1 / 52
第一章 心の崩壊
1
しおりを挟むまただ。
少女は、諦めたように息を吐き出した。口を付けようとしたティーカップに浮かぶ、小さな虫が、僅かに羽を震わせて、ジタバタと手足を動かしている。その虫をスプーンですくい、ぐっと中身を飲み干した。
今日も、いつも通りの一日が始まる。
ひんやりと冷えた空気を、鼻いっぱいに吸い込むと、鼻の奥がツンと痛んだ。はぁ、と吐いた吐息は白く、鼻の先や、指先がほんのりとピンク色に染まる。かじかんだ指先を労わるように擦り合わせ、窓の外へと目を向けた。
外でしんしんと降り続ける雪のように、真っ白な肌をした少女は、けぶるような睫毛をふるりと震わせた。
小さな顔に大きなアメジストの瞳を嵌め込んだ、アンティーク人形のような顔立ち。可憐な唇は、じゅわりと赤く色付き、金色に光る睫毛は、まるで泣いているかのように濡れて見える。月光を溶かし込んだかのような髪は、黄金色に輝き、真っ直ぐに腰まで垂れていた。
「寒いわね……」
儚く、空気を震わせた小さな声。少女は眉を垂れさせて、頼りない肩を摩った。
少女の名前は、エカチェリーナ・マクシム・ベルジェンニコヴァ。年中、雪が降り積もる国、ベルジェ帝国の皇太子妃として嫁いだばかりであった。
いずれ、この国の皇妃として即位する道が、約束された地位。誰もが羨んだ皇太子妃という座であるが、エカチェリーナが望んで手に入れた訳ではない。
皇太子妃という地位は、エカチェリーナにとって気が重く、その証である、銀で作られた王冠がずっしりと重く感じるほどだ。
今すぐにも、投げ出してしまいたいくらいの重圧……。責任。多くの使用人達に囲まれた、心休まらない毎日。皇太子妃に向けられた、品定めするかのような人々の視線。
エカチェリーナは、元々垂れ目な瞳を、更に垂れさせた。眉も同じように垂れているものだから、彼女の自信のなさが顔から滲み出ている。
エカチェリーナは伯爵の出だ。皇太子妃候補の、最有力者と言われていた公爵令嬢を差し置いて、皇太子と婚姻を結んだのには、理由がある。
皇太子が、強く結婚を望んだからだ。
夜会で見かけたエカチェリーナに、一目惚れしたという皇太子は、周囲の反対を押し切って、エカチェリーナを正妃に迎えた。これに怒り狂ったのが、公爵令嬢と、彼の母親……皇妃である。
皇太子の側室として迎えられた公爵令嬢は、エカチェリーナに笑顔で接してくるものの、その心中は穏やかではないことを肌で感じるし、皇妃は特に恐ろしい。代々皇妃を排出してきた公爵家から息子の妃を娶りたかった皇妃は、エカチェリーナに辛く当たった。気の弱いエカチェリーナは、それが耐えられそうになかった。
毎朝のお茶に虫が入っているのは、きっと皇妃の命令だろう。だからこそ、侍女のアンナも信用出来ない。エカチェリーナの侍女であるのに、エカチェリーナの味方をする気がないのだ。
大人しく気の弱いエカチェリーナは、皇妃に楯突く勇気も、公爵令嬢をあしらう度胸も、侍女を問い詰める気力もなかった。それでも、逃げずに耐えているのは、エカチェリーナを一途に愛してくれる皇太子を、いつの間にか愛してしまったからだ。
「エカチェリーナ様。皇妃様がお呼びです」
「……はい」
侍女のアンナに呼ばれ、ため息を飲み込んで返事を返す。
アンナは、山羊の毛で作られたエプロンドレスをサッと翻して、冷たくエカチェリーナを一瞥した。茶色い髪の間から覗く、一重の瞳には、薄らと侮蔑の感情が漂っている。そばかすの散った頬が、主である筈のエカチェリーナを軽んじるかのように、引きつっていた。
皇太子妃であれば、目下の者であるアンナの態度を、注意しなければならない。皇妃や公爵令嬢に冷遇されているからと、侍女の分際で下に見るだなんて、体罰ものだ。
だが、エカチェリーナは、気弱で意見をハッキリと言えるような性格ではなかった。不快に思いながらも、アンナの態度を受け入れてしまっていたのだ。皇太子から渡された、使用人への折檻用の鞭など、一度も使った事がない。
ーー皇妃様は、一体わたくしに何のご用なのかしら……。
薄いガラスのようなエカチェリーナの心臓は、ブルブルと割れんばかりに震えていた。
ヴェルジェ帝国の皇族は、夜は必ず揃って食事をするという風習がある。朝や昼は自室で過ごす事が出来るのだが、嫌がらせを受けるエカチェリーナが、ゆったりと過ごせた日はないと言っていいだろう。
一日に何度か呼び出されては、嫌がらせを受けるのだから、心を休める暇もない。
ーー嫌だわ、嫌だわ。行きたくない……恐ろしいわ……。
