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三章 朱里の為に
第87話 傷
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㉒
使い終わったティーカップを魔法で洗ってから仕舞うと、立ち上がって地面につけた印を確認する。自分たちがどれほど進んだのかは分からないが、それは翔に絶望を与える要因にはならない。
「それじゃあ行こうか」
「ああ」
返事をして真っ先に歩き出したのは煉二で、普段話さない分を根掘り葉掘り聞かれた彼の頬はまだ少し赤い。だからその場から早く逃げたかったのだろう。
「あ、煉二君、そっちじゃないですよー」
「……ああ」
「まったく、相変わらず方向音痴なんですからー」
再度頬の朱を濃くして戻ってきた彼に、翔は寧音が決して彼を一人で行動させない本当の理由を知った気がした。
それから暫く、生垣の迷路を四人は進んだ。相変わらず敵や罠の気配は無いが、当然警戒は続けている。彼らの全身からは適度に力が抜けており、いつ何が来ても問題はない。
――あ、花。よくよく見るとあちこちに咲いてるな。
明るい通路を鮮やかに彩る花々は、アーカウラに存在するものと特に変わらないようで、翔のたちの目をただ楽しませた。少し上を仰げば、奥の方に荘厳な建物の影が見える。その建物は蔓草に飾られているが、まるでそうであるべきモノとして作られているような自然さで、翔には古めかしさ等を感じられない。
「この庭、こんなに奇麗だったんだね」
そう言ったのは陽菜だ。
ちょうど同じ事を思っていた翔は特に力むことなく、うん、と肯定の返事を返し、微笑む。それからこれまで畏ればかりを感じていたのが間違っていたのか、と少し、それまでの景色を楽しめなかったことを後悔した。
「翔、見ろ。何かあるぞ」
「あれは、石碑と、なんだろ?」
煉二の杖が示したのは、進行方向のずっと先だ。まだぼやけた輪郭程度しか確認できないが、それまでとは明らかな差異であり、自然と翔たちの歩みが早くなった。時間としては休憩から三十分以上経過した頃だ。
近づいてみるとそこは広場になっており、雪蔓の紋章と文字の刻まれた石碑のほかに小さな杯の乗った台座があった。金色の杯は、両手なら握り混んで隠してしまえる程度の大きさで、細かな装飾が施されている。
「『眠れる王の為、父の為、三柱は新たな器に血肉を捧げ、その肉体を用意しようとした。されど王はあまりにも偉大で、その魂を納めるに足る器のあるはずが無い。三柱は考えた。無いのであれば作れば良いと。数奇なる運命に選ばれて三柱の下に迷い込んだのは、王の残滓を受け止めた少年だった。三柱はその魂に、自らの血潮を捧げた』だって」
陽菜の声に、翔は視線を石碑へ移す。他に道の見えない以上、その文章の意味する所を読み解かねばならない。一見すれば物語の序章のような、そんな内容だ。実際どうなのかは翔には分からないが、彼にはこれが、ただヒントとしてそこにある物だとは思えなかった。
――いや、今はそれより、先に進むことが大事だ。
気を取り直して、文章を読み直す。
今度の謎は、翔もすぐに分かった。
「『血肉を捧げる』、『血潮を捧げた』、それに、小さな杯。『決して傷無きに済むことのあり得ぬことを』って、こういう事か」
「うへー、もう慣れましたけど、自分でするのはちょっと嫌ですねー……」
「そうだね」
陽菜も寧音もすべきことは理解しているようで、同様に顔を顰める。唯一分かっていなかった煉二も、やや遅れて気が付いて顔を顰めた。
表情を変えぬまま、陽菜が一応といった様子で確認する。
「これ、杯いっぱいにしなきゃダメだよね?」
「だと思う。でもまあ、四人ならそんなに大変じゃない、はず、たぶん」
答えた翔にも専門的な知識があるわけではない。この中で最も人体について学んでいる寧音も、見た目だけで杯の容積を知る能力は持ち合わせてないため、はっきりと答えられない。
「とにかくやってみよう」
そう言った翔を含め、四人共が表情を顰めて変えないまま解体用のナイフを取り出し、自身の手首に傷をつけた。当然滴る真っ赤な鮮血は少し地面を濡らし、それから杯の中に注がれていく。
