部屋とワイシャツとビッチ

麻田夏与/Kayo Asada

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4.『頭を使う』ポジション

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 冬休みの間、佑は毎日朝から晩まで部活らしい。家庭教師の時間は変わらないが、佑がいつも疲れ切っているので、逸樹は毎回の勉強の進行を、少し緩めてやっている。本当は佑に冬休み前までの総復習をさせてやりたいのだが、途中で終わってしまいそうだ。
 そんな中、大学も正月休みで暇だからか、白嶺が毎回家庭教師の後に迎えに来るようになった。
 白嶺が佑に妙な揶揄いをしたからなのか、初めてのときより、白嶺と佑の間に距離ができているように見える。佑が一歩引いて、踏み込まないようにしているように、逸樹には感じられるのだ。
 大晦日に白嶺が顔を見せたときも、佑はそんな様子だった。それでも、玄関の外まで出て逸樹を見送ってくれるのだから、律儀な少年だ。

「おい」

 白嶺に肩を引っ張られて、逸樹が彼の方に顔を向けると、鼻先に煙草の臭いがした。白嶺はヘビースモーカーなのだ。だから、キスをするときは、逸樹はいつも苦く感じる。
 佑の前でこんなことをするのは嫌だった。だが、白嶺に反抗するなんて、逸樹にはできない。だから、苦いディープキスも、受け入れるしかなかった。

「せん、せい」

 佑の愕然とした声が、逸樹の耳に届く。咄嗟に白嶺を振りほどきたくなるが、白嶺がこちらの後頭部を押さえてくるので、できない。

(どうして、こんな)

 白嶺の意図が分からずに、唇が離されたにも関わらず、ぼうっとしてしまった。その間に、白嶺の口許が歪む。鋭い目線がこちらを外れ、佑の方を向く。だが白嶺の言葉は逸樹に向いていた。

「この間飲みで会わせた童貞いただろ。今日はあいつと寝ろ」
「……はい」

 こんな年の瀬に勘弁して欲しいのに、逸樹に許されている答えは一つだった。頑張って尽くしてやって、行く年来る年は自分の部屋で見たいな、と微かに思う。
 白嶺に肩を抱かれたのにも逸樹は刃向かわず、二人、そのまま歩き出す。佑に背を向ける前に、逸樹が彼の顔を窺うと。
 誰かが絶望しているのを逸樹は初めて見た。

「佑」
「……よいお年を、先生」

 そうして佑は、勢いよく家の中に戻っていった。
足許に、決定的な亀裂が入って、もう二度と向こうに戻れないような。逸樹にはそんな気がしてならなかった。

(ああ、こんな年末、最悪だ)

 誰かもよく知らない男に笑顔で奉仕をしながらも、佑の絶望の表情ばかり、思い返していた。
 翌日、今年こそ白嶺から解放されますようにという真剣な願いを抱えながら、逸樹は初詣に行った。無理なのは分かっている。逸樹と同じ理工学部の白嶺は、今年は大学院に進むのが決まっている。逸樹も周囲の多くがそうするのに流されて院に進学予定だから、最低あと二年、白嶺に支配される。
 この後、家庭教師が入っているのが憂鬱な逸樹だ。年始からの労働が嫌な訳ではない。佑に蔑んだ目で見られるのが嫌なのだ。
 溜息をこぼしながら井上家に着くと、佑の両親に出迎えられた。佑の父とは初対面なので、互いに深々と頭を下げて、年始の挨拶をした。
 佑は二階の部屋で待っていた。あの律儀で礼儀正しい少年が、年始の出迎えをしないことに、逸樹は心の中で自分に失望した。

(覆水盆に返らずって、こういうことだろうな)

 もうあの少年に、逸樹は見放されたのだろうと確信する。

「あけましておめでとう、佑」
「おめでとうございます、先生」

 案の定、佑がこちらに向ける視線が硬い。もう気安く笑い合うことはないのだろうなと、逸樹は寂しくなる。
 逸樹が部屋に入ると同時にこちらに背中を向けて、素早く勉強机に向かった佑に、温度のない声で問われた。

