皇太子妃は、王冠を投げ捨てた

猫パンダ

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第一章 心の崩壊

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 鳥のさえずりが聞こえる。もう、朝がきたのだろうか。

 エカチェリーナは、ゆっくりと起き上がった。イヴァンが隣にいた時は、温かかったベッドが、冷たくなっている。夜のうちに、自室へ戻ってしまったのだろうか。

 「……冷たいお方」

 苦い笑いが、頬の端を漂う。

 酷い人だと、昨日あれほど思ったのに、嫌いになれないのは何故だろう。エカチェリーナは、まだイヴァンの事を愛している。例え、エカチェリーナの気持ちをわかって貰えなくても、嫌いになんて……なれなかった。

 エカチェリーナは、暖かな日差しに反射して輝く銀世界を、窓から見下ろした。

 サラサラの金糸が、カーテンのようにエカチェリーの顔の横に垂れる。朝日を浴びて、白い肌を輝かせた彼女の姿は、美しい。金色の睫毛は、やはり濡れて泣いているかのように光っているし、それに包まれたアメジストの瞳は、本物の宝石のように魅力的だ。だが、エカチェリーナには、自信が無いのだ。この皇城で暮らしていく度に、僅かにあった自信がサラサラと砂のように消えていってしまう。

 着替えを済ませると、アンナがお茶を入れてくれる。茶色い液体の上には、変わらず虫が一匹浮かんでいた。

 ーー今日も、また変わらない一日が始まるのね。

 それは毎朝、思っていたこと。だが、エカチェリーナは、今朝に限っては違う事を考えた。自分は、この日々をあと何回、何千回と繰り返さなければならないのだろうか……と。

 そう考えて、ゾッとした。自身の体をかき抱き、青くなった唇を噛み締める。

 ーー無理よ。こんな日々、もう耐えられない。壊れてしまう……!わたくしの心も、体も、壊れてしまうわ……!

 「エカチェリーナ様、エヴァ様がいらしております。どうなさいましょう?」

 エヴァ。

 その名前を聞いただけで、エカチェリーナの心臓は、ギュッと握り締められたかのようだった。
 
 「お通しして……」

 弱々しい声でそう告げると、アンナは返事もせずに扉の方へと歩いて行った。その態度にも、頭が痛む。どうしてか、昨日の事があって……自分は更に弱くなってしまったらしい。

 頭ではわかっていたのに。イヴァンは、長年一緒に居たヴァルヴァラを取るだろうと……わかっていたのに。それでも、期待してしまった。妻であるエカチェリーナの言葉に、耳を傾けて貰えると思ってしまった。それだけ、愛されている自信はあったのだ。だが、母親との絆には、叶わなかった。イヴァンを愛し、愛されているからこそ、今までやって来れたのに……それが今、揺らいでしまっている。

 「失礼しますわ。ご機嫌よう、エカチェリーナ様」

 真っ赤な薔薇のようなドレスをはためかせ、エカチェリーナと同じ年頃の少女が入室して来た。ドレスと同じ、たっぷりとした赤い髪をハーフアップにし、白い生花を差し込んでいる。愛くるしい丸い瞳は、赤茶色をしており、瞳と同じ色のアイラインで目尻を猫のように跳ね上げていた。

 エヴァ・レフ・イヴァノワ。皇太子妃候補筆頭であった公爵令嬢で、今はイヴァンの側室だ。

 蕾のような唇に綺麗な弧を描いて、エヴァは愛らしく笑って見せた。

 「朝食をご一緒しようと思って、参りましたの。いいでしょう?」

 そう聞いておきながら、勝手にエカチェリーナの侍女であるアンナに指示を出し、食事の用意をさせる。エカチェリーナの部屋で朝食をとることは、決定事項らしい。何とも言えない顔でいるエカチェリーナに、エヴァはニッコリと笑った。

 「エカチェリーナ様の好きそうなお茶菓子も、何個か包んできたのよ?ぜひ、遠慮なく召し上がって下さいな」

 「……ええ。ありがとうございます、エヴァ様」

 ちゃっかりと席に座ったエヴァに続いて、エカチェリーナも腰掛ける。小さなテーブルに、沢山の料理が並び、アンナが入れたての紅茶を手前に置いた。熱々なのか、白い湯気がユラユラと立ち上っている。

 「さぁ、いただきましょう。エカチェリーナ様」

 ザクっと、キドニーパイにフォークを突き刺して、エヴァは美味しそうに口に運んだ。それを見届けて、エカチェリーナもパイを頂く。バターの香りが口いっぱいに広がり、パイのサクッとした食感が、エカチェリーナの口元を綻ばせた。

 てっきり、パイに異物が入っているんじゃないかと疑ってしまった自分が恥ずかしい。これまでエヴァは、天然を装い、エカチェリーナに失礼な態度をとってきたものだから、思わず身構えてしまった。

 「エヴァ様、このキドニーパイ……とても美味しいですわね」

 「良かったですわ。わたくしのメイドに、作らせたパイですの」

 エヴァの唇が、猫のようにふにゃりと緩んだ。エカチェリーナも笑みを浮かべて、もう一口、パイを口に運ぶ。サクッ、ほろっとした食感。バターの風味と肉のうま味を味わっていると、エカチェリーナの歯がガリっと何かを噛み砕いた。途端に、口内に痛みが走り、唇から一筋温かい液体が流れ出る。目を見開いたエカチェリーナの口の中からは、バターの香りが消え去り、鉄臭い香りが充満した。

 ポタリと垂れた液体が、テーブルの上に点々と散る。それは、真っ赤な鮮血だった。

 「きゃっ、エカチェリーナ様。唇から血が……!」
 
 驚いた声を上げるエヴァ。エカチェリーナは、咄嗟に口の中の物をナプキンに吐き出した。そこには、飲み込めなかったキドニーパイと、透明に光るガラスの破片……エカチェリーナは、自分でも顔が青くなるのを感じた。

 「エヴァ様……わたくしのキドニーパイに……ガラスの破片が入っています」

 「まぁ!何て恐ろしいの!」

 信じられないとばかりに、エヴァは口元を両手で覆った。

 「そのパイは、わたくしのメイドが作りましたの。まさか、そんな恐ろしいものが混入しているだなんて……。ごめんなさい、エカチェリーナ様。そのメイドには、後でたっぷりとお仕置きをするわ。だからどうか、わたくしを許してちょうだいね」

 呆然とするエカチェリーナの両手を、エヴァは握り締めた。

 「決して、わざとでは無いの。知らなかったのよ……まさか、そんなものが混入しているだなんて。危うくわたくしも、怪我をするところだったわ……!」

 赤茶色の丸い瞳に涙を浮かべるエヴァ。彼女を責めることなんて、エカチェリーナには出来ない。わざとやったのかなんて、わからないのだ。本当に事故なのかもしれない。

 「大丈夫ですわ。傷は深くないですから……」

 実際、傷はそこまで深くはなかった。まだ血の味はするが、段々と出血量は減ってきている。

 「でも、一応医師を呼んで貰おうかしら……アンナ。お願い出来る?」

 「もう血は止まったようですし、必要ないのでは?」

 エカチェリーナが吐き出してしまったナプキンと、キドニーパイを片付けながら、アンナが冷たく言った。

 「お医者様も、暇ではありません。ご自分で傷は深くないと仰ったのですから、いちいち呼び付けるものではありませんよ」

 「その通りだわ。エカチェリーナ様。もう血が止まってきたのならば、いいのではなくて?こうして、わたくしとも話せているわけですし」

 サッと背を向けたアンナと、小首を傾げて笑うエヴァ。エカチェリーナは、自分が悪いのだろうかと、思わず錯覚してしまった。小さな傷ごときで、医者を呼ぼうとした自分が、わがままだったのだろうか……と。

 
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