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第三話
沈黙の少女
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Dr.Fridayこと鈴木医師は、いつもの診察室で、目の前の椅子に、行儀よく座っている少女を見つめていた。
少女の名前は、谷口 琴音(たにぐち ことね)。11才。
少女は両手をそろえて膝に置き、視線は自分の両手に落とし、鈴木医師を見ようとしない。
少女の隣に座った母親が、これまで、何人もの小児科医や精神科医にかかってきたが、よくなるきざしさえ全くなかったこと、人づてに、鈴木医師のことを聞き、最後の頼みのつもりで、泊まりがけで初診に来たことを、切々と訴えた。
緘黙症(かんもくしょう)。
声帯や耳や知能の問題が無いにもかかわらず、言葉を発しないという病気だ。
日常全般において言葉を発しない「全緘黙」と、家庭内など安心できる場所においては言葉を発する「場面緘黙」とがある。
琴音さんは、ひとりっ子で、両親に対しては生活を送るための必要最低限の言葉は言うとのことだから、場面緘黙だ。
医学界において緘黙症の原因は、まだはっきりとはわかっていない。
患者が生まれつき不安を感じやすい性質を持っている、発達障害を持っている、などと言われてはいるが、原因不明の場合も多く、したがって治療も、抗不安薬の処方や、患者にとってリラックスできる環境を作り、発語を促してゆく、などの対症療法が行われる。
琴音さんのお母さんの話によると、幼稚園に入った琴音さんが、お友だちや先生に対して、言葉を発しないことがわかり、地元の医師に「緘黙症」の診断を受けてから、今の年齢になるまで、さまざまな医師を訪ね、さまざまな療法、アプローチを試みてきたが、変化がみられなかったということだ。過去の療法を繰り返しても意味がない。
母親は、心配の表情で訴える。
「この子も来年には中学生になります。小学校までは、同じ地域の顔馴染みの子どもたちと、担任の先生方に、理解と配慮をしていただいて、通学することができましたが、中学校では、教科ごとに先生が変わりますし、これまで琴音が知らない、小学校の時とは違う地域から来る子どもたちと混合のクラスになります。小学校の時のようには、琴音に配慮をしてもらえないかもしれません……それを思うと、今のうちに、少しでも症状を改善してやれないものかと、わたしが思い詰めてしまって……親があせっては、本人にとって良くないことはわかっているんですけど……」
「いえいえ、お母さんのお気持ちは、痛いほどわかりますよ。」
鈴木医師は応えながらも、目は琴音さんを観察している。
(この子は、隣で母親が、自分のことについて話していても、彫像のように動かず、ピクリとも表情を変えることがない。言葉でも表情でもコミュニケーションがとれないとなると、本人の心の内を知るには、あの方法しか…)
鈴木医師は「あの方法」について、考えていた。自分にその能力があることは知っているが、患者に対して、その能力を使ったことはない。なぜなら、その能力の使用は、鈴木医師にとってリスクがあるからだ…
~~~
あれは以前、鈴木医師が、病床数が300もある大きな精神科単科病院に勤務していた時のことだ。
夜勤明けの帰りの電車に乗っていると、途中の駅から、ひとりの女性が乗って来て、鈴木医師のちょうど向かい側のシートに座った。
女性はページの途中に指をはさんで、カバーのかかった一冊の本を持っていた。電車を待ちながら読んでいて、電車内でも続きを読むつもりなのだろう。
女性は座るやいなや、すぐに本を開き、本の世界に集中しはじめた。
最初は女性の様子をぼんやり見ていた鈴木医師だが、彼女があまりにも本に没頭しているものだから、いったいどんな本を読んでいるのだろうと、興味を感じてきた。
何を読んでいるのか知りたい。でも、電車内で赤の他人に、いきなり声をかけるわけにはいかない。不審者だと思われては困る。でも知りたい…でも聞けない…。
鈴木医師の心の葛藤が最高潮に達した時、突然、ある能力が開花した!
鈴木医師の心が、彼女の脳内世界に飛び込んだのだ!
はじめは何が起こったのか、鈴木医師にもわからなかった。
ただ、自分が山荘のような、木造の部屋の一室を見ていて、室内のベットに、一組の男女が着衣のまま横たわっているのだった。
女性のほうが目を覚ました。上半身を起こして、周りを見る。来たことのない知らない部屋だ。視線を落とすと、隣に男性が横たわっているのを見て、飛び上がらんばかりの表情と動作で驚く。
女性はしばらく固まっていたが、男性の胸が上下し呼吸をしているのに気づくと、勇気を出して、そろそろと男性の両肩を両手でつかみ、揺さぶって、目覚めさせようとした。
2人の様子を、近づいたり離れたりしながら自由に見れる、自分の視点に気づいた鈴木医師は、自分が、電車で本を読んでいる女性が、言葉から想像している物語の世界の中にはいり込んでいるのだと理解した。
それなら存分に、この物語を楽しませてもらおう。
物語の中の男性が、軽いうめき声と同時に目を開けた。
ふたりの目と目がバッチリ合った。
「キャッ!」
「ワッ!」
2人は同時に驚きの声を上げ、反発するように、お互いの身体を離した。
この様子では、2人は知り合いではないようだ。
なぜ、こんなところに見知らぬ異性といるのだろう? 2人とも、自分の記憶を探ってゆくうち、自分の夫、自分の妻に、お酒を飲まされた後、意識が無くなっていることに気づいた。酒に混ぜた薬を飲まされ、眠らされた後に、ここに連れてこられたらしい。
なんのために?
結論にたどり着く前に、2人は気づいた。
階下から火が燃える音とにおいが、上がって来たのだ。
男性が飛び起きて、部屋にひとつだけあるドアに走り寄り、ドアノブをひねる。
開かない。外側から鍵がかけられている。
2人は悟った。
恐ろしいことだが、信じたくないことだが、お互いの、夫、妻、合意の元で、この山荘で2人を焼き殺そうとしている。
逃げねば!!
2人は慌てて、逃げ出せるところがないか、室内を探す。
四方の壁には窓がなく、斜めになった天井の高いところに、ひとつだけ天窓がある。
その天窓は室内側にレバーが付いていて、そこを引くことができれば、窓が開けられるのだが、いかんせん、手を伸ばしても到底とどかない高い場所にあり、2人をこの部屋に閉じ込めた誰かが、踏み台になるような物を置いているわけもなく、2人は絶体絶命の状況に見えた。
それでも2人はあきらめず、逃げ出すための努力をしようと、以心伝心のうちに決意した。
2人は素早く話し合い、天窓の真下へゆくと、男性が女性を肩車して立ち、天窓のレバーに女性の手が届かないものかと、トライした。
普通に肩車して手を伸ばしても、レバーはまだまだ遠い。
女性は男性の頭部に手をかけて、身体を支えながら、男性の両肩に足を上げ、肩の上に立ち上がるようにして、手を伸ばした。
男性が女性の足首をつかんで支える。
あっ、だいぶん近づいたけど、あと数センチ……
男性も女性の身体を支えて立つのはたいへんで、グラグラしてバランスを崩しそうになる。
その時、神様からのインスピレーションのように、女性の頭に、ある考えが閃いた!
女性は自分の首元からネックレスを引きちぎってしっかり握ると、輪にして投げるような感じで、レバーにひっかけた!
ほぼ同時に、男性が体勢を崩して倒れ、その拍子に、ネックレスを持った女性の手が
下に引かれ、レバーが動いて、天窓が、バンッ!と音を立てて、外側に開いた!
2人はその様子をホッとして見上げ、次の瞬間、男性の上に女性が落ちて、身体が重なっているのに気づき、生死を分ける緊迫した状況にもかかわらず、2人とも、思わず頬を赤くし、身体をパッと離す。
続いて2人は、さきほど寝かされていたベットからシーツをはがし、それぞれシーツの端を持ち、協力してシーツを長細く裂き始めた。
裂いたシーツの端と端をしっかり結び合わせて、できるだけ長いロープ状にしてゆく。
作業の間にも、階下では、火のはぜるパチパチという音がし、閉められたドアの隙間から煙が入ってきはじめた。
急ごしらえのロープの端を、女性が口にくわえ、再び天窓の下に2人でゆく。さきほどのように、男性の肩の上に女性が立ち、2人が息を合わせて、ひざの屈伸を使い、アイスダンスのペアの選手のように、男性が女性を投げ上げた!