「昨日は……その、楽しめましたか」
「……別に楽しくねえよ。白嶺さんの命令だから、仕方なくしてるだけで」

 うっかり言い訳をしてしまって、逸樹ははっとした。だがもう遅い。怪訝そうな目線を、佑がこちらに向けている。

「いつもああやって、白嶺さんが斡旋してるんですか?」

 もう、何もかも隠せない。逸樹はそう悟った。もういっそのこと全て吐き出してしまおう。それで、逸樹が流れ流されビッチまでやっていることを佑に軽蔑されたとしても、仕方がない。事実だからだ。

「そうだな。おれはあのひとの、奴隷だから」
「奴隷? ……恋人じゃないんですか」

 逸樹はそっと首を振る。白嶺が恋人だなんて考えたこともないし、白嶺だってそう思っていないだろう。

「白嶺さんともするし、オンナ扱いされてるけど……恋人じゃない。そんな相手、おれにはいないよ」

 そうして逸樹は白状した。自分の意思でたくさんの男と寝ている訳ではないこと、白嶺に無理矢理身体を奪われてからはずっと、彼の奴隷であること。
 逸樹が包み隠さず全て告げた後、長い沈黙。佑が何を考えているか、逸樹はその横顔から読み取れない。ひとの顔色を窺って生きてきた逸樹なのに、これでは名折れだ。

「……そうですか。白嶺さんは、勿体ないことをしますね」
「ん? どういうことだ?」
「先生から、恋人だと思ってもらえないなんて」

 佑がようやく、ほんのちょっとだけ笑って見せた。逸樹もほっとする。

「奴隷がどう思ってようとあのひとには関係ないだろ」
「そうかな。俺にはそう見えない。あのひと、素直じゃないから」

 白嶺のことをよく知っているかのように佑が言うから、逸樹はもう、疑問を押しとどめていることができなくなった。

「なあ、白嶺さんとはどういう知り合いなんだ? お前みたいな真面目な奴と白嶺さんに繋がりがあるなんて、おれ、信じられないんだ」

 逸樹が思い切って問うと、佑は複雑そうな表情を更に深くする。そのまま言い淀んだが、しばらくしてから佑は、熱い声で言った。

「白嶺さんは、俺の憧れのひとです」
「……は!?」
「白嶺さん、うちの部活のOBなんです。あのひとに憧れて、俺は野球を始めました」

 あの白嶺が野球をやっていただなんて、逸樹には想像できない。だが佑は「白嶺さんの名前とうちの学校名で検索して」と言う。臼井白嶺、Y高校。すると本当に、野球帽を被った、初々しい笑顔の白嶺の画像が多数出てきた。

「白嶺さん、甲子園で活躍するスター選手だったんです。俺も小学校の頃、たまたまテレビでホームランを打つ白嶺さんを見て……格好よくて、憧れて、すぐに近くの野球チームに入りました」

 一年生で名門高校の四番打者という重責をものともせず、全国大会で活躍する白嶺の笑顔が、目に焼き付いたのだと佑は言う。

「同じ横浜の学校だって知って、思い切ってサインをもらいに行きました。そしたら白嶺さん、照れてて。でも特別だって笑って、俺の名前入りのサインをくれました」

 そのときのサインを、佑はまだ大切に取ってあるそうだ。
佑は白嶺と同じ私立の中学の入試を受け、白嶺のようになることを夢見て練習を重ねた、という。

「でも。高校三年の春、白嶺さんは腕を怪我して。最後の甲子園に出られなくて。そのとき──色々あったみたいで」

 やや言葉を濁した佑は、悔しそうな顔をしている。憧れのひとの挫折は、佑にとっても辛いものだったのだろう。

「そのうち、白嶺さんの素行が荒れたって、中学にまで噂が流れてきました。でも俺には優しくしてくれたから、俺は白嶺さんを信じることにしていたんですけど。でも」

 そこで言葉を止めて、俯いた佑はきっと、逸樹の口から『白嶺の今の姿』を知ってショックを受けたのだろう。
 純真な高校生の憧れを消したくはない。だが、逸樹の知っている、逸樹を貶める白嶺は、間違いなく『クズ』だ。過去の彼には同情するが、だからといって逸樹を奴隷扱いしている事実は消えない。

