、最初の疑問をユーリに投げた。
「あ、あの、ユーリさん。こういうこと、よくするんですか……?」
「まあ、初めてではないです」
 淡々と告げる彼に、心がどんどん沈んでいくのが分かる。エトにとってこんなに特別で、忘れられないだろう出来事が、ユーリにはありふれた出来事なのだと思うと。
(……くそ、これくらいで泣くなよ、ぼく)
 ユーリからは顔を背けたから彼は気付いていないだろう。だが、ぽろぽろと、涙が出てしまう。
(こういうのって、特別な相手とするものじゃないの?)
 エトにはもう分からない。だけれどその思考は──ユーリの指がとんでもないところを探ったことで吹き飛んだ。
「ユ、ユーリさん! 何を……そこ、汚い……」
「男同士はね、ここでするんです。大丈夫ですよ、エト君ならすぐに気持ち好くなれますから」
「え! うそ……だ……」
 だが、ユーリの指は、例の『ふやかして使うもの』を穴へと塗りつけている。そうして、恐怖に逃げたくなる前に、ユーリの長い指が、そこへと入り込んできた。
「っう……!」
「おや、意外と中は柔らかいですね。魚ですから筋肉だけかと思っていました」
「い……いまは、にんげんと、おなじ……」
「そうですか。──では存分に楽しみましょう」
 とてつもない奥まで、入ってくる感じがする。そうして、指が中で折り曲げられて──悲鳴を上げた。
「やぁっ! やだ、ユーリさん、そこ、へん……っ」
「前立腺ですね。ここをいじるだけでも男は射精できるんですよ。したいですか? こんなところを好きにされて、射精」
「や……ん、そん、な、つもりじゃ……」
 でも、その場所を突かれると、腰が浮いてしまうような、快感の巣を直接ふれられているような気分になる。
(そこ……もっと、ごしごし、してぇ……)
「エト君。今、もっと欲しいと思ったでしょう。ふしだらな子ですねえ」
「あん……っ、ごめ、なさ……」
「えっちなエト君へのご褒美に、いいものをあげましょう」
 そうして指が引き抜かれたのを感じて、入り口がひくついてしまう。もっとして欲しかったのが、きっと後ろから丸分かりだろう。
「エト君」
 ユーリが膝立ちになり、後ろに回った気配がある。振り向こうとした瞬間、身体に杭を打ち込まれたような衝撃が、エトに走った。
「ひ──い! やん、それ、まって」
 混乱と激しい痛みの中、エトは必死で首をいやいやと振って、身体に溜まった感覚を逃がそうとする。そうしないと死んでしまう気がした。
 だが、はっきりと分かる──今、ユーリが自分の中に居る。
 痛くても、辛くても、それは脳を沸騰させそうなほどの悦楽だった。
「待って欲しいですか? 抜きますよ」
「や、抜かないで……! ここに、いて、ください」
「……本当に、淫乱な子ですねえ」
 馬鹿にされたのが分かる。でも、それでも、もっと奥まで彼が欲しい。
「痛いですか? エト君。痛いならそう言いなさい」
「いたく、ないです……、ユーリ、さん、もっと」
 ぎしぎしと背骨が軋みそうなほどに這いつくばらされ、屈服させられているのに、痛いとはどうしても言いたくなかった。本能が、奥をかき混ぜて欲しいと言っている。
「……そうですか。では遠慮なく」
「ひぃっ! ああ、だめ、そんな……ぁん」
 肌のぶつかる音が響くほどに、奥まで突かれる。頭が蕩けて何もかも分からなくなってくる──感じているのは、ユーリの杭の熱と、硬さだけだ。それがぐりぐりと中を抉るのが、勝手に涙の出るくらいに、気持ち好い。
「痛いですか、エト君」
「だいじょうぶ、です……奥、きもちいい……」
「……ちっ」
 舌打ちが聞こえる。何か気分を害しただろうかと不安になると、
「出しますよ、エト君」
 そう言われた次に──腹の奥が、じわり、熱くなった。
 内側で、まるでひとつの生き物のように、ユーリの雄が脈打っている。それが、ひどく胸を掻き毟るようなしあわせで。
「あん……っ!」
 その衝動だけで、エトは再び射精した。恥ずかしい、壮絶に。
(ベッド……汚しちゃった……)
 自分の性器からは、はしたなくも白濁液が落ちている。それが、羽布団を汚してしまったのが申し訳ない。
「すいません、ユーリさん。ぼく、ベッドを……」