女性は窓枠に飛び付くと、自分の上半身の力と、男性が下から足を押し上げてくれる力を使って、屋根の上に這って出た。
夕暮れ時の、ほの暗い光のなかに、傾斜のついた四角い屋根が浮かんでいる。女性はロープを口にくわえたまま、四つん這いで屋根の端までゆく。
屋根の一方の角から地面にむけて、円筒形の雨どいがついている。雨どいをつたって地面に降りることが出来そうだ。
女性はそろそろと、しかし確実に、一歩一歩、地面に近づく。一階の窓が見えるところまで降りると、一階の窓ガラスの中で炎が燃え盛っているのが見える。急がなければ。
地面に降りて、しっかりした物にロープをくくり付けられたら、ロープを二回、グッグッと引いて、天窓の下で、ロープを持って待っている男性に知らせる手はずにしている。周りを見回すと、門柱が一番手近にある……
ここで突然、世界が真っ暗になった!
物語の世界に、引き込まれていた鈴木医師にとっては、前ぶれもなく真っ暗になり気が動転したが、考えてみると、読書をしていた彼女が、本を閉じ、おそらく電車を降りたのだろう。
この真っ暗なところから、自分の身体に帰らなければ。しかしどうすれば帰れるのだろう。
今度は、物語の中の2人ではなくて、鈴木医師が試行錯誤することになった。
身体に帰りたい、帰りたいと念じたり、自分が電車で座っている姿を思い浮かべ、そこへ入るイメージを何度も試みてみたが、真っ暗な世界から抜け出せない。
もしかして、この本が、再び開かれるまでこのままなのだろうか?物語が再開されても、自分が自分の身体に帰るには、どうすればよいのだろうか?
鈴木医師が、冷や汗が出るような思いをしていたところ……
真っ暗闇をつんざいて、鼓膜が破れそうなほどの大声が響き渡った!!
「お客さん!お客さん!終点ですよ!起きてください!」
その声とともに、真っ暗な世界にビリビリと裂け目が走り、鈴木医師は裂け目から明るい外の世界に出た……
気がつくと、若い車掌が顔をのぞき込むようにして、声をかけ、その声のおかげで自分の心が自分の身体に戻っていることに、鈴木医師は気がついた。
鈴木医師は頭を上げ、瞳の焦点を若い車掌の顔に合わせて、声をだした。
「あ…すみません、起こしていただいて…」
鈴木医師の様子に、どこか不自然な雰囲気があったのだろう、車掌は、
「お客さん、大丈夫ですか?具合が悪いんじゃないですか?」
と、心配して尋ねた。
鈴木医師は、疲れていて眠ってしまっただけです、途中の駅で降りなければいけなかったのですが、と話すと、車掌は、まだ不審そうな表情で、そうですか、この電車は折り返し運転なので、あと25分もすれば始発駅へ向けて発車しますから、戻るならそのまま座っていればいいですよ、と言い、次の車両へと歩き去った。
ひとり、ぽつんと残された鈴木医師は、自分の身体に自分の心が戻って来れたことに、ホッとしながらも、これは困った能力が目覚めてしまったと考えた。
すでに、精神科医として患者の心に接するにあたり、他の医師にはない能力が自分にはあるようだと気づいてはいたが、今回、発動した能力は、人の考え感情をダイレクトに知るには良いが、自分で自分の身体に戻ることをコントロールできないのなら、この能力が、うっかり発動しないように、意識して生きなければならない……
~~~
これが、鈴木医師が「あの方法」と呼ぶ能力を患者に使ってこなかった理由だ。
しかし、今回の患者である、琴音さんとは、言葉はもちろん、表情や動作でもコミュニケーションがとれそうにない。
今回ばかりは「あの方法」を使うしかないと、鈴木医師は決心した。あの時は、車掌の呼び声で、自分の身体に戻ることができた。今回も同じ状況を作っておけばなんとかなるだろう。
鈴木医師は女性の看護師を呼んだ。
「佐藤さん、こっちに来て。」
廊下でつながってはいるが、診察室の隣の部屋で、待機していた佐藤看護師が、きびきびと歩いて、鈴木医師のそばまで来た。
「これから30分間、私と谷口琴音さんだけの時間を持ちたい。30分後、私は気を失っていると思うから、私の耳元で大声で呼んで起こしてほしい。」
佐藤看護師は、えっ、と驚きの表情を浮かべたが、過去にも鈴木医師が、なんらかの超常的な能力を使って診療するのを見たことがある。今回もその類だろう。
「わかりました。では30分間、私は隣の部屋にいて、30分後に来ればよいですね。」
鈴木医師は、深くうなずいた。それから琴音さんのお母さんのほうへ向かい、
「お母さんも30分間、待合室のほうでお待ちいただけますか。30分後に、ふたたびお話しをします。」
琴音さんのお母さんは、少し心配そうな顔をしたが、鈴木医師の、大丈夫ですよという意味を含んだ、ほほえみを見て、椅子から立ち上がり、待合室へのドアのむこうに消えた。佐藤看護師も、隣の部屋へと消えた。
鈴木医師と琴音さんは、一対一で向かい合った。琴音さんは、あいかわらず視線を自分の両手に落としている。
鈴木医師は琴音さんの眉間のあたりを見つめ、琴音さんの頭の中へ飛び込む自分をイメージした。
ソレッ、と心の中でかけた掛け声とともに、琴音さんの頭へ跳躍する意識をしたとたん、世界のすべてが、変化した。
~~~
よろいかぶとを身につけた、武士の背中を一心に目つめて、そのあとを追い、歩いている。
山のなかの道なき斜面。時折、武士が刀を抜いて、木の枝を切り払い、登れる空間をつくる。
武士の背中には、布に巻かれた赤ん坊がくくりつけられ、布からはみ出した手足が、武士の歩みとともに、ぶらぶらと頼りなく揺れている。
(この子だけは…宝寿丸(ほうじゅまる)だけは、なんとしても生きのびさせる…)
母としての強い決意が、心の底から煮えたぎる。その思いだけが、自分を動かしている。
(城はもう敵の手に落ちたのだろうか…夫はどうなっただろうか…)
城に思いを馳せたとたん、集中力が途切れたのか、踏み込んだ足が滑って転倒し、斜面をザザザッと少し転がり落ちた。
立ち上がろうとしたが、長時間歩いた疲労のせいで動けなくなった。
「奥方様っ!」
武士が振り向き、斜面を戻って、そばまで来た。
「わたしにかまってはならぬ!宝寿丸をはよう龍泉寺へ!」
「しかし…」
武士は、奥方様を放ってはおけないと、ちゅうちょしている。
「龍泉寺にさえたどり着ければ、住職が宝寿丸をさらに安全なところへ移す手はずを約束してくださっている。そなたははよう行け。わたしも少し休んで、そなたの後を追う。」
「わかりました。奥方様、どうかご無事で!」
武士はきびすを返すと、今までにも増して大股に山を登っていった。
武士の姿が木々の緑に隠れて見えなくなった頃、山すそのほうから、別の男の声が聞こえてきた。
「草鞋(わらじ)が片方落ちている!付いている土は、まだ新しいぞ!」
別の声が応える。
「松姫が履いていたものかもしれん。城内のどこを探しても、松姫と宝寿丸はいなかった。城を抜け出して、逃げているに違いない。」
山中に横たわっている松姫は、首をもたげて、恐る恐る自分の足元を見た。右足の草鞋が脱げ、足袋だけになっている。山中を歩くのに精いっぱいで、草鞋が脱げたことに気がついていなかった。
敵兵が、自分と宝寿丸とを探している。このままでは見つかってしまうだろう。この身はともかくも、宝寿丸だけは逃げのびさせなければ。
松姫は自分に敵兵の注意を集めさせれば、宝寿丸を背負った味方の兵が、逃げる時間をかせげると考えた。
松姫は気力を振り絞って立ち上がり、山の斜面を横切る方向へと歩き始めた。
木の根を踏み越え、草をかき分け、わざと敵兵の目に止まる方向へと歩く。
「あっ!見えたぞ!」
「松姫だ!」
「追え!」
思いどおりに敵兵が追ってくる。しかし、この時、松姫は自分の身の終わりを、すでに決めていた。
このまま歩めば、滝の上に出る。まだ戦(いくさ)が始まっていなかった頃、侍女達と一緒に花見に来たことがあるので、滝の場所は知っている。
(敵兵なんぞに捕まるものか!宝寿丸の行き先は誰にも言わぬ!)
松姫の強固な意思が、疲労困憊(ひろうこんぱい)している身体を、奇跡のように素早く動かしている。敵兵は思ったようには追いつけない。
「逃がすな!」
敵兵も必死で追いつこうとする。しかし、敵兵はこの地に詳しくはない。
「この先は滝だ!」
水がゴウゴウと流れ落ちる音に、敵兵が気づいた時、松姫はすでに滝の上の岩場にたどり着いていた。
「あっ!」「ああっ!」
鮮やかな緑色の着物が宙を舞い、松姫が滝に身を投げた姿を敵兵たちは見た!
松姫は、自分の身体が風を切って落ちてゆき、青黒い滝壺が迫ってくるのを感じながら、歯をくいしばり、最後の瞬間まで念じた。
(宝寿丸の行き先は誰にも言わぬ!)
そして、世界は真っ暗になった……
~~~
「……先生!鈴木先生!起きてください!
お!き!て!く!だ!さ!い!」
佐藤看護師の声が聞こえる……
鈴木医師は、頭をブルッと震わせながら、意識を取り戻した。
すぐそばに、佐藤看護師の心配そうな顔がある。
鈴木医師は自分の手のひらで、自分の頬をピシャピシャとたたいて、感覚が戻っているか確かめた。
佐藤さんありがとう、と言いながら、目の前に焦点を合わせると、琴音さんがあいかわらず行儀よく座っている。
この少女の頭の中に、さきほど体験した、松姫としての壮絶な記憶がおさまっているのだ。
鈴木医師の頭に、ひとつの言葉が浮かんだ。
「前世療法」。
症状の原因を、その人の前世にまで遡って求める療法で、アメリカやヨーロッパではかなり行われているらしく、医師による症例も読んだことがあるが、日本の医学界では認められていない。
松姫が死に際においても誓った言葉、
「宝寿丸の行き先は誰にも言わぬ!」
という強固な意思が、現在の琴音さんの緘黙症の症状につながっているのかもしれない。
鈴木医師は、佐藤看護師に指示して、琴音さんのお母さんを、診察室に呼び入れてもらった。
琴音さんのとなりの椅子に座ったお母さんに向かって、
「琴音さんの緘黙症の、原因につながる手がかりがわかったかもしれません。」
と、話し始めた。
琴音さんのお母さんの目が、大きく見開かれた。おそらく、これまでかかったどの医師からも、聞かされたことがない言葉だったのだろう。
「私がどのようにして、手がかりにたどり着いたのか、それが具体的に何なのか、は、今の段階では申し上げることができません。手がかりから信頼できる事実が得られるまで、調査が必要です。」
「お母さんのお気持ちとしては、まどろっこしいと思われるでしょうが、しばらく調査の日にちをください。事実がはっきりしましたら、あらためて、私からご連絡しますから、再びご来院いただけますか?」
琴音さんのお母さんは、目を見開いたまま、こくり、と深くうなずいた。
~~~
鈴木医師は自宅のノートパソコンの、検索窓に「龍泉寺」と入れて、検索をかけた。
出てきた結果は、あるわあるわ全国各地の龍泉寺が、ずらずらずらりと並んでいる。
これでは特定できないな、と思った鈴木医師は今度は「龍泉寺 近くに滝」と入れて検索をかけた。
これで数件までヒットは減った。それでもこの中のどれが、松姫が言っていた龍泉寺か特定せねばならない。寺の名前は長い歴史の中で変わることもあるから、松姫の時代から寺名が変わったり、廃寺になっていないことを祈るしかない。
滝の写真が、いくつか表示されている。その中にこういう名前の滝があった。
「姫壺滝(ひめつぼだき)」
長野県O市にある滝である。
他の滝には松姫とつながりがありそうな名前の滝はない。鈴木医師はこの滝を第一候補として調べることにした。
O市観光協会のホームページを開いて読む。
「姫壺滝のいわれ」の項目があり、このように紹介されていた。
『室町時代末期から戦国時代初期にかけ、ここO市を含む周辺地域は野田氏一族の領地でした。1535年、三代目、野田嘉高(のだよしたか)の時代、かねてより、鉄鉱石の産地を含む、野田氏の領地を手中にせんとうかがっていた、隣接する河内氏が戦国大名の後ろ盾を得て、領地に攻め込みました。一年半あまりの攻防の末、河内氏によって野田氏の本拠地であった加山城まで攻め込まれ、城は落城しました。その戦で野田嘉高は討ち死にしましたが、野田嘉高と正室の松姫との間に生まれていた男の赤子、宝寿丸は野田嘉高の家来に託され、松姫と共に、加山城を抜け出しました。逃走の途中、河内方の兵に追いつかれそうになり、宝寿丸を託した家来を逃げのびさせるために、松姫がおとりとなって河内の兵の注意を引き付け、追い詰められた松姫が身を投げて自害したのが、この滝です。この悲劇の後、姫が滝壺に身を投げたことから、誰からともなく、この滝は「姫壺滝」と呼ばれるようになりました。現在は遊歩道が整備され、春の桜、夏の新緑、秋の紅葉、冬の雪景色、と四季を通じて楽しめる場所ですが、松姫に思いをはせて見ていただくと、また違うおもむきを感じていただけるところです。』
と掲載されていた。
まさに、琴音さんの頭の中で、鈴木医師が松姫の視点になって経験した記憶とぴったりだ!
続いて、宝寿丸のその後についての情報がないか探してみた。
龍泉寺のホームページはなかったが、地元の郷土史家の人が、地域の歴史について書いている連載ブログが見つかった。
ブログの「龍泉寺と宝寿丸」の回に、宝寿丸のエピソードが書かれていた。龍泉寺にあずけられた宝寿丸は、そこからさらに、子だくさんの農家にあずけられ、農家の末っ子として、名前を「弥助(やすけ)」と呼ばれて育てられた。
弥助は、すくすくと育ったが、十歳を過ぎた頃、弥助の出自を知る周囲の大人から、あなたは野田嘉高と松姫の子どもと聞かされた。思い悩んだ弥助は、亡き父母の菩提(ぼだい:死後の平安)を弔いたいと、出家して僧となった。
九死に一生(きゅうしにいっしょう)を得たみずからの運命から、僧一生(そういっせい)と名乗り、いくつかの寺で修行を積んだ後、龍泉寺に帰って来て、六十歳から七十二歳で没するまで住職を務めた。また、手先が器用な人だったらしく、母、松姫への思いを込めて彫ったという聖観音菩薩像(しょうかんのんぼさつぞう)が残されている。
松姫への思いを込めた証拠として、聖観音菩薩は一般的には左手に、蓮華の花を持っているが、この聖観音は松の若木を持っている。
毎年3月27日の、松姫の命日には、仏像のご開帳と法要が、今でも行われているということだ。
輪廻転生(りんねてんせい)。
人は生まれ変わり、死に変わりしながら永遠の魂を生きる、という仏教用語だが、現在ではファンタジー小説などでも使われている。
鈴木医師は、個人的には輪廻転生を否定してはいなかったが、自分の患者で、ここまではっきりと、記録や文物が残っているケースは初めてだった。
琴音さんはおそらく、松姫としての最後の意識、「宝寿丸の行き先は誰にも言わぬ!」という強固な決意で、心ががんじがらめにしばられており、谷口琴音として生まれ変わっても、信用のおけない他人とは話さない、という状態になっているのだろう。
その、琴音さんの心をしばっている鎖をといてあげるのが、精神科医としての自分の
役目だ。そのためには、まず、宝寿丸が無事に生き延びて、晩年は龍泉寺の住職として長生きし、松姫をしのんで彫った「聖観音菩薩像」を残していることを、知らせてあげれば、鎖がとけてくるかもしれない。
蓮華の花の変わりに、松の若木を持っているという聖観音菩薩像を見せて、これは、宝寿丸が彫ったものなのだよ、と伝えてあげたいが、3月27日のご開帳まで待ってはいられない。琴音さんが中学生になってしまう。
鈴木医師はO市観光協会に電話をかけ、
「龍泉寺にある聖観音菩薩像に興味があるのですが、写真に撮られたものはありませんか?」
と、聞いてみた。
すると、観光協会職員は、
「観光協会のほうには、写真資料はないのですが、O市教育委員会が『O市の文化財』という写真集を作っていて、その中に、龍泉寺の聖観音菩薩像も掲載されているので、教育委員会のほうに問い合わせてみられてはどうですか?」
と言われ、教育委員会の電話番号を教えてくれた。
そこで鈴木医師は、今度はO市教育委員会に電話をかけた。「O市の文化財」の写真集が見たいのですが、販売はされていますか?
と聞くと、教育委員会まで来られますか?
と聞かれ、行かれないので送ってもらえませんか?送料は私が負担します、とたのむと、熱意が伝わったらしく、送料込み郵便局後払いで一冊送ってもらえることになった。
届いた写真集の「龍泉寺の聖観音菩薩像」のページを見ると、不思議なことに、像の顔の雰囲気が、琴音さんに似ている。おとなしくて、やさしいけれども、決心したら頑固なほどにひるがえさない、という性格が、像の目元や口元に現れているのだった。
~~~
琴音さんとお母さんが再び診察室を訪れたのは、初診日から二週間あまり後だった。
初診の日と同じように、椅子に座ると彫像のように動かなくなる琴音さん。
緘黙症の解決の糸口を話してもらえると、期待しているお母さん。
鈴木医師は、「O市の文化財」の「龍泉寺の聖観音菩薩像」のページを開いて、琴音さんに見えるように置いた。
「この仏像は、宝寿丸、のちに一生と名乗るお坊さんになった、あなたの息子が、あなたへの愛情を込めて彫った像です。像の左手を見てごらんなさい。あなたの名前、松姫のとおり、小さい松の木を持っているでしょう。」
宝寿丸、松姫、という名前を聞いて、琴音さんの表情が変わった。まぶたが急に上がってまばたきが多くなり、くちびるは震えはじめた。
そして、両手を伸ばして写真集を手に取ると、顔に近づけて、よくよく見始めた。
「これは……」
(これはどういうことですか?)
と、鈴木医師に聞こうとする、お母さんに向かって、鈴木医師は、人差し指を立てて自分のくちびるに当て、今は黙って琴音さんに任せて、と合図した。
納得するまで写真を見た琴音さんは、顔を上げ、鈴木医師をまっすぐに見て、小さな震える声ではあるが、こう聞いた。
「私と別れたあと…宝寿丸はどうなりましたか…?」
鈴木医師は答えた。
「あなたが信頼していた龍泉寺の住職に無事とどけられました。そこから子だくさんの農家にあずけられ、その家の末っ子として弥助という名前で育てられました。十歳をこえた頃、周りの大人の誰かから、あなたの本当の両親は、野田嘉高と正室の松姫だと教えられたようです。弥助は悩んだようですが、両親を弔いたいと僧侶になりました。松姫のおかげで、九死に一生を得た
ことから、僧としての名前を「一生(いっせい)」と名乗りました。各地の寺で修行をした後、六十歳で龍泉寺の住職になり七十二歳まで生きました。当時としてはたいへんな長生きですよ。あなたが守った宝寿丸は立派に僧侶としての人生をまっとうしました。」
琴音さんは、鈴木医師の話を聞き終わった後、もう一度、聖観音菩薩像の写真に目を戻し、写真集を抱きしめるようにしながら、
「宝寿丸、宝寿丸、よかった…父、母亡きあとも、立派に生きてくれた…わたしのために仏像を作ってくれた…わたしはうれしい…」
そう言って、ポツリポツリと涙をこぼしはじめた。
その様子を、鈴木医師は温かな気持ちで、琴音さんのお母さんは驚きながら、しばらく見守っていたが、鈴木医師はお母さんに、琴音さんの心に起こっていることを話しておかなければと思い、佐藤看護師を呼んで、琴音さんだけ隣の部屋へ行って休んでいてもらうように、と指示した。
琴音さんが右手を佐藤看護師に引かれ、左手で写真集を胸に抱えて、隣室に消えた後、鈴木医師は、お母さんのほうへ向き直り、今、琴音さんの心の中で起こっていることの説明を始めた。
初診の時、30分間、琴音さんと私の二人で過ごさせてもらった時、私なりの方法で、琴音さんの頭の中に刻まれ、他人に言葉を発することをさえぎっている原因になっている記憶を、知ることができたこと。
それは戦国時代に、戦に敗れた城主の奥方が、まだ赤ん坊の男の子と家来と共に、落ちのびてゆく時の記憶で、男の子は宝寿丸、奥方は松姫という名前だったこと。
山中を歩き登るのに、力尽きた松姫が、宝寿丸を背負った家来を、落ちのびる先と決めていた龍泉寺へ、自分にかまわず早く行かせたこと。
敵兵が追って来た声が聞こえ、宝寿丸を逃げさせる時間をかせごうとした松姫は、敵兵のおとりとなって、家来が進んだほうとは違う方角へ、ひとり、なんとか歩いてゆき、敵兵を自分に引き付けたこと。
しかし、松姫が進んで行った先は、断崖絶壁の滝になっており、すでに覚悟のできていた松姫は、滝に身を投げて、自害したこと。
(松姫の自害について話した時、お母さんは感情が乱れて声を上げそうになり、おもわず両手で自分の口をふさいだ。)
そのことの後、その滝は「姫壺滝」と呼ばれるようになり、現在も、長野県O市の観光名所として知られていること。
この松姫としての記憶が、琴音さんの記憶としてあるということは、琴音さんは前世、松姫として生きており、松姫が滝に身を投げた最期の時まで念じていた、「宝寿丸の行き先は誰にも言わぬ」という強い思いが、現世の琴音さんの心を、いまだにしばっており、「他人に心をゆるして話してはいけない」という緘黙症の症状として現れていたこと。
琴音さんの心をしばっている鎖をとくには、宝寿丸がどうなったのか調べて伝える必要があると考え、ネットで調べたところ、さきほど琴音さんに話した情報を、O市の郷土史家の人がブログに書いており、宝寿丸であり、後の僧一生が、松姫をしのんで彫った聖観音菩薩像が龍泉寺に残されている、ということがわかったので、「O市の文化財」の写真集を取り寄せ、見せてあげることができたこと。
宝寿丸が無事に逃げており、僧侶として生涯を立派に送ったことを知った、今の琴音さんは、松姫の時にしばってしまった心の鎖がほどけているので、今後は他人とも話せるようになるのではないかと、医師として見立てていること。
鈴木医師がおこなった一連のことは、症状の原因を、その人の前世に求めて治療する「前世療法」と呼ばれるもので、日本では公にされている例はないが、アメリカやヨーロッパでは、医師が行うこともある治療法であることを、琴音さんのお母さんに話した。
お母さんは、初めての内容を一度に聞かされたので、とまどっている様子だったが、やがて、佐藤看護師といっしょに隣室から戻って来た琴音さんを見て、すべて良くなったのだと一瞬でわかった。
こちらに近づいて来る琴音さんは、もう視線が下を向いてはおらず、まっすぐに顔を上げ、ほほえみを浮かべていた。
琴音さんは、椅子に腰掛けている鈴木医師のそばまでゆくと、はっきりした声で、
「鈴木先生、ありがとうございました。わたしは鈴木先生のおかげで、これからは人と話してもだいじょうぶな気持ちになってきました。」
と言い、一礼した。
今度は、お母さんが感動して泣き出した。お母さんは立ち上がって、琴音さんを抱き寄せると、頬をつたって流れる涙を、自分の手の甲でぬぐった。琴音さんはニコニコしながら、その顔を見上げていた。
この先も、何かあれば、遠慮なくメールをくださいということと、「O市の文化財」の写真集は琴音さんにプレゼントします、と、鈴木医師は二人に伝え、琴音さんとお母さんが寄り添って、診察室から出てゆくのを、見送った。
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その日の診察がすべて終わり、白衣を脱いでハンガーに掛けながら、鈴木医師はふと思った。
(琴音さんの前世を知ることはできたけれど、自分自身の前世は、どうすれば知ることができるのだろう?知りたいと思っていれば、いつかわかるのだろうか?それとも琴音さんを自分が診たように、自分も誰かに診てもらわなければ、わからないのかな?)
少し考えた後、鈴木医師は、
(優先すべきは自分のことより患者のこと。患者が良ければ、すべて良し。)
と思って診察室を後にした。
無人となった診察室は、窓から入るオレンジ色の夕日で満たされて、今日もこの部屋で繰り広げられた悲喜こもごもを、静かに包み込み、新しい明日を待っているかのようだった。
(了)
少女の名前は、谷口 琴音(たにぐち ことね)。11才。
少女は両手をそろえて膝に置き、視線は自分の両手に落とし、鈴木医師を見ようとしない。
少女の隣に座った母親が、これまで、何人もの小児科医や精神科医にかかってきたが、よくなるきざしさえ全くなかったこと、人づてに、鈴木医師のことを聞き、最後の頼みのつもりで、泊まりがけで初診に来たことを、切々と訴えた。
緘黙症(かんもくしょう)。
声帯や耳や知能の問題が無いにもかかわらず、言葉を発しないという病気だ。
日常全般において言葉を発しない「全緘黙」と、家庭内など安心できる場所においては言葉を発する「場面緘黙」とがある。
琴音さんは、ひとりっ子で、両親に対しては生活を送るための必要最低限の言葉は言うとのことだから、場面緘黙だ。
医学界において緘黙症の原因は、まだはっきりとはわかっていない。
患者が生まれつき不安を感じやすい性質を持っている、発達障害を持っている、などと言われてはいるが、原因不明の場合も多く、したがって治療も、抗不安薬の処方や、患者にとってリラックスできる環境を作り、発語を促してゆく、などの対症療法が行われる。
琴音さんのお母さんの話によると、幼稚園に入った琴音さんが、お友だちや先生に対して、言葉を発しないことがわかり、地元の医師に「緘黙症」の診断を受けてから、今の年齢になるまで、さまざまな医師を訪ね、さまざまな療法、アプローチを試みてきたが、変化がみられなかったということだ。過去の療法を繰り返しても意味がない。
母親は、心配の表情で訴える。
「この子も来年には中学生になります。小学校までは、同じ地域の顔馴染みの子どもたちと、担任の先生方に、理解と配慮をしていただいて、通学することができましたが、中学校では、教科ごとに先生が変わりますし、これまで琴音が知らない、小学校の時とは違う地域から来る子どもたちと混合のクラスになります。小学校の時のようには、琴音に配慮をしてもらえないかもしれません……それを思うと、今のうちに、少しでも症状を改善してやれないものかと、わたしが思い詰めてしまって……親があせっては、本人にとって良くないことはわかっているんですけど……」
「いえいえ、お母さんのお気持ちは、痛いほどわかりますよ。」
鈴木医師は応えながらも、目は琴音さんを観察している。
(この子は、隣で母親が、自分のことについて話していても、彫像のように動かず、ピクリとも表情を変えることがない。言葉でも表情でもコミュニケーションがとれないとなると、本人の心の内を知るには、あの方法しか…)
鈴木医師は「あの方法」について、考えていた。自分にその能力があることは知っているが、患者に対して、その能力を使ったことはない。なぜなら、その能力の使用は、鈴木医師にとってリスクがあるからだ…
~~~
あれは以前、鈴木医師が、病床数が300もある大きな精神科単科病院に勤務していた時のことだ。
夜勤明けの帰りの電車に乗っていると、途中の駅から、ひとりの女性が乗って来て、鈴木医師のちょうど向かい側のシートに座った。
女性はページの途中に指をはさんで、カバーのかかった一冊の本を持っていた。電車を待ちながら読んでいて、電車内でも続きを読むつもりなのだろう。
女性は座るやいなや、すぐに本を開き、本の世界に集中しはじめた。
最初は女性の様子をぼんやり見ていた鈴木医師だが、彼女があまりにも本に没頭しているものだから、いったいどんな本を読んでいるのだろうと、興味を感じてきた。
何を読んでいるのか知りたい。でも、電車内で赤の他人に、いきなり声をかけるわけにはいかない。不審者だと思われては困る。でも知りたい…でも聞けない…。
鈴木医師の心の葛藤が最高潮に達した時、突然、ある能力が開花した!
鈴木医師の心が、彼女の脳内世界に飛び込んだのだ!
はじめは何が起こったのか、鈴木医師にもわからなかった。
ただ、自分が山荘のような、木造の部屋の一室を見ていて、室内のベットに、一組の男女が着衣のまま横たわっているのだった。
女性のほうが目を覚ました。上半身を起こして、周りを見る。来たことのない知らない部屋だ。視線を落とすと、隣に男性が横たわっているのを見て、飛び上がらんばかりの表情と動作で驚く。
女性はしばらく固まっていたが、男性の胸が上下し呼吸をしているのに気づくと、勇気を出して、そろそろと男性の両肩を両手でつかみ、揺さぶって、目覚めさせようとした。
2人の様子を、近づいたり離れたりしながら自由に見れる、自分の視点に気づいた鈴木医師は、自分が、電車で本を読んでいる女性が、言葉から想像している物語の世界の中にはいり込んでいるのだと理解した。
それなら存分に、この物語を楽しませてもらおう。
物語の中の男性が、軽いうめき声と同時に目を開けた。
ふたりの目と目がバッチリ合った。
「キャッ!」
「ワッ!」
2人は同時に驚きの声を上げ、反発するように、お互いの身体を離した。
この様子では、2人は知り合いではないようだ。
なぜ、こんなところに見知らぬ異性といるのだろう? 2人とも、自分の記憶を探ってゆくうち、自分の夫、自分の妻に、お酒を飲まされた後、意識が無くなっていることに気づいた。酒に混ぜた薬を飲まされ、眠らされた後に、ここに連れてこられたらしい。
なんのために?
結論にたどり着く前に、2人は気づいた。
階下から火が燃える音とにおいが、上がって来たのだ。
男性が飛び起きて、部屋にひとつだけあるドアに走り寄り、ドアノブをひねる。
開かない。外側から鍵がかけられている。
2人は悟った。
恐ろしいことだが、信じたくないことだが、お互いの、夫、妻、合意の元で、この山荘で2人を焼き殺そうとしている。
逃げねば!!
2人は慌てて、逃げ出せるところがないか、室内を探す。
四方の壁には窓がなく、斜めになった天井の高いところに、ひとつだけ天窓がある。
その天窓は室内側にレバーが付いていて、そこを引くことができれば、窓が開けられるのだが、いかんせん、手を伸ばしても到底とどかない高い場所にあり、2人をこの部屋に閉じ込めた誰かが、踏み台になるような物を置いているわけもなく、2人は絶体絶命の状況に見えた。
それでも2人はあきらめず、逃げ出すための努力をしようと、以心伝心のうちに決意した。
2人は素早く話し合い、天窓の真下へゆくと、男性が女性を肩車して立ち、天窓のレバーに女性の手が届かないものかと、トライした。
普通に肩車して手を伸ばしても、レバーはまだまだ遠い。
女性は男性の頭部に手をかけて、身体を支えながら、男性の両肩に足を上げ、肩の上に立ち上がるようにして、手を伸ばした。
男性が女性の足首をつかんで支える。
あっ、だいぶん近づいたけど、あと数センチ……
男性も女性の身体を支えて立つのはたいへんで、グラグラしてバランスを崩しそうになる。
その時、神様からのインスピレーションのように、女性の頭に、ある考えが閃いた!
女性は自分の首元からネックレスを引きちぎってしっかり握ると、輪にして投げるような感じで、レバーにひっかけた!
ほぼ同時に、男性が体勢を崩して倒れ、その拍子に、ネックレスを持った女性の手が
下に引かれ、レバーが動いて、天窓が、バンッ!と音を立てて、外側に開いた!
2人はその様子をホッとして見上げ、次の瞬間、男性の上に女性が落ちて、身体が重なっているのに気づき、生死を分ける緊迫した状況にもかかわらず、2人とも、思わず頬を赤くし、身体をパッと離す。
続いて2人は、さきほど寝かされていたベットからシーツをはがし、それぞれシーツの端を持ち、協力してシーツを長細く裂き始めた。
裂いたシーツの端と端をしっかり結び合わせて、できるだけ長いロープ状にしてゆく。
作業の間にも、階下では、火のはぜるパチパチという音がし、閉められたドアの隙間から煙が入ってきはじめた。
急ごしらえのロープの端を、女性が口にくわえ、再び天窓の下に2人でゆく。さきほどのように、男性の肩の上に女性が立ち、2人が息を合わせて、ひざの屈伸を使い、アイスダンスのペアの選手のように、男性が女性を投げ上げた!
女性は窓枠に飛び付くと、自分の上半身の力と、男性が下から足を押し上げてくれる力を使って、屋根の上に這って出た。
夕暮れ時の、ほの暗い光のなかに、傾斜のついた四角い屋根が浮かんでいる。女性はロープを口にくわえたまま、四つん這いで屋根の端までゆく。
屋根の一方の角から地面にむけて、円筒形の雨どいがついている。雨どいをつたって地面に降りることが出来そうだ。
女性はそろそろと、しかし確実に、一歩一歩、地面に近づく。一階の窓が見えるところまで降りると、一階の窓ガラスの中で炎が燃え盛っているのが見える。急がなければ。
地面に降りて、しっかりした物にロープをくくり付けられたら、ロープを二回、グッグッと引いて、天窓の下で、ロープを持って待っている男性に知らせる手はずにしている。周りを見回すと、門柱が一番手近にある……
ここで突然、世界が真っ暗になった!
物語の世界に、引き込まれていた鈴木医師にとっては、前ぶれもなく真っ暗になり気が動転したが、考えてみると、読書をしていた彼女が、本を閉じ、おそらく電車を降りたのだろう。
この真っ暗なところから、自分の身体に帰らなければ。しかしどうすれば帰れるのだろう。
今度は、物語の中の2人ではなくて、鈴木医師が試行錯誤することになった。
身体に帰りたい、帰りたいと念じたり、自分が電車で座っている姿を思い浮かべ、そこへ入るイメージを何度も試みてみたが、真っ暗な世界から抜け出せない。
もしかして、この本が、再び開かれるまでこのままなのだろうか?物語が再開されても、自分が自分の身体に帰るには、どうすればよいのだろうか?
鈴木医師が、冷や汗が出るような思いをしていたところ……
真っ暗闇をつんざいて、鼓膜が破れそうなほどの大声が響き渡った!!
「お客さん!お客さん!終点ですよ!起きてください!」
その声とともに、真っ暗な世界にビリビリと裂け目が走り、鈴木医師は裂け目から明るい外の世界に出た……
気がつくと、若い車掌が顔をのぞき込むようにして、声をかけ、その声のおかげで自分の心が自分の身体に戻っていることに、鈴木医師は気がついた。
鈴木医師は頭を上げ、瞳の焦点を若い車掌の顔に合わせて、声をだした。
「あ…すみません、起こしていただいて…」
鈴木医師の様子に、どこか不自然な雰囲気があったのだろう、車掌は、
「お客さん、大丈夫ですか?具合が悪いんじゃないですか?」
と、心配して尋ねた。
鈴木医師は、疲れていて眠ってしまっただけです、途中の駅で降りなければいけなかったのですが、と話すと、車掌は、まだ不審そうな表情で、そうですか、この電車は折り返し運転なので、あと25分もすれば始発駅へ向けて発車しますから、戻るならそのまま座っていればいいですよ、と言い、次の車両へと歩き去った。
ひとり、ぽつんと残された鈴木医師は、自分の身体に自分の心が戻って来れたことに、ホッとしながらも、これは困った能力が目覚めてしまったと考えた。
すでに、精神科医として患者の心に接するにあたり、他の医師にはない能力が自分にはあるようだと気づいてはいたが、今回、発動した能力は、人の考え感情をダイレクトに知るには良いが、自分で自分の身体に戻ることをコントロールできないのなら、この能力が、うっかり発動しないように、意識して生きなければならない……
~~~
これが、鈴木医師が「あの方法」と呼ぶ能力を患者に使ってこなかった理由だ。
しかし、今回の患者である、琴音さんとは、言葉はもちろん、表情や動作でもコミュニケーションがとれそうにない。
今回ばかりは「あの方法」を使うしかないと、鈴木医師は決心した。あの時は、車掌の呼び声で、自分の身体に戻ることができた。今回も同じ状況を作っておけばなんとかなるだろう。
鈴木医師は女性の看護師を呼んだ。
「佐藤さん、こっちに来て。」
廊下でつながってはいるが、診察室の隣の部屋で、待機していた佐藤看護師が、きびきびと歩いて、鈴木医師のそばまで来た。
「これから30分間、私と谷口琴音さんだけの時間を持ちたい。30分後、私は気を失っていると思うから、私の耳元で大声で呼んで起こしてほしい。」
佐藤看護師は、えっ、と驚きの表情を浮かべたが、過去にも鈴木医師が、なんらかの超常的な能力を使って診療するのを見たことがある。今回もその類だろう。
「わかりました。では30分間、私は隣の部屋にいて、30分後に来ればよいですね。」
鈴木医師は、深くうなずいた。それから琴音さんのお母さんのほうへ向かい、
「お母さんも30分間、待合室のほうでお待ちいただけますか。30分後に、ふたたびお話しをします。」
琴音さんのお母さんは、少し心配そうな顔をしたが、鈴木医師の、大丈夫ですよという意味を含んだ、ほほえみを見て、椅子から立ち上がり、待合室へのドアのむこうに消えた。佐藤看護師も、隣の部屋へと消えた。
鈴木医師と琴音さんは、一対一で向かい合った。琴音さんは、あいかわらず視線を自分の両手に落としている。
鈴木医師は琴音さんの眉間のあたりを見つめ、琴音さんの頭の中へ飛び込む自分をイメージした。
ソレッ、と心の中でかけた掛け声とともに、琴音さんの頭へ跳躍する意識をしたとたん、世界のすべてが、変化した。
~~~
よろいかぶとを身につけた、武士の背中を一心に目つめて、そのあとを追い、歩いている。
山のなかの道なき斜面。時折、武士が刀を抜いて、木の枝を切り払い、登れる空間をつくる。
武士の背中には、布に巻かれた赤ん坊がくくりつけられ、布からはみ出した手足が、武士の歩みとともに、ぶらぶらと頼りなく揺れている。
(この子だけは…宝寿丸(ほうじゅまる)だけは、なんとしても生きのびさせる…)
母としての強い決意が、心の底から煮えたぎる。その思いだけが、自分を動かしている。
(城はもう敵の手に落ちたのだろうか…夫はどうなっただろうか…)
城に思いを馳せたとたん、集中力が途切れたのか、踏み込んだ足が滑って転倒し、斜面をザザザッと少し転がり落ちた。
立ち上がろうとしたが、長時間歩いた疲労のせいで動けなくなった。
「奥方様っ!」
武士が振り向き、斜面を戻って、そばまで来た。
「わたしにかまってはならぬ!宝寿丸をはよう龍泉寺へ!」
「しかし…」
武士は、奥方様を放ってはおけないと、ちゅうちょしている。
「龍泉寺にさえたどり着ければ、住職が宝寿丸をさらに安全なところへ移す手はずを約束してくださっている。そなたははよう行け。わたしも少し休んで、そなたの後を追う。」
「わかりました。奥方様、どうかご無事で!」
武士はきびすを返すと、今までにも増して大股に山を登っていった。
武士の姿が木々の緑に隠れて見えなくなった頃、山すそのほうから、別の男の声が聞こえてきた。
「草鞋(わらじ)が片方落ちている!付いている土は、まだ新しいぞ!」
別の声が応える。
「松姫が履いていたものかもしれん。城内のどこを探しても、松姫と宝寿丸はいなかった。城を抜け出して、逃げているに違いない。」
山中に横たわっている松姫は、首をもたげて、恐る恐る自分の足元を見た。右足の草鞋が脱げ、足袋だけになっている。山中を歩くのに精いっぱいで、草鞋が脱げたことに気がついていなかった。
敵兵が、自分と宝寿丸とを探している。このままでは見つかってしまうだろう。この身はともかくも、宝寿丸だけは逃げのびさせなければ。
松姫は自分に敵兵の注意を集めさせれば、宝寿丸を背負った味方の兵が、逃げる時間をかせげると考えた。
松姫は気力を振り絞って立ち上がり、山の斜面を横切る方向へと歩き始めた。
木の根を踏み越え、草をかき分け、わざと敵兵の目に止まる方向へと歩く。
「あっ!見えたぞ!」
「松姫だ!」
「追え!」
思いどおりに敵兵が追ってくる。しかし、この時、松姫は自分の身の終わりを、すでに決めていた。
このまま歩めば、滝の上に出る。まだ戦(いくさ)が始まっていなかった頃、侍女達と一緒に花見に来たことがあるので、滝の場所は知っている。
(敵兵なんぞに捕まるものか!宝寿丸の行き先は誰にも言わぬ!)
松姫の強固な意思が、疲労困憊(ひろうこんぱい)している身体を、奇跡のように素早く動かしている。敵兵は思ったようには追いつけない。
「逃がすな!」
敵兵も必死で追いつこうとする。しかし、敵兵はこの地に詳しくはない。
「この先は滝だ!」
水がゴウゴウと流れ落ちる音に、敵兵が気づいた時、松姫はすでに滝の上の岩場にたどり着いていた。
「あっ!」「ああっ!」
鮮やかな緑色の着物が宙を舞い、松姫が滝に身を投げた姿を敵兵たちは見た!
松姫は、自分の身体が風を切って落ちてゆき、青黒い滝壺が迫ってくるのを感じながら、歯をくいしばり、最後の瞬間まで念じた。
(宝寿丸の行き先は誰にも言わぬ!)
そして、世界は真っ暗になった……
~~~
「……先生!鈴木先生!起きてください!
お!き!て!く!だ!さ!い!」
佐藤看護師の声が聞こえる……
鈴木医師は、頭をブルッと震わせながら、意識を取り戻した。
すぐそばに、佐藤看護師の心配そうな顔がある。
鈴木医師は自分の手のひらで、自分の頬をピシャピシャとたたいて、感覚が戻っているか確かめた。
佐藤さんありがとう、と言いながら、目の前に焦点を合わせると、琴音さんがあいかわらず行儀よく座っている。
この少女の頭の中に、さきほど体験した、松姫としての壮絶な記憶がおさまっているのだ。
鈴木医師の頭に、ひとつの言葉が浮かんだ。
「前世療法」。
症状の原因を、その人の前世にまで遡って求める療法で、アメリカやヨーロッパではかなり行われているらしく、医師による症例も読んだことがあるが、日本の医学界では認められていない。
松姫が死に際においても誓った言葉、
「宝寿丸の行き先は誰にも言わぬ!」
という強固な意思が、現在の琴音さんの緘黙症の症状につながっているのかもしれない。
鈴木医師は、佐藤看護師に指示して、琴音さんのお母さんを、診察室に呼び入れてもらった。
琴音さんのとなりの椅子に座ったお母さんに向かって、
「琴音さんの緘黙症の、原因につながる手がかりがわかったかもしれません。」
と、話し始めた。
琴音さんのお母さんの目が、大きく見開かれた。おそらく、これまでかかったどの医師からも、聞かされたことがない言葉だったのだろう。
「私がどのようにして、手がかりにたどり着いたのか、それが具体的に何なのか、は、今の段階では申し上げることができません。手がかりから信頼できる事実が得られるまで、調査が必要です。」
「お母さんのお気持ちとしては、まどろっこしいと思われるでしょうが、しばらく調査の日にちをください。事実がはっきりしましたら、あらためて、私からご連絡しますから、再びご来院いただけますか?」
琴音さんのお母さんは、目を見開いたまま、こくり、と深くうなずいた。
~~~
鈴木医師は自宅のノートパソコンの、検索窓に「龍泉寺」と入れて、検索をかけた。
出てきた結果は、あるわあるわ全国各地の龍泉寺が、ずらずらずらりと並んでいる。
これでは特定できないな、と思った鈴木医師は今度は「龍泉寺 近くに滝」と入れて検索をかけた。
これで数件までヒットは減った。それでもこの中のどれが、松姫が言っていた龍泉寺か特定せねばならない。寺の名前は長い歴史の中で変わることもあるから、松姫の時代から寺名が変わったり、廃寺になっていないことを祈るしかない。
滝の写真が、いくつか表示されている。その中にこういう名前の滝があった。
「姫壺滝(ひめつぼだき)」
長野県O市にある滝である。
他の滝には松姫とつながりがありそうな名前の滝はない。鈴木医師はこの滝を第一候補として調べることにした。
O市観光協会のホームページを開いて読む。
「姫壺滝のいわれ」の項目があり、このように紹介されていた。
『室町時代末期から戦国時代初期にかけ、ここO市を含む周辺地域は野田氏一族の領地でした。1535年、三代目、野田嘉高(のだよしたか)の時代、かねてより、鉄鉱石の産地を含む、野田氏の領地を手中にせんとうかがっていた、隣接する河内氏が戦国大名の後ろ盾を得て、領地に攻め込みました。一年半あまりの攻防の末、河内氏によって野田氏の本拠地であった加山城まで攻め込まれ、城は落城しました。その戦で野田嘉高は討ち死にしましたが、野田嘉高と正室の松姫との間に生まれていた男の赤子、宝寿丸は野田嘉高の家来に託され、松姫と共に、加山城を抜け出しました。逃走の途中、河内方の兵に追いつかれそうになり、宝寿丸を託した家来を逃げのびさせるために、松姫がおとりとなって河内の兵の注意を引き付け、追い詰められた松姫が身を投げて自害したのが、この滝です。この悲劇の後、姫が滝壺に身を投げたことから、誰からともなく、この滝は「姫壺滝」と呼ばれるようになりました。現在は遊歩道が整備され、春の桜、夏の新緑、秋の紅葉、冬の雪景色、と四季を通じて楽しめる場所ですが、松姫に思いをはせて見ていただくと、また違うおもむきを感じていただけるところです。』
と掲載されていた。
まさに、琴音さんの頭の中で、鈴木医師が松姫の視点になって経験した記憶とぴったりだ!
続いて、宝寿丸のその後についての情報がないか探してみた。
龍泉寺のホームページはなかったが、地元の郷土史家の人が、地域の歴史について書いている連載ブログが見つかった。
ブログの「龍泉寺と宝寿丸」の回に、宝寿丸のエピソードが書かれていた。龍泉寺にあずけられた宝寿丸は、そこからさらに、子だくさんの農家にあずけられ、農家の末っ子として、名前を「弥助(やすけ)」と呼ばれて育てられた。
弥助は、すくすくと育ったが、十歳を過ぎた頃、弥助の出自を知る周囲の大人から、あなたは野田嘉高と松姫の子どもと聞かされた。思い悩んだ弥助は、亡き父母の菩提(ぼだい:死後の平安)を弔いたいと、出家して僧となった。
九死に一生(きゅうしにいっしょう)を得たみずからの運命から、僧一生(そういっせい)と名乗り、いくつかの寺で修行を積んだ後、龍泉寺に帰って来て、六十歳から七十二歳で没するまで住職を務めた。また、手先が器用な人だったらしく、母、松姫への思いを込めて彫ったという聖観音菩薩像(しょうかんのんぼさつぞう)が残されている。
松姫への思いを込めた証拠として、聖観音菩薩は一般的には左手に、蓮華の花を持っているが、この聖観音は松の若木を持っている。
毎年3月27日の、松姫の命日には、仏像のご開帳と法要が、今でも行われているということだ。
輪廻転生(りんねてんせい)。
人は生まれ変わり、死に変わりしながら永遠の魂を生きる、という仏教用語だが、現在ではファンタジー小説などでも使われている。
鈴木医師は、個人的には輪廻転生を否定してはいなかったが、自分の患者で、ここまではっきりと、記録や文物が残っているケースは初めてだった。
琴音さんはおそらく、松姫としての最後の意識、「宝寿丸の行き先は誰にも言わぬ!」という強固な決意で、心ががんじがらめにしばられており、谷口琴音として生まれ変わっても、信用のおけない他人とは話さない、という状態になっているのだろう。
その、琴音さんの心をしばっている鎖をといてあげるのが、精神科医としての自分の
役目だ。そのためには、まず、宝寿丸が無事に生き延びて、晩年は龍泉寺の住職として長生きし、松姫をしのんで彫った「聖観音菩薩像」を残していることを、知らせてあげれば、鎖がとけてくるかもしれない。
蓮華の花の変わりに、松の若木を持っているという聖観音菩薩像を見せて、これは、宝寿丸が彫ったものなのだよ、と伝えてあげたいが、3月27日のご開帳まで待ってはいられない。琴音さんが中学生になってしまう。
鈴木医師はO市観光協会に電話をかけ、
「龍泉寺にある聖観音菩薩像に興味があるのですが、写真に撮られたものはありませんか?」
と、聞いてみた。
すると、観光協会職員は、
「観光協会のほうには、写真資料はないのですが、O市教育委員会が『O市の文化財』という写真集を作っていて、その中に、龍泉寺の聖観音菩薩像も掲載されているので、教育委員会のほうに問い合わせてみられてはどうですか?」
と言われ、教育委員会の電話番号を教えてくれた。
そこで鈴木医師は、今度はO市教育委員会に電話をかけた。「O市の文化財」の写真集が見たいのですが、販売はされていますか?
