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第三章 iと姉
185. 血の叫び、死の囁き、地獄の誘い Doubts, Designs, and Discord
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公王は振り返った。そこに立つ娘と、娘の傍らで息を詰めているアイの姿を捉える。瞬間、彼女の顔から王の威厳が剥がれ落ちる。眉間に刻まれていた深い皺が溶けるように消え、唇の端が柔らかく上がる。
赤い瞳の奥にあった冷たい光が、温かな蜜のようにとろりと変わった。それは、戦場を統べる“王”の顔から、ただ一人の“母”の顔へと、まるで仮面を脱ぐように移ろっていく。
彼女はゆっくりと膝を折り、ラアルとアイと同じ高さになった。金色の髪が肩から滑り落ち、血の匂いを帯びながらも、なお優しい香りを放つ。公王は両手を広げ、まるで壊れやすい硝子細工を抱くように、二人をそっと胸に引き寄せた。
「もう、大丈夫よ。」
◇◆◇
声は高く、慈愛を帯びていた。戦いの最中に響かせていた絶対の命令調とはまるで別人のものだ。喉の奥から絞り出されるような、母の声だった。ラアルの小さな背中を撫で、アイの震える肩を抱きしめる。その手は、先ほどまで茨を操り、血を散らしていたとは思えぬほど優しかった。
公王は顔を上げ、二人の子供の額に順番に唇を寄せる。ラアルの金色の髪に、アイのやわらかな頰に。威厳の仮面を完全に脱ぎ捨てた母の顔には、ただ安堵と愛情だけが浮かんでいた。
「怖かったね……ごめんなさい、遅くなって。」
彼女は微笑んだ。戦いの炎を宿していた唇が、柔らかく、優しく弧を描く。それは、辺境の公国を治める王ではなく、ただ娘を、そして娘の友を慈しむ母の微笑みだった。回廊に漂っていた血の匂いさえ、その微笑みの温かさに薄れていくようだった。
ラアルはようやく身体から力を抜き、母の胸に顔を埋めた。アイも、震えが止まらずにいる肩を、母の手で優しく包まれる。公王は二人を交互に見つめ、赤い瞳を細めて、再び微笑みかけた。
「これからは、私がずっと守るから。」
その言葉は、戦場で響かせた宣言とは違い、ただ静かに、確実に、二人の心に染み入っていった。王の顔は完全に消え、残ったのは、ただ愛する者を抱きしめる母の顔だけだった。
――今度こそ本当に……すべてが終わった。
◇◆◇
数日が過ぎた。心の暴発事件は、王宮の空気を重く淀ませたままだった。原因は依然として霧の中、手探りの憶測だけが貴族たちの間で飛び交う。
絹の衣ずれの音が響く大広間では、宝石を散りばめた杯が傾くたび、疑念のささやきが漏れ出る。誰かが公王派の内部に裏切り者がいるのではないかと囁き、別の者が辺境伯派の陰謀だと睨む。
互いの視線が交錯するたび、毒々しい猜疑の棘が心を刺す。黄金の燭台の炎が揺らめき、影を長く引き伸ばすように、信頼の糸が細く、危うく切れかかっていた。
アイは、静かな回廊を歩みながら、その空気を肌で感じていた。事件の傷跡は、彼女の胸にも残っていた。ミルヒシュトラーセ家の血を引く自分は、常に標的となり得る存在。ラアル王女を守る立場にありながら、自分自身が危険に晒されたあの瞬間を、繰り返し思い返す。
公王の居室へと向かう足取りは重く、しかし決意に満ちていた。扉が開かれ、金色の髪をなびかせた公王が、赤いルビーの瞳を静かに向ける。母の顔は、事件の余波でわずかに疲れを帯びていたが、王の威厳は揺るがなかった。アイは膝を折り、頭を垂れた。言葉を慎重に選びながら、事件の首謀者を告げる。
「公王様、あの心の暴発の背後にいるのは、アヴドーチヤ・カラコーゾフだと信じます。」
公王の瞳が、微かに揺れた。金色の髪が、窓から差し込む光に輝く。彼女はゆっくりと立ち上がり、アイの肩に手を置いた。その手は、温かく、しかし力強かった。
「アヴドーチヤは、公王派の中核を担う人材である。私の信頼を一身に受け、王宮の運営に欠かせぬ存在……だった。」
公王の声は、低く響く。赤い瞳に、複雑な影が差す。事件から、アヴドーチヤの姿は消えていた。まるで霧のように、忽然と。公王は窓辺に寄り、庭園を見下ろす。秋の風が、葉を散らし、遠くの山並みをぼやけさせる。
「彼女の不在は、王宮に穴を開けた。だが、貴公の言葉は重い。証拠はあるのか?」
アイは頷き、事件の詳細を語る。自分自身が危険に晒されたこと、アヴドーチヤがアイの骨の心を確認するや否や、去っていったこと。そして、最近エゴペーから骨の心を教わっている事実を。公王は黙って聞き、赤い瞳を細める。母の顔に、王の鋭さが混じる。
「慎重に調べさせる。だが、憶測だけでは動けぬ。辺境の公国は、常に風聞に揺らぐものだ。」
公王はそう言い、アイを優しく見つめた。金色の髪が、肩に落ちる。会話はそこで終わり、アイは退室した。心に新たな重みを抱えながら。
王宮の庭園は、秋の色に染まっていた。黄色い紅葉が、風に舞い、地面を覆う。アイはかげろうと共に、ベンチに腰を下ろした。かげろうの金木犀色の髪が、風に揺れ、彼女の瞳はいつも通り、静かな炎を宿していた。二人は、事件の謎を巡って言葉を交わす。アイの推理は、細やかな糸のように紡がれる。
「私がミルヒシュトラーセ家の者だから、狙われたのかな。アヴドーチヤは、私の骨の心を確認した途端に去った。あれは、ただの偶然じゃないと思う……。」
かげろうは頷き、葉を拾い上げる。彼女の指先で、心が微かに光る。
「エゴペー様から教わったばかりの力……それを知っていたとすれば、内部の情報漏洩です。ですが、首謀者が公王派の中核とは。動機は何だ?」
アイは眉を寄せ、庭園の木々を見つめる。紅葉の葉が、陽光に透けて輝く。憶測が、次々と浮かぶ。アヴドーチヤが辺境伯派に寝返ったのか、だとしたら何故自分を狙う?公王と近しくなりすぎたからか、それとも別の野心か。
暴発の原因は、心の操作か、何か仕掛けられた装置か。互いの言葉が交錯し、推理の輪が広がるが、結論は出ない。霧のように、つかみどころがない。アイの胸に、焦燥と不安が募る。
「結局、何もわからないまま……。
ラアルさまを守るためにも、早く真相を。」
アイの声が、かすかに震えた。かげろうは静かに立ち上がり、庭園の中央へと歩み出る。白い衣が風に翻り、彼の周囲に微かな心の波動が広がる。アイは息を呑み、その姿を見守った。
かげろうは両手を広げた。瞳が深く輝き、心が庭園全体を覆う。黄色い紅葉が、一枚、また一枚と色を変え始める。淡い黄色が、鮮やかな紅へと移ろい、木々の枝先から根元まで、血のように赤く染まっていく。
風が吹くたび、紅葉の波が庭園を駆け巡り、全ての葉が同時に紅く燃え上がる。それは、静かなる奇跡だった。秋の庭が、まるで夏の炎のように、深紅の海と化す。
かげろうは振り返り、アイに向かって微笑んだ。夕焼け色の髪が紅葉の赤に映え、彼の声は穏やかで、しかし確固たる決意を宿していた。
「アイ様、安心してください。俺が必ず貴女を守る。どんな手を使っても、誰を殺しても……貴方を喪わせはしない。」
紅く染まった葉が、風に舞い、アイの周りを優しく包む。庭園全体が、かげろうの心で紅く輝き、誓いの証となる。アイは、その光景に小さい頃の再演をみて、胸を熱くした。謎は残るが、かげろうの存在が、確かな支えとなる。秋の陽が、紅い庭を優しく照らす。
――やっぱりかげろうは聖別の儀の後に慰めてくれた時のままだと。あの頃を思い返した。
◆◆◆
「アイ様の笑顔のためならば、おれはいつ何時でも、世界の色さえ紅く染め上げてみせましょう。
世界中が貴方のことを、太陽に向いていない向日葵だと、太陽に背く月だと、そう言い張っても、
俺がただ一人、貴方は太陽に向いていると、貴方こそが太陽であると、叫びましょう。
――ここに、誓います。」
なんで、かげろうは、太陽に向いていない、こんなわたくしに――。
「……例えば、もしわたくしが……」
――ほんとうは人間体だったとしても――?
「……ほんとうはかげろう思ってるような人じゃなくても?」
「勿論です……貴方はおれの、太陽、なのですから――。」
◆◆◆
数日後、貴族たちの疑念はさらに深まった。憶測は、毒々しい花のように咲き乱れ、王宮を覆う。公王は静かに動き始め、調査を進めるが、真相はまだ遠い。アイとかげろうは、紅く染まった庭園を背景に、共に歩む道を、強く踏みしめる。
すべては、霧の中だった。
◇◆◇
アイは考えた。
アヴドーチヤはわたくしに自分がカラコーゾフ先輩の妹だと言っていた。なんで“辺境伯派”の情報屋の妹が“公王派”で中核を担っている……?