カタカタと小さな手を震わせて、エカチェリーナは下を向いて歩いた。皇族らしからぬ、背を丸めた歩き方に、アンナが鼻に皺を寄せる。いつもなら、そんなアンナの表情にも傷付くのだが、今のエカチェリーナは皇妃に会う事で頭がいっぱいだった。
エカチェリーナにとっての、地獄の門が見えて来た。皇妃の部屋の扉だ。ここからエカチェリーナは、一人で部屋に入らなくてはならない。
豪華な扉が開くと、むせ返るようなお香の香りが鼻についた。思わず咳き込みそうになり、唇を強く引き結ぶ。
「遅い!わたくしは待つのが嫌いなのだと、何度言えばわかるのかしら?」
棘のある声が、上から降ってきた。
エカチェリーナよりも数段高い位置に腰掛けた、美しい女。砂漠の砂のようなサンディブロンドの髪を高く結い上げ、皇妃の証である大きな黄金の冠に、真っ赤なルビーが輝いている。女豹のような鋭い瞳は、深いエメラルド色をしており、どの宝石よりも派手に映ってしまうのは、彼女の主張の強さが瞳に現れているからなのか……。
豊満な体を包む、黒い羊の毛で作られたマーメイドドレスにはスリットが入っており、むっちりとした太ももに、金の飾りがくい込んでいる。
真っ赤な紅を引いた薄い唇を歪めて、この国の皇妃であるヴァルヴァラ・オレグ・ベルジェンニコヴァは、高い鼻からフンッと空気を漏らした。
「相変わらず、貧相な体に、地味なドレスねぇ。そんな風体で、我が息子は満足しているのかしら?」
ヴァルヴァラの悪意ある言葉に、エカチェリーナの頬が赤く染まる。
エカチェリーナは華奢で、触れたら折れてしまいそうな頼りない体をしていた。
ヴァルヴァラのような豊満な胸や、大きなお尻が羨ましかった。自分の胸元は、控え目な膨らみが二つと、腹はくびれているものの、メリハリのない小さなお尻。確かに、貧相な体と言われても仕方がないのかもしれない……。
ドレスだって、ヴァルヴァラのように派手な物も着てみたい。だが、きっと似合わないに決まっている。
エカチェリーナは、自分の容姿に自信がなかった。両親が、大人しいエカチェリーナよりも、活発で愛嬌のある妹ばかりを構ったからなのか。いや、それは言い訳に過ぎない。自分が、根暗で地味だから。誰もエカチェリーナを気にしてくれない。愛してくれない。一番にしてくれない。唯一、愛してくれたのは皇太子だけーー……。
その皇太子も、いつエカチェリーナに飽きてしまうだろう。モヤモヤと雨雲のようにじっとりとした空気が、エカチェリーナを取り巻く。常に、後ろ向きな思考回路になってしまうのが、エカチェリーナの悪い癖だ。
鬱々とした気持ちを募らせるエカチェリーナに、ヴァルヴァラは宝石のように美しい瞳を、醜く弓形に歪ませた。
0
あなたにおすすめの小説
私が消えたその後で(完結)
毛蟹
恋愛
シビルは、代々聖女を輩出しているヘンウッド家の娘だ。
シビルは生まれながらに不吉な外見をしていたために、幼少期は辺境で生活することになる。
皇太子との婚約のために家族から呼び戻されることになる。
シビルの王都での生活は地獄そのものだった。
なぜなら、ヘンウッド家の血縁そのものの外見をした異母妹のルシンダが、家族としてそこに溶け込んでいたから。
家族はルシンダ可愛さに、シビルを身代わりにしたのだ。
悪役令嬢は死んで生き返ってついでに中身も入れ替えました
蒼黒せい
恋愛
侯爵令嬢ミリアはその性格の悪さと家の権威散らし、散財から学園内では大層嫌われていた。しかし、突如不治の病にかかった彼女は5年という長い年月苦しみ続け、そして治療の甲斐もなく亡くなってしまう。しかし、直後に彼女は息を吹き返す。病を克服して。
だが、その中身は全くの別人であった。かつて『日本人』として生きていた女性は、異世界という新たな世界で二度目の生を謳歌する… ※同名アカウントでなろう・カクヨムにも投稿しています
酒の席での戯言ですのよ。
ぽんぽこ狸
恋愛
成人前の令嬢であるリディアは、婚約者であるオーウェンの部屋から聞こえてくる自分の悪口にただ耳を澄ませていた。
何度もやめてほしいと言っていて、両親にも訴えているのに彼らは総じて酒の席での戯言だから流せばいいと口にする。
そんな彼らに、リディアは成人を迎えた日の晩餐会で、仕返しをするのだった。
2度目の結婚は貴方と
朧霧
恋愛
前世では冷たい夫と結婚してしまい子供を幸せにしたい一心で結婚生活を耐えていた私。気がついたときには異世界で「リオナ」という女性に生まれ変わっていた。6歳で記憶が蘇り悲惨な結婚生活を思い出すと今世では結婚願望すらなくなってしまうが騎士団長のレオナードに出会うことで運命が変わっていく。過去のトラウマを乗り越えて無事にリオナは前世から数えて2度目の結婚をすることになるのか?