「……王子様がこんなことをしてるなんて知ったら、皆どう思うでしょうかね」
「み、んな……?」
「人魚族の皆です。それとも、人魚はみんなこうなんですか?」
 揶揄われているのか、本気なのか分からない。
 だが、そんな中にも、再び自身をいじられて、息が出来なくなる。
「ち、がう……ユーリさん、やめ、っ」
「ほとんど知らない男のモノを咥えて気持ちよくなって、無理やりお尻の穴をいじられてあんな声を」
「やだ、やめ、て、ください……!」
 そう、事実を言われて身体中がかぁっと熱くなる。恥ずかしいのに、何故かそれが気持ち好い。
「……あれ、悦んでますか? 虐められるのが好きなんですね。だって、君のここ──裂けているのに、気持ち好かったんでしょう」
「……そう、です」
 ユーリが笑う。とても可笑しそうに。
「君がそんな恥ずかしい子だってこと、皆には秘密にしてあげましょうね」
 そうして手で責め苛まれるのは終わった。ほっとするような、もっと触っていて欲しかったような。自分が滅茶苦茶だ。
「あり、がとう、ございます……」
 そうしてやっぱり訳の分からないまま、部屋を追い出された。戸口で、
「ユーリさん……キス、してもいいですか」
 そう強請ったが、「いい子は早く帰りましょうね」と、ふいにされてしまった。
 こんな、一方的に快楽に浸されるのも、呆気ないお別れも、人間には普通のことなのだろうか。
 それとも、エトはユーリにいいように使われただけなのだろうか。
 それも、エトには分からない。
 お伽噺で聞いた『はじめて』とはずいぶん違うこと、そしてなんだか悲しいことくらいしか、エトは理解できなかった。

*

 人魚のすがたに戻ると、腰の下辺りが海水に染みた。
 王宮はもう夜で、衛兵が眠そうにエトを出迎えた。
「ん? 血の臭いがする……エト様、お怪我をなさっていませんか」
「ああ、ええと、地上で転んだだけです。大丈夫」
 そう誤魔化して静かに部屋に戻ると、エネリが待っていた。
「エト! こんなに遅くまで何していたの? このところ毎日人間の世界に行って……父上、怒っておられたわよ」
 そんな言葉も素通りする。完全に意識が遠いところにいるエトに気が付いたのか、エネリがエトの肩を掴んで彼女の方を向かせた。
「エト。どうしたのよ、本当に」
「……エネリ姉さん、ぼく、……好きなひとと、交尾しちゃった」
 ほとんど無意識にそう言っていた。自分の痴態を話さなければならないかもしれないのに。
 エネリは絶句して、それから頭を抱えて床に沈み込んだ。
「ああ……もう……何処のお嬢さんが相手よ……人間状態で交尾すると、下手をすれば相手身籠もらせるわよ」
「いや、あの……花屋の、お兄さんだよ。僕が……ええと、突っ込まれた」
 訂正すると、エネリはもう顔を真っ青にする。しばし黙り込んだ後「お父様にご報告!」と飛んでいきそうになったから、慌てて止めた。
「ぼく……、またあのひとと交尾がしたい。もっとあのひとのこと知って、楽しいことがしたい。もっと、会いたい」
「エト……」
 地獄の底から帰還したようなエネリは、悩ましげに頭を抱えたり顔を手に伏せたりしていたが、最後には諦めたような表情をして。
「……わかった。私は何も言わない。でも、エト。自分を大事にして」
 そう言って部屋を去った。
(自分を大事にって、どういうことだろう)
 やっぱりエトには分からない。
 分からない事だらけで、困ってしまって、寝台に身を投げ出した。
(頭、ごちゃごちゃだ)
 だけれど。
 それ以上に、あのひとのことが気に懸かってしかたない。
(どうして、ぼくと、あんなことしたんだろう……)
 分からない。けれど、あの優しいひとのことだから、ユーリのことが好きなエトを放っておけなかったのかもしれない。それか、『初めてではない』というあの淫らな行為を、したい気分だったか。
(それだけだったら嫌だなあ……)
 エトを好きになって欲しい。そうして、今度は出来れば顔を見ながら、あの行為をしたいし、それに。
(やっぱり、キス、してくれないかな)
 お伽噺の王子様のように、エトに。
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