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一章 陽菜の為に
第37話 流れ往くもの
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㊲
空を流れる雲のように、時は留まることなく過ぎ去って行く。このひと月、翔たち四人は限界を超えた代償に悶え苦しみながら、アルジェの城で疲れを癒していた。
最後の一撃の余波で祭祀場から落下して命を落とした法王を除き、あの場にいた司祭たちはアルジェの手によって裁かれた。その後法王国は周辺諸国で領土を分け、統治する事になったとアルジェは言う。実際はその形で収まるよう根回しを済ませてあったのだが、結果的に彼女は、その条約の見届け人として会談に参加したり結んだ条約の通り確実に遂行させるたりと東西奔走する事になった。
生贄に捧げられようとしていた面々は彼女の城へ連れ帰られ、すっかり回復した今では他のクラスメイト達と揃って『アーカウラ』の社会的な常識を学んでいる。
先ほどまで窓を打っていた雨は止み、雨雲も既に何処かへ流れ去って姿は見えない。庭園の片隅で煌めく花々の露玉ばかりがその名残を伝えていた。
そんな花々に囲まれるのは、白い大楯の埋め込まれた石碑だ。楯の表面には、『邦護祐介』と日本語で刻まれている。
「もうみんな、すっかり本調子になったみたいですね。アルジェさん、色々、ありがとうございました」
翔は親友の墓を見つめながら静かに言った。彼の斜め後ろには陽菜が立ち、二人を囲むようにグラシア姉妹と朱里たちが並んでいる。
「……いいのよ」
「みんなは、どうするって言ってます?」
墓を見つめたまま彼は聞く。ここ最近はクラスメイト達とタイミングが合わず、その手の話を出来ていなかった。
「色々ね。冒険者をしたいって子もいれば、どこぞで騎士になりたいって子もいるし……そういえば私の城で働きたいって子もいたわね?」
彼女はこれから各地の情勢を伝えた上で望む場所まで連れて行くつもりらしい。彼ら【転移者】に彼女が負える責任は、そこまでだった。それ以上を求めるには、共に過ごした時は短すぎ、そして彼女の立場は重すぎた。
「それなら、安心です」
翔はアルジェが世界の調停を担う存在である事を思い出した。同時に、元クラスメイト達は前向きに生きようとしているのだとほっと息を吐く。
「あなた達、これからどうするの?」
「墓は、音成さんが管理してくれるって話ですから、旅に出ようと思ってます」
翔は〈ストレージ〉から手拭いを取り出しながらしゃがみ込み、楯の水滴を拭き取る。
「日本に帰る方法を探したいっていうのもあるんですけど、祐介が前、言ってたんです。せっかく異世界に来たんだから、世界中を回ってみたいって」
翔はその時の祐介を思い出して微笑む。あのニカっと笑う顔は、もう彼らの心の中にしかない。
「だから、この世界を実際に見て回って、時々ここへ来て教えてやりたいんです。こんな国に行って、こんな人たちとこんな事をしたんだぞ、って。あいつが、あの世で退屈しないように……。後で翔ばっかずりぃって怒られそうですけどね」
アルジェは誰もいないはずの翔の隣を見て、微笑んだ。
「……そう。なら、いつでもおいでなさい」
楯は、陽光を反射して陽気に光っている。
「時々は私たちにも語ってくれたら嬉しいわ。千年も生きてると、けっこう退屈なのよ」
「……はい。ありがとうございます」
手拭をしまい、翔は立ち上がった。どこか影を残す彼の顔は、後ろの六人には見えない。ただ陽菜だけがそれに気が付き、不安げに見つめる。
「翔、受け取りなさい」
振り返った翔にアルジェが取り出したのは、不思議な文様の刻まれた指輪と、一本の剣だった。
「こっちはちょっとしたお守りの効果と[物質透過]の付与をした指輪よ」
これなら剣を持つ邪魔にはならないだろう、と彼女は翔の手に指輪を握らせる。台座に嵌められているのは、アルジェを示す紋章を象った紫色の宝石だ。
「貴族関係や王族関係で何かあれば見せなさい。大抵の場合はどうにかなるから」
「あと、私たちみたいに〈鑑定〉できない相手にもね」
「そういう人、だいたい、【調停者】だから」