魔法、魔術、妖精など全くありません。基本的に日常感溢れるほのぼの系作品になります。
重複投稿作品です。(小説家になろう)
酷いことをしたのはあなたの方です
風見ゆうみ
恋愛
※「謝られたって、私は高みの見物しかしませんよ?」の続編です。
あれから約1年後、私、エアリス・ノラベルはエドワード・カイジス公爵の婚約者となり、結婚も控え、幸せな生活を送っていた。
ある日、親友のビアラから、ロンバートが出所したこと、オルザベート達が軟禁していた家から引っ越す事になったという話を聞く。
聞いた時には深く考えていなかった私だったけれど、オルザベートが私を諦めていないことを思い知らされる事になる。
※細かい設定が気になられる方は前作をお読みいただいた方が良いかと思われます。
※恋愛ものですので甘い展開もありますが、サスペンス色も多いのでご注意下さい。ざまぁも必要以上に過激ではありません。
※史実とは関係ない、独特の世界観であり、設定はゆるゆるで、ご都合主義です。魔法が存在する世界です。
【完結】婚約破棄されたので、引き継ぎをいたしましょうか?
碧井 汐桜香
恋愛
第一王子に婚約破棄された公爵令嬢は、事前に引き継ぎの準備を進めていた。
まっすぐ領地に帰るために、その場で引き継ぎを始めることに。
様々な調査結果を暴露され、婚約破棄に関わった人たちは阿鼻叫喚へ。
第二王子?いりませんわ。
第一王子?もっといりませんわ。
第一王子を慕っていたのに婚約破棄された少女を演じる、彼女の本音は?
彼女の存在意義とは?
別サイト様にも掲載しております
1度だけだ。これ以上、閨をともにするつもりは無いと旦那さまに告げられました。
尾道小町
恋愛
登場人物紹介
ヴィヴィアン・ジュード伯爵令嬢
17歳、長女で爵位はシェーンより低が、ジュード伯爵家には莫大な資産があった。
ドン・ジュード伯爵令息15歳姉であるヴィヴィアンが大好きだ。
シェーン・ロングベルク公爵 25歳
結婚しろと回りは五月蝿いので大富豪、伯爵令嬢と結婚した。
ユリシリーズ・グレープ補佐官23歳
優秀でシェーンに、こき使われている。
コクロイ・ルビーブル伯爵令息18歳
ヴィヴィアンの幼馴染み。
アンジェイ・ドルバン伯爵令息18歳
シェーンの元婚約者。
ルーク・ダルシュール侯爵25歳
嫁の父親が行方不明でシェーン公爵に相談する。
ミランダ・ダルシュール侯爵夫人20歳、父親が行方不明。
ダン・ドリンク侯爵37歳行方不明。
この国のデビット王太子殿下23歳、婚約者ジュリアン・スチール公爵令嬢が居るのにヴィヴィアンの従妹に興味があるようだ。
ジュリエット・スチール公爵令嬢18歳
ロミオ王太子殿下の婚約者。
ヴィヴィアンの従兄弟ヨシアン・スプラット伯爵令息19歳
私と旦那様は婚約前1度お会いしただけで、結婚式は私と旦那様と出席者は無しで式は10分程で終わり今は2人の寝室?のベッドに座っております、旦那様が仰いました。
一度だけだ其れ以上閨を共にするつもりは無いと旦那様に宣言されました。
正直まだ愛情とか、ありませんが旦那様である、この方の言い分は最低ですよね?
初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結保証】
星森 永羽
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。
だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。
しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。
王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。
そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。
地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。
⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる