皇太子妃は、王冠を投げ捨てた

猫パンダ

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第一章 心の崩壊

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 驚くヴァルヴァラの顔と、口元に手を当てて目を丸くするアンナの姿が一瞬だけ見えた。

 浮遊感に引っ張られるかのように、エカチェリーナの体は背中から落ちていく。唇から、悲鳴が漏れた。視界が反転し、体のあちこちが階段に打ち付けられる。彼女の体はゴロゴロと転がると、最後には一階の床の上で止まった。

 「う……」

 身体中が痛い。頭や背中を打ったのか、意識が朦朧とし、呼吸が出来ない。はくはくと唇を開け閉めする彼女の唇からは、か細い呼吸が漏れた。

 階段の上から、エカチェリーナの姿を覗き込むヴァルヴァラとアンナの顔が見える。だが、ヴァルヴァラは早々に踵を返して行ってしまった。そこには、アンナだけが残る。エカチェリーナは、青い顔でアンナに手を伸ばした。

 「た、たすけて……」

 引きつった喉から、声を懸命に出して、助けを求める。アンナは無表情で、エカチェリーナを見つめ返し……やがて、見下すようにせせら笑った。その顔は、首を縮めて笑うネズミのように卑しく、エカチェリーナを嘲笑うかのようだった。

 「……あん……な……」

 エカチェリーナは、震える声で侍女の名を呼んだ。だが、アンナがそれに答えることは無かった。

 「アンナ……?待って。どこへ、行くの……?」

 スっと背を向けたアンナに、焦った声を上げるも、彼女はそのままスタスタと歩いて行く。

 「待って……!アンナ……!助けて!」

 大きな声を出そうとしても、喉が引きつって声が出ない。エカチェリーナは、アメジストの瞳からボロボロと涙を流した。悲痛な顔で、周りを見渡すも誰もいない。誰かがやって来る気配もない。

 「誰か……!誰か、助けて……!」

 下腹がズキンと痛む。エカチェリーナの顔面は蒼白になった。まるで、腹の中を搾り取られているかのような痛みに、冷や汗が吹き出す。体を丸めて、彼女は腹を撫でた。

 ーーわたくしの、赤ちゃん……!!

 内側から剥がれ落ちるような痛みが、腹の中で続いている。それに恐怖を覚えた。

 「助けて……!助けて……!」
 
 ーーわたくしの赤ちゃんが……!わたくしの赤ちゃんを助けて……!

 涙で視界がボヤける中、彼女はビクリと体を揺らした。足の間から、生暖かいものが流れているのがわかる。それは彼女のグレーのドレスを、赤く染め上げた。

 ーー出血しているのだわ……!

 「いや……いやぁあ!」

 喉の奥から、張り裂けるような叫びが漏れた。その声を聞き届けたのか、遠くから人影が走ってくるのが見える。

 「チェリー!?」
 
 豊かな砂漠の色をしたサンディブロンドを振り乱し、イヴァンが驚いたように目を見開いていた。

 「これは一体……」

 彼の瞳が、血に染ったエカチェリーナのドレスを見て鋭く光る。

 「でん、か……」

 弱々しく自分を呼ぶエカチェリーナを抱き上げて、イヴァンは早足にその場を去った。腕の中でくったりと意識を失ったエカチェリーナは、青い顔でうわ言を漏らしている。

 「赤ちゃん……わたくしの、赤ちゃん……たすけて……」

 イヴァンの瞳が、薄暗い色を宿した。階段を登り切ったところに、ヴァルヴァラの愛用するイヤリングが転がっていたのだ。なるほど、どうしてこうなったのかよくわかる。

 「……母上」

 絞り出すように発せられた声が、低く響いた。

 「余計な事を……」

 大人しく、達者な口でいびるだけに留めたらいいものを。

 チッと舌を打つ。

 「誰か!誰かいないか!」

 イヴァンの声に、使用人が慌ててやって来た。イヴァンの腕の中で気を失うエカチェリーナを見て驚く使用人に向かって、イヴァンは早口で捲し立てる。

 「わからないか?医師だ!早く医師を呼べー!」

 「は、はいっ!」

 駆け足でその場を離れる使用人を尻目に、イヴァンはエカチェリーナの部屋の扉を豪快に押し開けた。そこには、アンナがいた。彼女は、驚いた顔でイヴァンを見つめている。

 「何故、お前がそこにいる」

 「は……?」

 いつもと様子の違うイヴァンに、アンナは狼狽えた。にこにこと笑い、怒った顔など見せたことの無い皇太子。それがイヴァンの印象だったのに、今の彼は恐ろしいほど目を尖らせて怒っている。その顔は、怒気を纏うヴァルヴァラにそっくりで、アンナは顔を背けた。

 「わ、私は……エカチェリーナ様のお部屋を掃除しておりまして……」

 「身重の身であるチェリーを一人にして、掃除だと……?」

 「身重の身だからこそ、部屋が汚れているとエカチェリーナ様のお体に障ると思い……」

 「黙れ!」
 
 アンナはビクリと体を震わせた。

 「言い訳は聞きたくない。即刻立ち去れ!」

 「で、殿下……」

 なおも言い訳をしようとするアンナに、イヴァンは腰に下げていた鞭をしならせる。

 「これで仕置されたいか?死ぬほど後悔したくなければ、去れ!」

 アンナは、茶色い瞳を恐怖で揺らした。鞭には無数の棘が付いており、あれはイヴァンが使用人への折檻に愛用しているものだと聞いた事がある。

 「し、失礼致します……っ」

 逃げるように部屋を出たアンナに、イヴァンは鼻を鳴らした。取るに足らない使用人の分際で、皇太子たる自分の手を煩わせるとは……。エカチェリーナ専属の侍女だが、考える必要があるらしい。

 イヴァンは、エカチェリーナをベッドに寝かせると、体が冷えないようシーツを被せた。彼女の頬に張り付いた金糸の髪の毛を、そっと解いてやる。

 「……チェリー」

 彼女の眉は苦しそうに垂れており、唇からは幾度となく子を案じる言葉が溢れ出ている。その健気な様子に、胸が締め付けられた。

 ヴァルヴァラが彼女を突き落としたのだとしたら、失望した。そこまで、愚かな行いをするはずは無いと思っていた。せいぜい、エカチェリーナを棘のある言葉で悲しませて、彼女の愛らしい顔を引き出してくれればよかったものを。

 ヴァルヴァラは、息子を思うあまり、エカチェリーナに辛く当たるのだから、エカチェリーナの悲しげな顔はイヴァンにも関係している。イヴァンが関係することにより、彼女が泣きそうな顔をするのが愛らしくて堪らなかった。それを……。

 ーー母上が、彼女を害したことにより台無しだ。

 彼女が悲しむ全ての原因は、イヴァンにあるのだと豪語していたのだから、今回の彼女の怪我もイヴァンが原因ということになってしまうではないか!

 何とも自分勝手で無茶苦茶な理論を並べ、イヴァンは憤りを感じていた。サラサラだった筈の彼の髪の毛が、怒りにより蛇のようにうねるのだから親子そっくりである。

 そこへ、ようやく医師がやって来た。
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