39 / 44
第四話「戸口」
「戸口」(9)
しおりを挟む
こんな雨雲がゴロゴロいう夜、外を人が歩いているはずはない。
そう、人であれば。
公園に入ったあたりで、子イノシシは力尽きたようにルリエから落ちた。
なにがあったのだろう。砂場に横たわったまま、それは弱々しい息に胸を上下させている。
ひょいと子イノシシをつまみあげると、ルリエはいぶかしげに問うた。
「ナイアルラソテフ……ぼたん鍋にしてあげましょうか? それとも、書道の筆? またずいぶんと呪力がすり減ってるわね。なかよしの飼い主はどこ?」
「喰われたよ……ハスターに」
その名を聞いたとたん、ルリエの顔はこわばった。
「よりにもよって、宇宙の狂気の集積地みたいなあいつに……なるほどね。赤務市をカバーするあんたの結界が、こんなに薄くなってるのもそのせいでしょ?」
「ごらんのとおりさ。この子機にうつした俺の意識と、ナコトの中にある本体とのつながりも切れかかってる……しくじったぜ、俺としたことが」
苦しそうに、テフは続けた。
「ナコトと俺を消し、ハスターは結界を破るつもりだ。やつの〝冥河の戸口〟に取り込まれたナコトは、じきに跡形もなく消化される。いまのところは俺が邪魔して、なんとか最悪の事態は先延ばしにしてるが……はは。なさけないが、それももう長くはもたねえ」
「それで、さいごの力をふりしぼって、あたしの前に現れたというわけね、あんた」
だらんとぶら下がる指先のテフへ、ルリエは鼻を鳴らしてみせた。
「ごくろうさま。わるいけど、いい気味だわ」
「あと何時間かすりゃ、結界のなくなったこの街には、血にうえた幽鬼妖魔と、狂った呪力の波が押し寄せる。ここの綺麗な呪力が、どこの馬の骨かわからねえ連中にメチャクチャにされるんだぜ。そういうのがいちばん気に入らねえのはおまえだろ、クトゥルフ?」
「べつに? あたしにどうしろと?」
「力を貸してくれ……ナコトを取り戻す」
「おことわりよ」
ルリエはあざ笑った。
「あんたたちがあたしの敵だってこと、もうお忘れ? だいたい、ナイアルラソテフのヤラしい結界が消え、深海の力を自由に振るえるなんて、あたしにすれば願ったり叶ったりだわ。あとは、ちっぽけな雑魚といっしょにハスターも蹴散らして、あらためてこの街を支配下におさめるだけ」
テフを近くのベンチへ置き、ルリエは身をひるがえした。
「ありがとう、ナイアルラソテフ。とってもいいお知らせだったわ。あはははは!」
「強がりはよしな……知ってるぜ。おまえがまだ、凛々橋恵渡を探してること」
ルリエの笑いはやんだ。背中越しに、ベンチのテフへささやく。
「凛々橋くんがどうなったか知ってるの? 内容によっては、ただじゃすまさない……答えなさい!」
血を吐くように、テフはことの顛末をうちあけた。
「じぶんの命もかえりみず、ナコトは戦った。ハスターの手下から、必死に凛々橋を助けようとしたんだが……」
「そんな……」
大きく目を見開いたまま、ルリエは立ち尽くした。
ぬけがら同然の彼女へ、ふたたび訴えたのはテフだ。
「ハスターを止められるのは、おまえだけだ。たのむ、久灯瑠璃絵……クトゥルフ」
「たかが人間に……人間ひとりに、二度と会えなくなっただけじゃない」
まるで自分に言い聞かせるように、ルリエは繰り返した。
「あたしは邪神。あたしは海底の暗黒。あたしは、そう、悪夢のクトゥルフ……」
降りはじめた糸のような雨に、ルリエはかすんでいった。
そう、人であれば。
公園に入ったあたりで、子イノシシは力尽きたようにルリエから落ちた。
なにがあったのだろう。砂場に横たわったまま、それは弱々しい息に胸を上下させている。
ひょいと子イノシシをつまみあげると、ルリエはいぶかしげに問うた。
「ナイアルラソテフ……ぼたん鍋にしてあげましょうか? それとも、書道の筆? またずいぶんと呪力がすり減ってるわね。なかよしの飼い主はどこ?」
「喰われたよ……ハスターに」
その名を聞いたとたん、ルリエの顔はこわばった。
「よりにもよって、宇宙の狂気の集積地みたいなあいつに……なるほどね。赤務市をカバーするあんたの結界が、こんなに薄くなってるのもそのせいでしょ?」
「ごらんのとおりさ。この子機にうつした俺の意識と、ナコトの中にある本体とのつながりも切れかかってる……しくじったぜ、俺としたことが」
苦しそうに、テフは続けた。
「ナコトと俺を消し、ハスターは結界を破るつもりだ。やつの〝冥河の戸口〟に取り込まれたナコトは、じきに跡形もなく消化される。いまのところは俺が邪魔して、なんとか最悪の事態は先延ばしにしてるが……はは。なさけないが、それももう長くはもたねえ」
「それで、さいごの力をふりしぼって、あたしの前に現れたというわけね、あんた」
だらんとぶら下がる指先のテフへ、ルリエは鼻を鳴らしてみせた。
「ごくろうさま。わるいけど、いい気味だわ」
