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第11話 怨色反応

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 声を掛けると、彼は顔を上げた。少年の顎から一つ、透明な涙が、流れる星のように滴った。

 まるで絵画のような光景だった。あたしは思わず息を呑んだ。

 継児は静かに泣いていた。中心の赤い木槿むくげの花のように、白い顔の中でぽつんと紅に染まった小さな鼻先。きつく噛み締められた唇。濡れた睫毛は下瞼に貼り付いて、潤んだ目が余計に大きく見える。黒い双眼はあたしの姿を捉えて視線を揺らがせた。

 扉を隔てて聞こえる賑々しい教室のお喋りに対して、人気のない暗い廊下を満たす息苦しい無音。我に返ったあたしは、どうにかして頭を巡らせる。

 素っ気ない態度から判断して、継児に求められない限り、自分からは干渉しないと決めたばかりだ。現状についても見なかった振りをした方がいいのか? 一方的に励ましたところで、それは慰めにはならないかもしれない。

 そんなことを考えて躊躇していたが、少年がすん、と鼻を啜ったのが聞こえて、あたしは腹を括った。だからって、放っておくわけにいかないだろ。

「あのさあ」

 あたしが一歩踏み出すと、継児は警戒心を露わに肩をびくつかせた。取って食いやしないから、そんなに怖がらないでほしい。自分の見た目がもっと柔和だったら、こんなとき安心感を与えられたかもしれないのに、と内心で託った。

 壁に背中を預け、隣で腕組みをする。威圧感を与えないように、敢えて顔は合わせない。

「昔、給食にフルーツポンチが出たんだよ。美味いよな、あれ。勿論人気のメニューだった」

 デカい強面が前触れもなくフルーツポンチについて語り始めたことに、視界の端で相手が動揺している気配を察知する。あたしはなるべく恍けた顔を保ちつつ続けた。

「で、あたしはその日の当番だったんだが、運んでる途中に手を放して、それを全部溢しちまった。デザートは台無し。辺りはシロップでべとべと、クラスでは断罪されてボコボコ、かと思ったけど、そうはならなくって」

 あたしは当時を思い返しながら顔を上げた。吊し上げに遭うことも覚悟したが、よく許してもらえたものだ。

「お目溢しいただけた理由は、多かれ少なかれ失敗しない人間なんていないから、だってさ。本当、あのときは肝が冷えたぜ。つまり何が言いたいかっていうと……ま、凡ミスは誰にでもあるよなってこと。あとで挽回すればいいんだから」

 ノープランで始めたので、話が纏まらなかったかもしれないが、とにかく気に病まないでほしいと伝えたかった。大丈夫、泣くほどショックを受けなくていい。継児が熱を吐き出すようにゆっくりと呼吸し、涙ぐみながら尋ねてくる。

「……怒ってないんですか?」

「この程度で? 刺されでもしなくちゃ、トラブルになんないね。しかもさっきの、あたしが自分からぶつかりに行ったようなもんだし。それで腹立ててたら当たり屋じゃねえか」

 あたしは髪を耳の後ろに掻き上げて、彼の台詞を強気に笑い飛ばした。着ているのが体操服のTシャツに制服のスカートというちぐはぐな組み合わせで、手には湿った給食着とセーラーを抱えている分、全く格好は付かないが、それは仕方ない。

 落ち着いてきたのだろうか、話している内に継児の押し殺したような泣き声がふっつりと止んだ。刺激しないよう、なるべく優しく囁く。

「スープはそこそこ残ってたし、クラスの奴らだって気にしてねえよ。ほら、戻って飯食おうぜ。あ、その前に顔を洗って来るか?」

「――――い」

 提案しながらポケットを探り、ティッシュを取り出そうとしていると、木の葉が擦れるような呟きが聞こえた。俯いた少年の声はよく聞き取れない。あたしが振り向いたのと、彼がヒステリックに叫んだのが同時だった。

「うるさいッ!!!」

「え?」

 そうして最初に視界に飛び込んできたのは、あまりにも深い臙脂色。少年の瞳の奥から湧き出しているのは、マグマのようにぎらつく赤い激情だった。間抜けにぽかんと口を開けたあたしを尻目に、継児は拳を握りしめ、罵倒するように号哭した。

「うるさいうるさいうるさいッ! 他の人達が怒んないのなんか当然だろ! んだから! おかしいのはあなただ! どうして! どうして……」

 引き攣ったボーイソプラノが次第に勢いをなくし、やがて途絶える。口を引き結んだ継児が爪先立ちをして、呆然としていたあたしの両肩をぐっと掴んで引き寄せた。布越しに、十本の指の柔らかく脆い感触がする。全力だとしたら酷く弱い力で、少しでも抵抗したら折れてしまいそうな指だった。
 
 そうして陥ったのは、恋人たちが正面から見つめ合う、或いは宿敵同士のいがみ合うような構図。こちらがその意図を問い質すより前に、彼は悍ましいものと出会しでもしたかのように、涙の跡の残る美しい顔を歪めた。

「僕に優しくできるんですか?」

 吐き捨てられたと同時に、瞳孔の開き切った、赤黒い増悪の瞳で一際強く見つめられる。眼窩に激痛が走り、すぐさま全身に広がった。目が痛い、頭が痛い、心臓が、肺が、手足が、内臓が、全部が苦しい!

 なぜ? 痛みに薄れていく意識の中で、あたしは気づいた。肉体と精神を侵食されているのだ。角膜、水晶体、硝子体、視神経を突き抜けて、継児はあたしの脳味噌に入り込もうとしている。心臓を握り潰そうとしている。肺に穴を開けようとしている。血管をぶつ切りにして、五臓六腑を切り刻もうとしている。

 ――――こいつはあたしの魂を奪って、支配しようとしている。

 直感的にそう理解した途端に、あたしは彼を突き飛ばした。少年の手は簡単に剥がれた。彼は呆気なく後ろに倒れ、子どものように尻餅をつく。貧血になったときみたいに黒く狭まっていた視界は急速に元に戻り、あたしは呼吸を荒らげながら後退りした。

「お前、今、何をした」

 目の前にいる得体の知れない生き物は、とてもか弱く、くにゃくにゃと力をなくして床に手をついていた。先程の苛烈な本性は鳴りを潜め、うっかり同情してしまいそうになるほど儚い。少年は舞台の上の悲劇役者のごとく、世界で一番悲しそうに独白した。

「やっぱり駄目でしたね」

 恨みがましくそう口にして、それきり少年は瞼を閉じた。気を失ってしまったようだった。

「は……?」

 曇った蛍光灯がちかちかと点滅し、混乱して立ち尽すあたしを照らしていた。
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