――何かが引っ掛かる……。
赤い瞳の奥にあった冷たい光が、温かな蜜のようにとろりと変わった。それは、戦場を統べる“王”の顔から、ただ一人の“母”の顔へと、まるで仮面を脱ぐように移ろっていく。
彼女はゆっくりと膝を折り、ラアルとアイと同じ高さになった。金色の髪が肩から滑り落ち、血の匂いを帯びながらも、なお優しい香りを放つ。公王は両手を広げ、まるで壊れやすい硝子細工を抱くように、二人をそっと胸に引き寄せた。
「もう、大丈夫よ。」
◇◆◇
声は高く、慈愛を帯びていた。戦いの最中に響かせていた絶対の命令調とはまるで別人のものだ。喉の奥から絞り出されるような、母の声だった。ラアルの小さな背中を撫で、アイの震える肩を抱きしめる。その手は、先ほどまで茨を操り、血を散らしていたとは思えぬほど優しかった。
公王は顔を上げ、二人の子供の額に順番に唇を寄せる。ラアルの金色の髪に、アイのやわらかな頰に。威厳の仮面を完全に脱ぎ捨てた母の顔には、ただ安堵と愛情だけが浮かんでいた。
「怖かったね……ごめんなさい、遅くなって。」
彼女は微笑んだ。戦いの炎を宿していた唇が、柔らかく、優しく弧を描く。それは、辺境の公国を治める王ではなく、ただ娘を、そして娘の友を慈しむ母の微笑みだった。回廊に漂っていた血の匂いさえ、その微笑みの温かさに薄れていくようだった。
ラアルはようやく身体から力を抜き、母の胸に顔を埋めた。アイも、震えが止まらずにいる肩を、母の手で優しく包まれる。公王は二人を交互に見つめ、赤い瞳を細めて、再び微笑みかけた。
「これからは、私がずっと守るから。」
その言葉は、戦場で響かせた宣言とは違い、ただ静かに、確実に、二人の心に染み入っていった。王の顔は完全に消え、残ったのは、ただ愛する者を抱きしめる母の顔だけだった。
――今度こそ本当に……すべてが終わった。
◇◆◇
数日が過ぎた。心の暴発事件は、王宮の空気を重く淀ませたままだった。原因は依然として霧の中、手探りの憶測だけが貴族たちの間で飛び交う。
絹の衣ずれの音が響く大広間では、宝石を散りばめた杯が傾くたび、疑念のささやきが漏れ出る。誰かが公王派の内部に裏切り者がいるのではないかと囁き、別の者が辺境伯派の陰謀だと睨む。
互いの視線が交錯するたび、毒々しい猜疑の棘が心を刺す。黄金の燭台の炎が揺らめき、影を長く引き伸ばすように、信頼の糸が細く、危うく切れかかっていた。
アイは、静かな回廊を歩みながら、その空気を肌で感じていた。事件の傷跡は、彼女の胸にも残っていた。ミルヒシュトラーセ家の血を引く自分は、常に標的となり得る存在。ラアル王女を守る立場にありながら、自分自身が危険に晒されたあの瞬間を、繰り返し思い返す。
公王の居室へと向かう足取りは重く、しかし決意に満ちていた。扉が開かれ、金色の髪をなびかせた公王が、赤いルビーの瞳を静かに向ける。母の顔は、事件の余波でわずかに疲れを帯びていたが、王の威厳は揺るがなかった。アイは膝を折り、頭を垂れた。言葉を慎重に選びながら、事件の首謀者を告げる。
「公王様、あの心の暴発の背後にいるのは、アヴドーチヤ・カラコーゾフだと信じます。」
公王の瞳が、微かに揺れた。金色の髪が、窓から差し込む光に輝く。彼女はゆっくりと立ち上がり、アイの肩に手を置いた。その手は、温かく、しかし力強かった。
「アヴドーチヤは、公王派の中核を担う人材である。私の信頼を一身に受け、王宮の運営に欠かせぬ存在……だった。」
公王の声は、低く響く。赤い瞳に、複雑な影が差す。事件から、アヴドーチヤの姿は消えていた。まるで霧のように、忽然と。公王は窓辺に寄り、庭園を見下ろす。秋の風が、葉を散らし、遠くの山並みをぼやけさせる。
「彼女の不在は、王宮に穴を開けた。だが、貴公の言葉は重い。証拠はあるのか?」
アイは頷き、事件の詳細を語る。自分自身が危険に晒されたこと、アヴドーチヤがアイの骨の心を確認するや否や、去っていったこと。そして、最近エゴペーから骨の心を教わっている事実を。公王は黙って聞き、赤い瞳を細める。母の顔に、王の鋭さが混じる。