アルジェたち姉妹の言葉に受け取って良いものかと悩む翔だが、結局素直に受け入れた。彼女の庇護下にあると示すそれを託される事が、何を意味するのかを、しっかりと理解していたから。決して道を踏み外さないよう心に決め、右手の人差し指に嵌める。
そしてもう一つ、どこか見覚えのあるような、黒い鞘の片手半剣を見る。アルジェの手から受け取り、引き抜いてみると、真っ白な剣身が彼の黒い瞳を映した。
「あなたの剣、法王国で砕けたでしょう? ……祐介って子の代わりに連れて行ってあげなさい」
「それって……」
微笑む彼女に翔は目を見開く。それは、祐介の剣を翔用に打ち直したものだった。
「香があなたに使ってほしいって」
改めて見るその剣は、ただ片手半剣に打ち直しただけでは説明できない威圧感を放っている。どうやったのか翔の手にぴったりと合う様に作られた柄。そして彼にとって最適の重心。込められた付与は、壊れる事を許さず、万が一多少欠けても復元するという[不壊]。グラヴィスの鎧と同じ、上から三番目の伝説級の位を持った剣であり、彼にとってこれ以上は無いと言えるようなものだった。
翔は剣を鞘に戻すと、腰に差してその重さを受け止める。
「……本当に、ありがとうございます」
言葉が見つからず、何度目かわからないありがとうを言う彼に、姉妹は微笑んだ。彼の表情に隠された影に若干心配げな視線を向ける彼女たちだが、陽菜を見て、すぐに問題ないと悟る。
「さて、そろそろ戻ろうか」
「ああ」
「そうね」
「そうですねー。そろそろアリスさんのお菓子が恋しいですし」
肌寒さを感じたのか、片腕をさすりながら翔は三人へ振り返る。四人はそのまま揃って歩き出した。アルジェ達はまだやる事があると別の方向へ向かう。
不意に腕を掴まれるのを感じ、翔は足を止める。何となく既視感を覚えながら、その手の持ち主へ振り返った。
「陽菜? どうか――っ!」
視界いっぱいに見えた最愛と、鼻腔を擽る甘い香り。そして、唇に触れた熱い感触に、翔の脳は活動を停止する。徐々に思考が戻り、状況を理解すると同時に、彼の顔は真っ赤に上気した。
「翔、陽菜、どうかした、の、か……」
二人がついて来ていない事に気が付いて煉二が振り返り、動きを止めた。彼の様子を見て振り返った女子二人も、右に倣う。
陽菜は寧音が上げる黄色い悲鳴を気にも留めず、それを続ける。互いが苦しくなって来た頃、ようやく翔は、彼女の朱に染まった頬をはっきりと見ることが出来た。
「ぷはっ。ひ、陽菜、突然どうしっ」
「や、約束だったから!」
慌てふためく翔の言葉を最後まで聞くことはなく、彼女は言う。耳まで林檎のように染まった彼女は、やや目を伏せ、翔の胸元当たりを見て続ける。
「帰ってきたら、ちゃんと、その、キスするって、約束したから! ……翔君に、少しでも元気になってほしくて」
やっぱりばれてたか、と小さく漏らした翔は、そのまま陽菜を抱きしめる。そして、甘えるように彼の胸に顔をうずめた彼女の後頭部を撫でた。
「陽菜、ありがとう」
彼女は小さくコクリと頷き、少し体を離して、翔の顔を真っ直ぐと見つめた。
「翔君、私は、あなたを一人にしない。絶対、独りにしないから」
朱に染まったままのそこには、強く輝く、二つの真っ黒な宝石があった。それは愛しい人をはっきりと映し、翔に彼女の決意の確固さを伝えていた。
アルジェ達姉妹は、その様子を少し離れた所から見ていた。陽菜の言葉は、彼女たちにもしっかりと届いている。
「『アーカウラ』。神々の箱庭、ね……」
翔たちの行く末を憂えるように、アメジストの瞳が揺れた。
「大丈夫だよ、あの子たちなら」
「うん」
スズネは抱きしめ合う二人を優し気に見つめる。ブランはいつもの無表情だが、スズネに賛同する声には確信が込められていた。
「だって、私たちが大丈夫だった」
言外に自分たちと彼らは同じだと言うブランにアルジェは微笑み、そうね、と返す。
翔たちはまだ、この世界の事を何も知らない。姉妹の知る『アーカウラ』の真実はもちろん、そこに暮らす人々が何を思い、どういう価値観の下に生きているのか、どうやって暮らしているのかを、本当の意味では知らない。
彼らはそれを、これからの旅で知っていく。時には死を覚悟するような困難に直面することもあるだろう。
だが、アルジェが彼らの未来に抱く思いは、たった一つだけ。彼女は妹二人と視線を交わし、それからもう一度、翔と陽菜を瞳に映す。
「もう手を放しちゃ駄目よ」
その呟きは突如吹いた風に連れられ、二つの陽が煌めく空の何処かへ運ばれていった。
空を流れる雲のように、時は留まることなく過ぎ去って行く。このひと月、翔たち四人は限界を超えた代償に悶え苦しみながら、アルジェの城で疲れを癒していた。
最後の一撃の余波で祭祀場から落下して命を落とした法王を除き、あの場にいた司祭たちはアルジェの手によって裁かれた。その後法王国は周辺諸国で領土を分け、統治する事になったとアルジェは言う。実際はその形で収まるよう根回しを済ませてあったのだが、結果的に彼女は、その条約の見届け人として会談に参加したり結んだ条約の通り確実に遂行させるたりと東西奔走する事になった。
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先ほどまで窓を打っていた雨は止み、雨雲も既に何処かへ流れ去って姿は見えない。庭園の片隅で煌めく花々の露玉ばかりがその名残を伝えていた。
そんな花々に囲まれるのは、白い大楯の埋め込まれた石碑だ。楯の表面には、『邦護祐介』と日本語で刻まれている。
「もうみんな、すっかり本調子になったみたいですね。アルジェさん、色々、ありがとうございました」
翔は親友の墓を見つめながら静かに言った。彼の斜め後ろには陽菜が立ち、二人を囲むようにグラシア姉妹と朱里たちが並んでいる。
「……いいのよ」
「みんなは、どうするって言ってます?」
墓を見つめたまま彼は聞く。ここ最近はクラスメイト達とタイミングが合わず、その手の話を出来ていなかった。
「色々ね。冒険者をしたいって子もいれば、どこぞで騎士になりたいって子もいるし……そういえば私の城で働きたいって子もいたわね?」
彼女はこれから各地の情勢を伝えた上で望む場所まで連れて行くつもりらしい。彼ら【転移者】に彼女が負える責任は、そこまでだった。それ以上を求めるには、共に過ごした時は短すぎ、そして彼女の立場は重すぎた。
「それなら、安心です」
翔はアルジェが世界の調停を担う存在である事を思い出した。同時に、元クラスメイト達は前向きに生きようとしているのだとほっと息を吐く。
「あなた達、これからどうするの?」
「墓は、音成さんが管理してくれるって話ですから、旅に出ようと思ってます」
翔は〈ストレージ〉から手拭いを取り出しながらしゃがみ込み、楯の水滴を拭き取る。
「日本に帰る方法を探したいっていうのもあるんですけど、祐介が前、言ってたんです。せっかく異世界に来たんだから、世界中を回ってみたいって」
翔はその時の祐介を思い出して微笑む。あのニカっと笑う顔は、もう彼らの心の中にしかない。
「だから、この世界を実際に見て回って、時々ここへ来て教えてやりたいんです。こんな国に行って、こんな人たちとこんな事をしたんだぞ、って。あいつが、あの世で退屈しないように……。後で翔ばっかずりぃって怒られそうですけどね」
アルジェは誰もいないはずの翔の隣を見て、微笑んだ。
「……そう。なら、いつでもおいでなさい」
楯は、陽光を反射して陽気に光っている。
「時々は私たちにも語ってくれたら嬉しいわ。千年も生きてると、けっこう退屈なのよ」
「……はい。ありがとうございます」
手拭をしまい、翔は立ち上がった。どこか影を残す彼の顔は、後ろの六人には見えない。ただ陽菜だけがそれに気が付き、不安げに見つめる。
「翔、受け取りなさい」
振り返った翔にアルジェが取り出したのは、不思議な文様の刻まれた指輪と、一本の剣だった。
「こっちはちょっとしたお守りの効果と[物質透過]の付与をした指輪よ」
これなら剣を持つ邪魔にはならないだろう、と彼女は翔の手に指輪を握らせる。台座に嵌められているのは、アルジェを示す紋章を象った紫色の宝石だ。
「貴族関係や王族関係で何かあれば見せなさい。大抵の場合はどうにかなるから」
「あと、私たちみたいに〈鑑定〉できない相手にもね」
「そういう人、だいたい、【調停者】だから」
アルジェたち姉妹の言葉に受け取って良いものかと悩む翔だが、結局素直に受け入れた。彼女の庇護下にあると示すそれを託される事が、何を意味するのかを、しっかりと理解していたから。決して道を踏み外さないよう心に決め、右手の人差し指に嵌める。
