今宵、貴女の指にキスをする。

橘柚葉

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第十八話

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「円香」
「……」
「円香、何をそんなにむくれているのかな? この子は」
 相宮が呆れたように呟いているのを、円香はそっぽを向いて無視をする。
 ここは、都内のとある貸しオフィス。
 出入り口の扉には相宮オフィスという看板がある。
 三部屋あるうちの一部屋を来客時の応接間のようなスペースにしてあり、あとの二部屋は円香と相宮がそれぞれ個々の仕事をするときに使用しているのだ。
 お互いの気持ちが結ばれたあとすぐ、この共同オフィスを二人は借りた。
 それと同時に、実は名字も変わってしまっている。
 気を抜けばすぐに相宮のことを名字で呼んでしまう円香に、彼は策士な雰囲気で婚姻届を円香に差し出したのだ。
「名字が一緒なら、私のことを名前で呼ばないといけないでしょう」
 そう笑顔で言い寄ってきたのは、すでに三年前だ。
 付き合う間もなく、入籍。すぐに二人の新居を探して住みだした。
 そのとき、「家庭に仕事は持ち込みたくないね」という双方の意見が一致。
 この共同オフィスを借りる経緯にいたった訳だ。
 現在、円香は仕事をセーブしている。だから、あまりこのオフィスにも足を運んでいなかったのだが、今こうしてオフィスにいるのは理由がある。
 昼間ある光景を目撃してしまったからだ。
 あれを見てしまったら、本人にいち早く抗議しなくてはならないだろう。
 そう思って円香は、オフィスに足を運んだ。
 今、円香はフリースペースのソファーにふて腐れて座っている。
 その横に無理矢理入り込んで座った相宮は、困ったように円香の頭を引き寄せた。
「どうしたのかな、私の可愛い奥さんは」
「触らないでください!」
「んー、うちの奥さんが負の感情を抱いているときはすぐにわかるんだけど、その内容がわからないのが困りますね」
 そういう態度を取るのか。円香は厳しい視線を相宮に向けた。
「ご自分の胸に手を当てて、昼間のことを思い出してください」
「昼間? もしかして円香、A出版にいた?」
 その通りだ。仕事をセーブしているが、完璧になくしている訳ではない。
 七原に「ご自宅に伺います!」と言われたのだが、運動不足を解消するためにA出版まで書類を持って行ってきたのだ。
「身重なのに、大丈夫でしょうか!?」
 と何度も七原に電話で心配されたが、今はつわりも落ち着いてきたし、経過も順調。
 お腹もまださほど大きくなっていない。
 だからお散歩がてら行くと言って、久しぶりにA出版へと足を運んだ。
 ただいま七ヶ月目。お腹には相宮と円香の子供が宿っている。
 そう、妊娠を期に仕事をセーブしているのだ。
 円香が久しぶりにA出版に行くということでワクワクして行くと、会議室から出てきた相宮を見つけた。
 隣にはA出版で働いている編集者がいる。
 にこやかに談話していたのだが、さすがの円香もそこでは嫉妬はしない。
 大事な仕事相手だ。愛想良くするのも仕事のうち。
 ただ、編集者はとても綺麗で若く、なんとなく面白くない気持ちになったのは内緒だが。
 そんな円香が次の瞬間に見たのは、相宮がその編集者の手に触れようと手を伸ばしているところだった。
 そこからは目の前が真っ暗になり、原稿だけ七原に渡すと慌ててビルから飛び出しタクシーに乗り込んだ。
 自宅に戻ろうと思ったが、すぐに相宮と話しがしたいと思った円香はタクシードライバーに共同オフィスの住所を告げていた。
 オフィスの中が真っ暗になっても電気を付ける気が起きず、ただただソファーに座り込んでいた。
 ハッと我に返ったのは、相宮がオフィスに戻ってきて電気を付けたときだった。
 じんわりと目に涙が浮かんできてしまう。
 ギュッと目を瞑ると、円香の目から一粒涙が落ちた。
「円香。ねぇ、本当にどうしたの? 私が何かした?」
 円香の身体をギュッと抱きしめ、相宮は心配そうに呟く。
 その声を聞いていたら、涙がポロポロと落ち始めてしまった。
 この人を失いたくない。誰にも渡したくない。
 ドロドロした気持ちで心が苦しい。円香は思いの丈を相宮にぶつけた。
「私の指。もう祐輔さんにとってはどうでもよくなってしまったの?」
「ごめん、円香。言っている意味が全くわからない」
 戸惑っている相宮に、円香は怒りをぶちまけた。
「今日、A出版の美人編集者の手を握ろうとしていたでしょう?」
「はぁ!?」
「見たんだから。会議室から出てきたとき、祐輔さんが彼女の手に触れようとしていたところ」
 あんな光景見たくなかった。
 ギュッともう一度目を瞑り、膝の腕で手を握りしめる。
 そこに、大きな手の平が包みこむようにして触れた。相宮の手だ。
「何を言い出したかと思えば……」
「だ、だって。私のこと、祐輔さん……飽きちゃったのかと思ったの。だから、だから……」
 綺麗な指の女性だった。だからこそ円香は焦ったのだ。
 涙をポロポロと流し続ける円香に、相宮はクスクスと笑い出した。
「あのね、円香。前にも言ったと思うけど、私は指フェチっていう訳じゃないんだよ」
「……だって、最初私の指ばかり触っていたでしょう?」
「あれは……私に意気地がなかったのと、円香の気持ちを探るためだったんだけどね」
 困ったように肩を竦めた相宮だったが、円香の指を持ち上げて、指先にキスをした。
「円香の指が好きなのは、この指があの綺麗な文章を書き上げている指だからだよ」
「……」
「これも言ったと思うけど、円香を好きになったきっかけは君が書いた作品だったんだ。あの文書を紡ぐ手ですよ? 好きになるに決まっている」
 改めて言われると恥ずかしい。絶句だった。
 顔を真っ赤にさせて円香は相宮を見つめる。
「今日、円香が見たのはね。ペンを貰う瞬間だったと思うよ」
「え?」
「きちんと最後の最後まで見ていて欲しかったな。で、文句があるのならその場で言って。そうすればすぐに誤解は解けたのに」
 涙でぐしゃぐしゃの顔で円香は相宮を見つめる。
 すると、相宮は指で涙を拭ってくれた。
「断じて彼女に指一本触れていない。約束する」
「本当?」
「何? 疑っているのかな? 円香は」
「あ……」
 この声色はマズイ。円香は反射的に確信した。
 ごめんなさい、私の勘違いでしたね。そう言ってソファーから立ち上がろうとする円香を、「まあまあ」と相宮は意味ありげにほほ笑んで円香を自分の腕の中に導いた。
「これだけ奥さんに一途なのに。疑うんだね、円香は」
「えっと、その……」
「心外だな。私の目には円香しか映っていないのに。どうしたら、鈍感な奥さんに気付いてもらえるのかなぁ?」
「ご、ごめんね。私ってば勘違いしてた……よね?」
 とりあえず謝り倒すしかない。円香はごめんね、と何度も相宮に謝る。
 だが、相宮はニコニコと笑ってはいるが目が怒っている。
 これは、本当にマズイかもしれない。円香の背に冷や汗が流れた。
「そうか。私がどれほど円香のことが好きなのか。円香の書いた文章が好きなのか、そしてその文章を紡ぐ指が好きなのか。再度認識して貰わなくちゃだめってことだね」
「いや、大丈夫。しっかり伝わっているから」
「いーや、伝わっていない。さて、どうしようかな」
 そういうと、相宮は円香の指先を口に含み、舌で愛撫し始めた。
 ゾクリと快感が背に走る。真っ赤になって狼狽える円香に、相宮はニッコリとほほ笑んだ。
 ただし、目は真剣そのものだった。
「妊婦さんを押し倒す訳にはいかないから。今日はずっと円香の指にキスをし続けようかな」
「っ!」
「フフ。そうだな……木佐円香作品のような言葉で、円香を口説く。そういうのも悪くないね」
 慌てふためく円香に、相宮は真剣な声色で言う。
「今宵、貴女の指にキスをする。いいね?」
 そう言うと、再び相宮は円香の指先に唇を添わせた。
    


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