「そんな格好いい『白嶺さん』はもういない」
「……はい」

 ひどく受け入れづらそうに。佑が項垂れたのを、逸樹は見ないふりをした。
 井上家を去って、白い息を吐き出す夜。まだ元日なのに、もう一月が終わってもいいんじゃないかというくらいの、じっとりとした疲れが逸樹の両肩に乗っている。

(あの白嶺さんが、ひどい目に遭ったなんて)

 底なしのクズだと思っていた相手にすら同情する自分の優柔不断さに逸樹は呆れた。それに、信じていたものを奪われた佑にも同情して、どうしようもない気持ちになる。

(白嶺さんと、話してみようかな。佑はまだあなたに憧れてるって)

 だが、白嶺の周りの誰もが、高校時代の彼の話をしない。禁句タブーなのかもしれない。本人から聞いたこともないから、きっともう白嶺は野球のことなんて思い出したくないのだろう。佑が白嶺の前で野球の話をしないのも、きっと白嶺を気遣ってのこと。

(でも……)

 佑のために何かしてやりたい。逸樹がそう強く思ったときだ。スマートフォンが震えた。白嶺からの着信だった。

「……はい」
「家庭教師は終わったか? それなら今すぐ来いよ。抱いてやる」

 抱いて欲しいなんて、逸樹は言ってないのに。相変わらず身勝手で横暴な白嶺らしい言葉だが、いつもと違って、虚勢を張っているように聞こえた。もしかして、寂しかったんじゃないかなんて思うのは、逸樹が間違っているのだろうが。

「すぐに行きます」

 白嶺の部屋には他に誰もいなかった。取り巻きがいないのは珍しい。最近では、取り巻きに見せつけながら逸樹を滅茶苦茶にするのが好きみたいだから。

「さっさと脱いで、股開け。しばらく貸してた所為で、溜まってるんだ」

 貸したのも白嶺の都合だろう、と思ったが逸樹は口にはしない。その代わり、決死の言葉を告げる。可愛い教え子のために。

「佑が、そういう白嶺さんを見たら、どう思うでしょうね」

 白嶺の三白眼が吊り上がる。怒りに燃えた表情。怒気が白嶺の身体から立ち上がって、目に見えるんじゃないかと思うほどの。

「佑に何か聞いたのか」
「……さあ」
「おい。お前自分の立場、分かってんのか? 奴隷が生意気言うんじゃねえ」
「……すいません。でも」

 身を竦ませながらも逸樹が続きを言おうとした。だが、ばきっという音と共に、強烈な痛み。頬に。
 殴られたのだと気付いて、逸樹は驚きで、白嶺を見返す。

「白嶺さ」
「うるせえ」

 胸ぐらを白嶺に掴まれ、腹にもまた、拳を食らわせられる。逸樹は呻いて倒れる。そのままベッドに引き摺られていって、力尽くで脱がされた。怖い。白嶺の表情が怒りに燃えているから。

(あんなこと、言わなければ良かった)

 逸樹は後悔したが、時既に遅し。白嶺はきっと、彼の過去を自分が知ったことに、気付いているのだろうと、逸樹は推察した。
 それに激昂するのが、過去をいとっている証だということに、白嶺は気付いていないのかもしれない。気付いていても、ほとばしる感情を止められないのかもしれない。
 どちらでも、逸樹にとっては同じ事だった。不自然なほどに歪んだ白嶺の笑顔が、こちらを向いたから。

「お前は俺の『オンナ』だろ。だったらお前は、俺と同じくらいに不幸にならなきゃおかしいよな?」

 そうして、冷たいままのローションを雑に塗られただけで、逸樹は、白嶺の勃起したものを中へと突っ込まれた。血が出なかったのは、白嶺や誰かも知れない男に長年開発されたたまものだが、逸樹は特に嬉しくはない。
 恐怖のためか快感も得られないまま何度も陵辱されて、最後にまた頬を殴られた。その一撃で気絶して、逸樹が目を覚ましたときには白嶺は部屋にいなかった。煙草でも買いに行ったのだろう。
 バスルームを借りる。鏡を見ると、二度殴られた逸樹の頬は、すっかり痣になっていた。これはしばらく、残りそうだ。


