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第三章 奪還
第五十話
しおりを挟む薄暗く狭い部屋は、男達の熱気でじめりとし、暑苦しさを感じさせる。その熱の発源である晧月とエイサフは、両者とも顔から大量の汗を噴き出し、掴み合っていた。互いの拳が手汗で滑る。汗を吸った衣服が重い。今にも目に入りそうな汗を拭い、エイサフは、上半身を覆う衣を脱ぎ捨てた。
そこらにいる女よりも白いエイサフの肌は、シュッタイト人特有のものだ。その白い肌には、先程、晧月に刺された傷から溢れる赤がよく目立つ。引き締まった逞しい体は、晧月の筋肉よりも細身であったが、美しかった。エイサフは脱いだ衣を傷口に巻き付けた。じわりと衣に血が滲むが、何も処置しないよりはましだろう。
それを見た晧月も、黒いチャイナ服を脱ぎ捨てる。鍛えられた逞しい肉体美は、戦神のように雄々しい。その筋肉は、触れたら鋼のように硬いのだろう。だが肩にはひと月前、エイサフに斬られた傷がある。丁寧に巻かれた包帯に、市は自然と眉を下げた。
ーーあれは、あの時の傷……。
市にとって、最も辛く、悲しい記憶。自分を庇うが為に、傷付いていく晧月の姿が思い浮かび、手が震える。
「あれ?俺達、同じような怪我をしているね……?」
わざとらしく煽るような口調の晧月に、エイサフがピクリと口元をひくつかせた。
「一緒にするでない。そなたの傷は、ひと月以上も前のこと。私の傷は、たった今出来たものだ」
「だから何?たかが、その程度の出血で……いちいち細かい男だな。言っておくけど、俺の傷口の方が深いから」
「何だと……!」
晧月の言う事には、何でもムキになるエイサフは、目くじらを立てて晧月に掴みかかった。それをいなして握り拳を作り、晧月は思いっきりエイサフの頬を殴り付ける。
「ぐぁっ!」
バキッという音がした。ドタタ、とふらつきながら後退したエイサフの頬は、真っ赤に腫れている。彼は、唇を噛み締めて、負けじと晧月に拳を向けた。
「……っ」
ガッという鈍い音。晧月も、エイサフに殴られたらしい。彼の頬も同様に赤く腫れ上がる。
「やったな……?」
にや、と笑みを滲ませて、晧月はもう一度拳を突き出した。それを受けながらも、エイサフも負けてはいない。同じように拳を突き出し、両者の頬に、互いの拳がめり込むようにヒットした。二人とも、唇に血を滲ませ、殴られた衝動で体をよろつかせる。
「くそ……っほんとウザイ」
チッと舌打ちして、晧月は口の中に溜まった血を吐き出した。口の粘膜が切れてしまったらしく、血の味が口いっぱいに広がる。そろそろ、お遊びも終いにしなければ……。晧月は、唇についた血をゆっくりと拭うと、瞳をギラリと光らせた。市の居場所を突き止める為に、目の力を使い過ぎたが、そろそろ回復してきた頃だ。この力を使い、エイサフとケリをつけてやろう。彼の銀色の瞳が、狼の目のように鋭さを増した。
「そろそろ、さようなら。シュッタイトの能無し」
「な……!?」
右足で強く踏み込み、勢いに乗りながら、右手の指先までを真っ直ぐに尖らせる。エイサフの次の動きなど、目の力で読めていた。左に避けようとするエイサフに合わせ、晧月も動きを変える。ビキビキと腕を身体強化することで、彼の手首から指先までが鉄のように固くなり、爪は研ぎ澄まされたナイフのように鋭く変化した。
「死ね」
振り上げた晧月の右手が、ズブリとエイサフの心臓を貫いた。それは、市の瞳にはスローモーションのように見えていた。真っ直ぐに伸ばされた晧月の腕が、エイサフの背中を突き破る。そして溢れ出す真っ赤な血飛沫は、花びらのように周りに散った。
「な、ぜ……?」
エイサフは、胸を貫く晧月の腕を握りしめて、目を見開いた。晧月は、身体強化の能力を、持っていなかったはずだ。
「1度死にかけて、得た力さ」
晧月は、淡く微笑した。体を切り刻まれ、崖から落ちた時、衝撃から身を守るために、無意識に肉体を強化していたのだ。もともと、晧月は高い場所から飛び降りて着地する等と無茶をしていた。もしかしたら、そのころから意識せずとも、少しずつ力を使っていたのかもしれない。異界からの姫君の血が濃い為、能力開花の数は多いものだが、まさかこんな形で開花するとは。
ある程度回復したとはいえ、またもや目の力を使ってしまった晧月の両目から、たらりと血が零れた。両目から流れる赤い筋は、まるで泣いているようにも見える。聡明で美しい王子、エイサフ。この男は、晧月の国の兵士を、沢山殺した男。市を奪った男。憎い男。大嫌いな男。だが、いい好敵手であるとは思っていた。
「皮肉なものだね、君のおかげでまた強くなれた」
ガっと腕を引き抜くと、エイサフの唇からごぷりと血が溢れた。膝を着き、エイサフは朦朧としながら市のいる方へと手を伸ばす。
「ひ、め……」
彼の美しく輝く青色の瞳から、一筋の涙が流れた。端整な唇を震わせ、切なそうに市の姿を目に焼き付ける男の姿は、何とも美しく、哀れであった。
エイサフは、胸が痛かった。晧月に心臓を傷付けられたからじゃない。市を見つめるだけで、喉の奥がつっかえて、何とも言えない気持ちになるのだ。その愛らしい顔が愛しい。まろい頬に唇を落とし、花の蕾のような唇を塞いで、かぐわしい吐息を近くで感じていたい。壊れてしまいそうなほど華奢な肩は、抱き締めてしまえば、女らしく柔らかで、落ち着く香りがした。母に愛されていたら、こんな感じなのだろうかと、たまに市を母に重ねてみたりもした。
だが、エイサフは愛する女の笑顔や幸せを奪ってしまった。市が自分を見つめる瞳は、どこまでも無に近い。どこか哀れみすら感じさせるその眼差しが、エイサフの心臓にとどめを刺した。
「そんな……目で、見ないで……く、れ……」
シュッタイト帝国の王子たる自分が、血にまみれ、床に頬をくっ付けて倒れている。情けない。信じられない。晧月には、いつだって適わない。それが、悔しい。憎らしい。親に愛され、神に愛され、愛しい女にすら愛されたあの男が……。
「……ひめ……」
咳き込めば、またもや溢れ出す血。それを見て、市の瞳が揺れたのを、エイサフは見逃さなかった。こんな自分に動揺してくれる、優しい彼女が、やはり愛しいのだ。
ーーおお、姫よ……。どうか、もう一度……可憐な笑顔を私に……。
目の前が暗くなる。エイサフの意識は、まるで波にさらわれるように、どっぷりと沈んでいった。
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