そしてもう一つ、どこか見覚えのあるような、黒い鞘の片手半剣を見る。アルジェの手から受け取り、引き抜いてみると、真っ白な剣身が彼の黒い瞳を映した。
「あなたの剣、法王国で砕けたでしょう? ……祐介って子の代わりに連れて行ってあげなさい」
「それって……」
微笑む彼女に翔は目を見開く。それは、祐介の剣を翔用に打ち直したものだった。
「香があなたに使ってほしいって」
改めて見るその剣は、ただ片手半剣に打ち直しただけでは説明できない威圧感を放っている。どうやったのか翔の手にぴったりと合う様に作られた柄。そして彼にとって最適の重心。込められた付与は、壊れる事を許さず、万が一多少欠けても復元するという[不壊]。グラヴィスの鎧と同じ、上から三番目の伝説級の位を持った剣であり、彼にとってこれ以上は無いと言えるようなものだった。
翔は剣を鞘に戻すと、腰に差してその重さを受け止める。
「……本当に、ありがとうございます」
言葉が見つからず、何度目かわからないありがとうを言う彼に、姉妹は微笑んだ。彼の表情に隠された影に若干心配げな視線を向ける彼女たちだが、陽菜を見て、すぐに問題ないと悟る。
「さて、そろそろ戻ろうか」
「ああ」
「そうね」
「そうですねー。そろそろアリスさんのお菓子が恋しいですし」
肌寒さを感じたのか、片腕をさすりながら翔は三人へ振り返る。四人はそのまま揃って歩き出した。アルジェ達はまだやる事があると別の方向へ向かう。
不意に腕を掴まれるのを感じ、翔は足を止める。何となく既視感を覚えながら、その手の持ち主へ振り返った。
「陽菜? どうか――っ!」
視界いっぱいに見えた最愛と、鼻腔を擽る甘い香り。そして、唇に触れた熱い感触に、翔の脳は活動を停止する。徐々に思考が戻り、状況を理解すると同時に、彼の顔は真っ赤に上気した。
「翔、陽菜、どうかした、の、か……」
二人がついて来ていない事に気が付いて煉二が振り返り、動きを止めた。彼の様子を見て振り返った女子二人も、右に倣う。
陽菜は寧音が上げる黄色い悲鳴を気にも留めず、それを続ける。互いが苦しくなって来た頃、ようやく翔は、彼女の朱に染まった頬をはっきりと見ることが出来た。
「ぷはっ。ひ、陽菜、突然どうしっ」
「や、約束だったから!」
慌てふためく翔の言葉を最後まで聞くことはなく、彼女は言う。耳まで林檎のように染まった彼女は、やや目を伏せ、翔の胸元当たりを見て続ける。
「帰ってきたら、ちゃんと、その、キスするって、約束したから! ……翔君に、少しでも元気になってほしくて」
やっぱりばれてたか、と小さく漏らした翔は、そのまま陽菜を抱きしめる。そして、甘えるように彼の胸に顔をうずめた彼女の後頭部を撫でた。
「陽菜、ありがとう」
彼女は小さくコクリと頷き、少し体を離して、翔の顔を真っ直ぐと見つめた。
「翔君、私は、あなたを一人にしない。絶対、独りにしないから」
朱に染まったままのそこには、強く輝く、二つの真っ黒な宝石があった。それは愛しい人をはっきりと映し、翔に彼女の決意の確固さを伝えていた。
アルジェ達姉妹は、その様子を少し離れた所から見ていた。陽菜の言葉は、彼女たちにもしっかりと届いている。
「『アーカウラ』。神々の箱庭、ね……」
翔たちの行く末を憂えるように、アメジストの瞳が揺れた。
「大丈夫だよ、あの子たちなら」
「うん」
スズネは抱きしめ合う二人を優し気に見つめる。ブランはいつもの無表情だが、スズネに賛同する声には確信が込められていた。
「だって、私たちが大丈夫だった」
言外に自分たちと彼らは同じだと言うブランにアルジェは微笑み、そうね、と返す。
翔たちはまだ、この世界の事を何も知らない。姉妹の知る『アーカウラ』の真実はもちろん、そこに暮らす人々が何を思い、どういう価値観の下に生きているのか、どうやって暮らしているのかを、本当の意味では知らない。
彼らはそれを、これからの旅で知っていく。時には死を覚悟するような困難に直面することもあるだろう。
だが、アルジェが彼らの未来に抱く思いは、たった一つだけ。彼女は妹二人と視線を交わし、それからもう一度、翔と陽菜を瞳に映す。
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