*


 次に家庭教師に行くときにも、逸樹の頬の痣は、まだくっきりと残っていた。出迎えた佑が驚いた顔をし、何か言いたげにした。きっと、白嶺の所為だと察したのだろう。

「ごめんなさい、先生を巻き込んで」

 佑に深く謝罪されたから「お前のせいじゃないよ」とだけ、言っておいた逸樹だ。
 一通りバイトをこなして、佑に見送られつつ井上家の外に出ると、白嶺が待っていた。

「白嶺さん、何でここに」

 暴力をまだ覚えている身体は、勝手に足を止めた。だがぐずぐずしていると、また不機嫌にさせるのは明白だ。震える身体を押さえながら、逸樹は白嶺の方へ向かう──が。強い手が、逸樹の腕を掴んだ。佑の手が、逸樹を繋ぎ止めている。

「白嶺さん。先生のこと、殴ったでしょう」

 佑の声は、驚くほど淡々としていた。そのためだろうか、白嶺が一瞬だけ、気圧されたように逸樹には見えた。しかしそれは気のせいだったかもしれない、直後、白嶺が凶悪に顔を歪めたから。

「だったら何だ? 俺のオンナを俺がどうしようと」
「そうですか。じゃあ先生は、渡しません」

 そうしてそのまま、逸樹は佑に腕を引かれて。気付いたときには、佑の顔が目の前にあった。

「た」

 すく。は、彼の唇に飲み込まれた。キスされている。教え子に。井上佑に。
 耳の近くでシャッター音。逸樹はびっくりして身体を離す。佑の真剣な表情がこちらを見ていて、それからにんまりと笑う。いつもと同じようで、何処か違う。

「逸樹さん、白嶺さん。これ見てください」

 そうして見せつけてきた佑のスマートフォンの画面には、佑と逸樹のキスがばっちり写っている。白嶺も睨めつけるようにそれを見た。

「未成年とのキス写真は、流石に逸樹さんにも白嶺さんにもまずいですよね。白嶺さんがもしまた逸樹さんを殴ったりするなら、白嶺さんの写真も付けてスポーツ雑誌に流します。昔の甲子園のスター選手が、今は恋人にDVしてるなんて、食いつくところもあるんじゃないかな」

 とぼけるような態度の佑は、逸樹の知らない彼だった。あの白嶺を相手に取引しようなんて、逸樹は考えつきもしない。
 佑が逸樹に目線をくれる。にっこり、爽やかな笑みがこちらを向いている。

「逸樹さんも、この写真まずいですよね? 大人しく、俺の恋人になってください」
「……はい?」

 混乱して目を白黒させる逸樹を余所に、白嶺が夜に轟きそうなほどの大笑いをした。

「何だよお前、結局こいつに惚れてんじゃねえか!」

 惚れる。佑が。逸樹に。
 それを理解できないまま、佑の腕に守られる。逸樹を、白嶺の視線から庇うように、してくれたから。

「好きにしろよ。お前がそのつもりなら『未成年』のお前とヤってるそいつの写真、SNSに流してやる。『童貞食い』にお前も食われて、お前ら二人とも破滅すれば良いんだ」

 そう言い残し、白嶺は去っていった。その姿が闇に消えるのを見送って、状況を少しだけ把握して。──逸樹の身体は勝手に竦んだ。

(何てこと、してくれたんだ)

 あの臼井白嶺を脅すなど。後々何をされるか分かったものではない。
逸樹の恐怖を察したのだろう佑の手のひらが、温かく逸樹の頬を撫でて、それからこちらの手をぎゅっと握った。

「佑、どうしてあんな」
「俺が逸樹さんのこと好きだから。白嶺さんでも、逸樹さんのこと殴るとか、許せなかったし。それにやっぱり、俺を好きになって欲しいんで──言ったでしょ、俺意外と『頭を使う』ポジションなんです」

 ああ、捕手ってそうだったなと、平和なことが頭に浮かんで、逸樹は慌てて打ち消した。そんなことでほんわかしている場合ではない。だって、逸樹を脅す写真はまだ、この少年の手の中にあるのだ。

「だから、逸樹さん。写真、ばらまかれたくなかったら、俺と付き合ってください。あ、セックスは俺が大人になってからでね」

 にやりと笑った佑に、逸樹は気付く。
 身の安全を掛けた、綱渡りな、新たな地獄の日々が始まったことを。
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