間もなくして器を紅色が満たすと、杯がぼんやりとアメジスト色に光り、同じ色の光球となって石碑に吸い込まれた。寧音と陽菜がすぐに全員の傷を治療する中、石碑は徐々に輪郭をぼやけさせ、その姿を消す。向こう側にはこれまでと同じような生垣の通路が続いていた。
「良かった、間違えてなかったみたい」
翔は小さく息を吐き、微笑みを浮かべる。陽菜たちもそれは同様だ。
「少し休憩してから進もうか」
「そうですねー。元の世界の知識だと貧血になってても不思議でない位の血を流しましたからねー」
そう言う寧音は既にマドレーヌのような焼き菓子を取り出しており、翔としてはつい、苦笑いを漏らしてしまう。その行動が悪いわけではない。ただ、相変わらずだと思っただけだった。
それから彼は陽菜へと視線を移し、優しく目を細めた。彼女の手にも、寧音と同じ焼き菓子が握られていた。
「順調だな」
そう煉二が言ったのは、そろそろ出発しようかと翔が立ち上がった時だ。
「うん。このまま行きたいね」
「そうですねー」
翔に倣い、煉二たち三人も立ち上がって装備を確かめる。探索や出血による体力的な疲れはあるが、魔力の完全なままにここまで進んでこれている。星護る霊樹亀戦までを思えば、消耗は無いに等しい。心身ともに必要なだけの緊張感も保てている。万全とは今の彼らを指す為の言葉だろう。
――この調子なら、問題なく一番奥まで行けそう。良かった……。
未だ夢に見ることのある最悪は、この迷宮攻略の中では、いや、今後一切、姿を現さないように感じられる。
翔は一度胸の辺りで右手を握りしめると、仲間たちに笑顔を向け、行こうか、と告げた。
それから暫く、生垣に囲まれた迷路を、これまでと同じように進む。少し視線を上げると奥に見える建物は、徐々に彼らに近づいており、そこが目的地なのだろうと翔は考えていた。
水路を流れるせせらぎと花の香りが翔に安らぎを与え、気が付けば聞こえるようになっていた囀りがその心を楽しませる。彼がふと後ろに視線をやれば、陽菜や寧音もそれらを共有していることが分かった。煉二ばかりは神妙な表情を保っていたが、その足取りは見る者が見ればわかる程度に軽い。
ピクニックに来ているみたいだ、と考えながら翔が角を曲がった時、次の広場が見えた。先刻のものと同じような空間で、唯一違うのは杯とそれの置かれていた台座がない事だ。
「また石碑か。それで、次は何を捧げれば良いのだ?」
「ちょっと待って、今読み上げる」
翔はやや小走り気味に石碑に近づくと、そこに記された金色の文字を目で追った。
「『彼女となった彼は神々の血潮を受け、箱庭に降り立った。彼女を偉大なる王の器とする為だけに用意された箱庭は、彼女に悠久の自由と、数多の試練を与える。神々は彼女を導くために、彼女の大切なものを奪った』だって。これって、つまり……」
自分の大切なものを、そう考えながら、翔は陽菜をちらと見た。見てしまった。
真っ黒な石碑から夜の闇のように黒く金色の光を纏った四本の鎖が飛び出し、陽菜の四肢に絡みつく。突然のことに、誰も反応できない。
「陽菜っ!」
最初に反応を示したのは当然翔で、石碑へ引っ張られていく最も大切な人へ手を伸ばすが、届かない。彼女の手は翔の手をすり抜けて、輪郭をぼやけさせていく石碑に吸い込まれた。
使い終わったティーカップを魔法で洗ってから仕舞うと、立ち上がって地面につけた印を確認する。自分たちがどれほど進んだのかは分からないが、それは翔に絶望を与える要因にはならない。
「それじゃあ行こうか」
「ああ」
返事をして真っ先に歩き出したのは煉二で、普段話さない分を根掘り葉掘り聞かれた彼の頬はまだ少し赤い。だからその場から早く逃げたかったのだろう。
「あ、煉二君、そっちじゃないですよー」
「……ああ」
「まったく、相変わらず方向音痴なんですからー」
再度頬の朱を濃くして戻ってきた彼に、翔は寧音が決して彼を一人で行動させない本当の理由を知った気がした。
それから暫く、生垣の迷路を四人は進んだ。相変わらず敵や罠の気配は無いが、当然警戒は続けている。彼らの全身からは適度に力が抜けており、いつ何が来ても問題はない。
――あ、花。よくよく見るとあちこちに咲いてるな。
明るい通路を鮮やかに彩る花々は、アーカウラに存在するものと特に変わらないようで、翔のたちの目をただ楽しませた。少し上を仰げば、奥の方に荘厳な建物の影が見える。その建物は蔓草に飾られているが、まるでそうであるべきモノとして作られているような自然さで、翔には古めかしさ等を感じられない。
「この庭、こんなに奇麗だったんだね」
そう言ったのは陽菜だ。
ちょうど同じ事を思っていた翔は特に力むことなく、うん、と肯定の返事を返し、微笑む。それからこれまで畏ればかりを感じていたのが間違っていたのか、と少し、それまでの景色を楽しめなかったことを後悔した。
「翔、見ろ。何かあるぞ」
「あれは、石碑と、なんだろ?」
煉二の杖が示したのは、進行方向のずっと先だ。まだぼやけた輪郭程度しか確認できないが、それまでとは明らかな差異であり、自然と翔たちの歩みが早くなった。時間としては休憩から三十分以上経過した頃だ。
近づいてみるとそこは広場になっており、雪蔓の紋章と文字の刻まれた石碑のほかに小さな杯の乗った台座があった。金色の杯は、両手なら握り混んで隠してしまえる程度の大きさで、細かな装飾が施されている。
「『眠れる王の為、父の為、三柱は新たな器に血肉を捧げ、その肉体を用意しようとした。されど王はあまりにも偉大で、その魂を納めるに足る器のあるはずが無い。三柱は考えた。無いのであれば作れば良いと。数奇なる運命に選ばれて三柱の下に迷い込んだのは、王の残滓を受け止めた少年だった。三柱はその魂に、自らの血潮を捧げた』だって」
陽菜の声に、翔は視線を石碑へ移す。他に道の見えない以上、その文章の意味する所を読み解かねばならない。一見すれば物語の序章のような、そんな内容だ。実際どうなのかは翔には分からないが、彼にはこれが、ただヒントとしてそこにある物だとは思えなかった。
――いや、今はそれより、先に進むことが大事だ。
気を取り直して、文章を読み直す。
今度の謎は、翔もすぐに分かった。
「『血肉を捧げる』、『血潮を捧げた』、それに、小さな杯。『決して傷無きに済むことのあり得ぬことを』って、こういう事か」
「うへー、もう慣れましたけど、自分でするのはちょっと嫌ですねー……」
「そうだね」
陽菜も寧音もすべきことは理解しているようで、同様に顔を顰める。唯一分かっていなかった煉二も、やや遅れて気が付いて顔を顰めた。
表情を変えぬまま、陽菜が一応といった様子で確認する。
「これ、杯いっぱいにしなきゃダメだよね?」
「だと思う。でもまあ、四人ならそんなに大変じゃない、はず、たぶん」
答えた翔にも専門的な知識があるわけではない。この中で最も人体について学んでいる寧音も、見た目だけで杯の容積を知る能力は持ち合わせてないため、はっきりと答えられない。
「とにかくやってみよう」
そう言った翔を含め、四人共が表情を顰めて変えないまま解体用のナイフを取り出し、自身の手首に傷をつけた。当然滴る真っ赤な鮮血は少し地面を濡らし、それから杯の中に注がれていく。
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「良かった、間違えてなかったみたい」
翔は小さく息を吐き、微笑みを浮かべる。陽菜たちもそれは同様だ。
「少し休憩してから進もうか」
「そうですねー。元の世界の知識だと貧血になってても不思議でない位の血を流しましたからねー」
そう言う寧音は既にマドレーヌのような焼き菓子を取り出しており、翔としてはつい、苦笑いを漏らしてしまう。その行動が悪いわけではない。ただ、相変わらずだと思っただけだった。
それから彼は陽菜へと視線を移し、優しく目を細めた。彼女の手にも、寧音と同じ焼き菓子が握られていた。
「順調だな」
そう煉二が言ったのは、そろそろ出発しようかと翔が立ち上がった時だ。
「うん。このまま行きたいね」
「そうですねー」
翔に倣い、煉二たち三人も立ち上がって装備を確かめる。探索や出血による体力的な疲れはあるが、魔力の完全なままにここまで進んでこれている。星護る霊樹亀戦までを思えば、消耗は無いに等しい。心身ともに必要なだけの緊張感も保てている。万全とは今の彼らを指す為の言葉だろう。
――この調子なら、問題なく一番奥まで行けそう。良かった……。
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翔は一度胸の辺りで右手を握りしめると、仲間たちに笑顔を向け、行こうか、と告げた。
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