「慎重に調べさせる。だが、憶測だけでは動けぬ。辺境の公国は、常に風聞に揺らぐものだ。」
公王はそう言い、アイを優しく見つめた。金色の髪が、肩に落ちる。会話はそこで終わり、アイは退室した。心に新たな重みを抱えながら。
王宮の庭園は、秋の色に染まっていた。黄色い紅葉が、風に舞い、地面を覆う。アイはかげろうと共に、ベンチに腰を下ろした。かげろうの金木犀色の髪が、風に揺れ、彼女の瞳はいつも通り、静かな炎を宿していた。二人は、事件の謎を巡って言葉を交わす。アイの推理は、細やかな糸のように紡がれる。
「私がミルヒシュトラーセ家の者だから、狙われたのかな。アヴドーチヤは、私の骨の心を確認した途端に去った。あれは、ただの偶然じゃないと思う……。」
かげろうは頷き、葉を拾い上げる。彼女の指先で、心が微かに光る。
「エゴペー様から教わったばかりの力……それを知っていたとすれば、内部の情報漏洩です。ですが、首謀者が公王派の中核とは。動機は何だ?」
アイは眉を寄せ、庭園の木々を見つめる。紅葉の葉が、陽光に透けて輝く。憶測が、次々と浮かぶ。アヴドーチヤが辺境伯派に寝返ったのか、だとしたら何故自分を狙う?公王と近しくなりすぎたからか、それとも別の野心か。
暴発の原因は、心の操作か、何か仕掛けられた装置か。互いの言葉が交錯し、推理の輪が広がるが、結論は出ない。霧のように、つかみどころがない。アイの胸に、焦燥と不安が募る。
「結局、何もわからないまま……。
ラアルさまを守るためにも、早く真相を。」
アイの声が、かすかに震えた。かげろうは静かに立ち上がり、庭園の中央へと歩み出る。白い衣が風に翻り、彼の周囲に微かな心の波動が広がる。アイは息を呑み、その姿を見守った。
かげろうは両手を広げた。瞳が深く輝き、心が庭園全体を覆う。黄色い紅葉が、一枚、また一枚と色を変え始める。淡い黄色が、鮮やかな紅へと移ろい、木々の枝先から根元まで、血のように赤く染まっていく。
風が吹くたび、紅葉の波が庭園を駆け巡り、全ての葉が同時に紅く燃え上がる。それは、静かなる奇跡だった。秋の庭が、まるで夏の炎のように、深紅の海と化す。
かげろうは振り返り、アイに向かって微笑んだ。夕焼け色の髪が紅葉の赤に映え、彼の声は穏やかで、しかし確固たる決意を宿していた。
「アイ様、安心してください。俺が必ず貴女を守る。どんな手を使っても、誰を殺しても……貴方を喪わせはしない。」
紅く染まった葉が、風に舞い、アイの周りを優しく包む。庭園全体が、かげろうの心で紅く輝き、誓いの証となる。アイは、その光景に小さい頃の再演をみて、胸を熱くした。謎は残るが、かげろうの存在が、確かな支えとなる。秋の陽が、紅い庭を優しく照らす。
――やっぱりかげろうは聖別の儀の後に慰めてくれた時のままだと。あの頃を思い返した。
◆◆◆
「アイ様の笑顔のためならば、おれはいつ何時でも、世界の色さえ紅く染め上げてみせましょう。
世界中が貴方のことを、太陽に向いていない向日葵だと、太陽に背く月だと、そう言い張っても、
俺がただ一人、貴方は太陽に向いていると、貴方こそが太陽であると、叫びましょう。
――ここに、誓います。」
なんで、かげろうは、太陽に向いていない、こんなわたくしに――。
「……例えば、もしわたくしが……」
――ほんとうは人間体だったとしても――?
「……ほんとうはかげろう思ってるような人じゃなくても?」
「勿論です……貴方はおれの、太陽、なのですから――。」
◆◆◆
数日後、貴族たちの疑念はさらに深まった。憶測は、毒々しい花のように咲き乱れ、王宮を覆う。公王は静かに動き始め、調査を進めるが、真相はまだ遠い。アイとかげろうは、紅く染まった庭園を背景に、共に歩む道を、強く踏みしめる。
すべては、霧の中だった。
◇◆◇
アイは考えた。
アヴドーチヤはわたくしに自分がカラコーゾフ先輩の妹だと言っていた。なんで“辺境伯派”の情報屋の妹が“公王派”で中核を担っている……?
――何かが引っ掛かる……。
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