と聞くと、教育委員会まで来られますか?
と聞かれ、行かれないので送ってもらえませんか?送料は私が負担します、とたのむと、熱意が伝わったらしく、送料込み郵便局後払いで一冊送ってもらえることになった。
届いた写真集の「龍泉寺の聖観音菩薩像」のページを見ると、不思議なことに、像の顔の雰囲気が、琴音さんに似ている。おとなしくて、やさしいけれども、決心したら頑固なほどにひるがえさない、という性格が、像の目元や口元に現れているのだった。
~~~
琴音さんとお母さんが再び診察室を訪れたのは、初診日から二週間あまり後だった。
初診の日と同じように、椅子に座ると彫像のように動かなくなる琴音さん。
緘黙症の解決の糸口を話してもらえると、期待しているお母さん。
鈴木医師は、「O市の文化財」の「龍泉寺の聖観音菩薩像」のページを開いて、琴音さんに見えるように置いた。
「この仏像は、宝寿丸、のちに一生と名乗るお坊さんになった、あなたの息子が、あなたへの愛情を込めて彫った像です。像の左手を見てごらんなさい。あなたの名前、松姫のとおり、小さい松の木を持っているでしょう。」
宝寿丸、松姫、という名前を聞いて、琴音さんの表情が変わった。まぶたが急に上がってまばたきが多くなり、くちびるは震えはじめた。
そして、両手を伸ばして写真集を手に取ると、顔に近づけて、よくよく見始めた。
「これは……」
(これはどういうことですか?)
と、鈴木医師に聞こうとする、お母さんに向かって、鈴木医師は、人差し指を立てて自分のくちびるに当て、今は黙って琴音さんに任せて、と合図した。
納得するまで写真を見た琴音さんは、顔を上げ、鈴木医師をまっすぐに見て、小さな震える声ではあるが、こう聞いた。
「私と別れたあと…宝寿丸はどうなりましたか…?」
鈴木医師は答えた。
「あなたが信頼していた龍泉寺の住職に無事とどけられました。そこから子だくさんの農家にあずけられ、その家の末っ子として弥助という名前で育てられました。十歳をこえた頃、周りの大人の誰かから、あなたの本当の両親は、野田嘉高と正室の松姫だと教えられたようです。弥助は悩んだようですが、両親を弔いたいと僧侶になりました。松姫のおかげで、九死に一生を得た
ことから、僧としての名前を「一生(いっせい)」と名乗りました。各地の寺で修行をした後、六十歳で龍泉寺の住職になり七十二歳まで生きました。当時としてはたいへんな長生きですよ。あなたが守った宝寿丸は立派に僧侶としての人生をまっとうしました。」
琴音さんは、鈴木医師の話を聞き終わった後、もう一度、聖観音菩薩像の写真に目を戻し、写真集を抱きしめるようにしながら、
「宝寿丸、宝寿丸、よかった…父、母亡きあとも、立派に生きてくれた…わたしのために仏像を作ってくれた…わたしはうれしい…」
そう言って、ポツリポツリと涙をこぼしはじめた。
その様子を、鈴木医師は温かな気持ちで、琴音さんのお母さんは驚きながら、しばらく見守っていたが、鈴木医師はお母さんに、琴音さんの心に起こっていることを話しておかなければと思い、佐藤看護師を呼んで、琴音さんだけ隣の部屋へ行って休んでいてもらうように、と指示した。
琴音さんが右手を佐藤看護師に引かれ、左手で写真集を胸に抱えて、隣室に消えた後、鈴木医師は、お母さんのほうへ向き直り、今、琴音さんの心の中で起こっていることの説明を始めた。
初診の時、30分間、琴音さんと私の二人で過ごさせてもらった時、私なりの方法で、琴音さんの頭の中に刻まれ、他人に言葉を発することをさえぎっている原因になっている記憶を、知ることができたこと。
それは戦国時代に、戦に敗れた城主の奥方が、まだ赤ん坊の男の子と家来と共に、落ちのびてゆく時の記憶で、男の子は宝寿丸、奥方は松姫という名前だったこと。
山中を歩き登るのに、力尽きた松姫が、宝寿丸を背負った家来を、落ちのびる先と決めていた龍泉寺へ、自分にかまわず早く行かせたこと。
敵兵が追って来た声が聞こえ、宝寿丸を逃げさせる時間をかせごうとした松姫は、敵兵のおとりとなって、家来が進んだほうとは違う方角へ、ひとり、なんとか歩いてゆき、敵兵を自分に引き付けたこと。
しかし、松姫が進んで行った先は、断崖絶壁の滝になっており、すでに覚悟のできていた松姫は、滝に身を投げて、自害したこと。
(松姫の自害について話した時、お母さんは感情が乱れて声を上げそうになり、おもわず両手で自分の口をふさいだ。)
そのことの後、その滝は「姫壺滝」と呼ばれるようになり、現在も、長野県O市の観光名所として知られていること。
この松姫としての記憶が、琴音さんの記憶としてあるということは、琴音さんは前世、松姫として生きており、松姫が滝に身を投げた最期の時まで念じていた、「宝寿丸の行き先は誰にも言わぬ」という強い思いが、現世の琴音さんの心を、いまだにしばっており、「他人に心をゆるして話してはいけない」という緘黙症の症状として現れていたこと。
琴音さんの心をしばっている鎖をとくには、宝寿丸がどうなったのか調べて伝える必要があると考え、ネットで調べたところ、さきほど琴音さんに話した情報を、O市の郷土史家の人がブログに書いており、宝寿丸であり、後の僧一生が、松姫をしのんで彫った聖観音菩薩像が龍泉寺に残されている、ということがわかったので、「O市の文化財」の写真集を取り寄せ、見せてあげることができたこと。
宝寿丸が無事に逃げており、僧侶として生涯を立派に送ったことを知った、今の琴音さんは、松姫の時にしばってしまった心の鎖がほどけているので、今後は他人とも話せるようになるのではないかと、医師として見立てていること。
鈴木医師がおこなった一連のことは、症状の原因を、その人の前世に求めて治療する「前世療法」と呼ばれるもので、日本では公にされている例はないが、アメリカやヨーロッパでは、医師が行うこともある治療法であることを、琴音さんのお母さんに話した。
お母さんは、初めての内容を一度に聞かされたので、とまどっている様子だったが、やがて、佐藤看護師といっしょに隣室から戻って来た琴音さんを見て、すべて良くなったのだと一瞬でわかった。
こちらに近づいて来る琴音さんは、もう視線が下を向いてはおらず、まっすぐに顔を上げ、ほほえみを浮かべていた。
琴音さんは、椅子に腰掛けている鈴木医師のそばまでゆくと、はっきりした声で、
「鈴木先生、ありがとうございました。わたしは鈴木先生のおかげで、これからは人と話してもだいじょうぶな気持ちになってきました。」
と言い、一礼した。
今度は、お母さんが感動して泣き出した。お母さんは立ち上がって、琴音さんを抱き寄せると、頬をつたって流れる涙を、自分の手の甲でぬぐった。琴音さんはニコニコしながら、その顔を見上げていた。
この先も、何かあれば、遠慮なくメールをくださいということと、「O市の文化財」の写真集は琴音さんにプレゼントします、と、鈴木医師は二人に伝え、琴音さんとお母さんが寄り添って、診察室から出てゆくのを、見送った。
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その日の診察がすべて終わり、白衣を脱いでハンガーに掛けながら、鈴木医師はふと思った。
(琴音さんの前世を知ることはできたけれど、自分自身の前世は、どうすれば知ることができるのだろう?知りたいと思っていれば、いつかわかるのだろうか?それとも琴音さんを自分が診たように、自分も誰かに診てもらわなければ、わからないのかな?)
少し考えた後、鈴木医師は、
(優先すべきは自分のことより患者のこと。患者が良ければ、すべて良し。)
と思って診察室を後にした。
無人となった診察室は、窓から入るオレンジ色の夕日で満たされて、今日もこの部屋で繰り広げられた悲喜こもごもを、静かに包み込み、新しい明日を待っているかのようだった。
(了)
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