「あと何時間かすりゃ、結界のなくなったこの街には、血にうえた幽鬼妖魔と、狂った呪力の波が押し寄せる。ここの綺麗な呪力が、どこの馬の骨かわからねえ連中にメチャクチャにされるんだぜ。そういうのがいちばん気に入らねえのはおまえだろ、クトゥルフ?」
「べつに? あたしにどうしろと?」
「力を貸してくれ……ナコトを取り戻す」
「おことわりよ」
ルリエはあざ笑った。
「あんたたちがあたしの敵だってこと、もうお忘れ? だいたい、ナイアルラソテフのヤラしい結界が消え、深海の力を自由に振るえるなんて、あたしにすれば願ったり叶ったりだわ。あとは、ちっぽけな雑魚といっしょにハスターも蹴散らして、あらためてこの街を支配下におさめるだけ」
テフを近くのベンチへ置き、ルリエは身をひるがえした。
「ありがとう、ナイアルラソテフ。とってもいいお知らせだったわ。あはははは!」
「強がりはよしな……知ってるぜ。おまえがまだ、凛々橋恵渡を探してること」
ルリエの笑いはやんだ。背中越しに、ベンチのテフへささやく。
「凛々橋くんがどうなったか知ってるの? 内容によっては、ただじゃすまさない……答えなさい!」
血を吐くように、テフはことの顛末をうちあけた。
「じぶんの命もかえりみず、ナコトは戦った。ハスターの手下から、必死に凛々橋を助けようとしたんだが……」
「そんな……」
大きく目を見開いたまま、ルリエは立ち尽くした。
ぬけがら同然の彼女へ、ふたたび訴えたのはテフだ。
「ハスターを止められるのは、おまえだけだ。たのむ、久灯瑠璃絵……クトゥルフ」
「たかが人間に……人間ひとりに、二度と会えなくなっただけじゃない」
まるで自分に言い聞かせるように、ルリエは繰り返した。
「あたしは邪神。あたしは海底の暗黒。あたしは、そう、悪夢のクトゥルフ……」
降りはじめた糸のような雨に、ルリエはかすんでいった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
裏切られ続けた負け犬。25年前に戻ったので人生をやり直す。当然、裏切られた礼はするけどね
竹井ゴールド
ファンタジー
冒険者ギルドの雑用として働く隻腕義足の中年、カーターは裏切られ続ける人生を送っていた。
元々は食堂の息子という人並みの平民だったが、
王族の継承争いに巻き込まれてアドの街の毒茸流布騒動でコックの父親が毒茸の味見で死に。
代わって雇った料理人が裏切って金を持ち逃げ。
父親の親友が融資を持ち掛けるも平然と裏切って借金の返済の為に母親と妹を娼館へと売り。
カーターが冒険者として金を稼ぐも、後輩がカーターの幼馴染に横恋慕してスタンピードの最中に裏切ってカーターは片腕と片足を損失。カーターを持ち上げていたギルマスも裏切り、幼馴染も去って後輩とくっつく。
その後は負け犬人生で冒険者ギルドの雑用として細々と暮らしていたのだが。
ある日、人ならざる存在が話しかけてきた。
「この世界は滅びに進んでいる。是正しなければならない。手を貸すように」
そして気付けは25年前の15歳にカーターは戻っており、二回目の人生をやり直すのだった。
もちろん、裏切ってくれた連中への返礼と共に。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢
さら
恋愛
名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。
しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。
王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。
戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。
一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。
冤罪で辺境に幽閉された第4王子
satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。
「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。
辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
魔王を倒した勇者を迫害した人間様方の末路はなかなか悲惨なようです。
カモミール
ファンタジー
勇者ロキは長い冒険の末魔王を討伐する。
だが、人間の王エスカダルはそんな英雄であるロキをなぜか認めず、
ロキに身の覚えのない罪をなすりつけて投獄してしまう。
国民たちもその罪を信じ勇者を迫害した。
そして、処刑場される間際、勇者は驚きの発言をするのだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる