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第16話 母娘

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 放課後、先生に言われた通り、ジャージに着替えて家路に就いた。正也と瑠璃華とは通学路が真反対なので、帰りたくない、塾に行きたくないと駄々を捏ねていた彼らとは校門で手を振って別れる。庶民のあたしと違って、二人が住んでいるのは近辺では高級住宅街で鳴らしている地区なのだ。羨ましいものである。

 まあ、小ぢんまりとしたアパートであっても我が家は我が家、快適に暮らせるかどうかは毎日の家事次第だ。あたしは帰宅してすぐ、洗濯機に汚れた服を放り込んで電源を入れた。じゃぶじゃぶいう水音と唸るような振動音とを背景に、さっと洗濯物を取り込み、晩御飯の分の米を研いで炊飯器にセットする。

 それはそれとして空腹だったから、冷凍ご飯を温めてお茶漬けを啜った。例の件で、給食にありつけなかったからだ。

 そんなことを一度思い出したら、今日の出来事が紙輪飾りのように繋がって浮かび上がってきた。謎ばかりの転校生、理由の見えない彼の敵意と、心理戦のような一時。それにあの作り物めいた美貌の「父親」。

 この先絶対に揉めごとが起こりそうな予感がした。卒業まで継児と同じクラスで過ごすことを想定すると気が重くなる。何か誤解されているなら正したいし、無理ならせめて当たり障りのない関係になりたいが。

 あたしは椅子にだらしなく寄りかかりながら窓の方に視線をやった。レースカーテンを透かして、夕陽が部屋に差し込んでいる。毒々しい赤さにあたしは目を瞑ったが、紅色は瞼の裏まで入り込んできて逃げられなかった。

 家事を済ませて腹拵えをしたら復習をしようと思っていたが、集中できなくて困る。あたしは一端勉強するのを諦めて、母さんと約束していた通り夕飯の支度を始めた。

 春キャベツの味噌汁と、カレー粉で味つけした玉子焼きは家の定番メニューだ。冷蔵庫の中に入っていた小間切れ肉と野菜を適当に炒め物にする。オイスターソースのこってりと濃厚な匂いが漂った。

 鍵を回す音がして、玄関の扉が開いた。母さんが帰ってきたようだ。

「ただいま。いい匂いだー」

「おかえり。今日は早いね」

 あたしが返事をしながら肉野菜炒めをフライパンから皿に移していると、洗面所で手を洗った母さんが部屋に入ってきた。

「幸、何か追加で洗濯したの? あ、お茶漬け食べてる」

「……ちょっと口寂しくて。給食着は、汚したから持って帰ってきた」

 流しに放置していた丼茶碗を母さんが指差す。起こったことを打ち明けるべきか逡巡した末、あたしは決心がつかずに誤魔化した。胸の辺りがちくりと痛んだ。

「そうなの? 育ち盛りだもんねえ」

 母さんはそう言って荷物を下ろし、スーツを着替えに行った。帰ってきて早速起動したのか、卓袱台に置かれたスマートフォンの画面には、今朝方ダウンロードしていたゲームが映し出されている。暗い色の肌をした二次元の美少年が吹き出しで語っていた。

『僕から離れないでくださいね、あなたは目を離すとすぐいなくなるんですから。ぼんやりしていて、道端で眼球を引き抜かれても知りませんよ?』

 顔面に肘鉄を食らわせるかのごときツン発言ばかりかと思えば、こういう風に好意を仄めかすような台詞もランダムで出てくるらしい。

 それにしても、路上で両目を持っていかれるとは穏やかでない世界観である。目抜き通りがそのままの意味で出てくるストーリーがどういうものなのかさっぱり分からない。

 ゲームの不穏当な台詞に首を捻っていると、寛いだルームウェア姿の母さんが後ろからいそいそとやって来て、楽しそうにあたしの肩に手を置いた。

「やっぱり最高に格好いいよね、引き抜きくん! 幸も気になるでしょ!?」

「うん。主に名前が」

 あまりに物騒なキャラクターの渾名に、あたしは真顔で言った。通勤時間中に物語を駆け抜けた母さんの説明によると、魔法使いが異能力バトルする世界において、この少年の仕事は巨大なペンチで的外れな場所にめり込んだ魔法を引っこ抜く後処理係。割り当てられたジョブのせいか何でもかんでも道具を使って引き抜こうとするため、ファンからは親しみを込めて「引き抜きくん」呼ばわりされているそうな。

「盛大に何も分からねえ」

「とにかくストーリーが熱いんだよ! ネタバレいい!? いいよね! 引き抜きくんはちょっぴり苛烈で、出会ったときは『こんな底辺スキルで何が成せると? ……ああ、この道具も、あなたの脊椎を引き抜くには丁度いいかもしれません』って自棄っぱちなの」

「のっけから怖すぎる」

 少年の口調を真似し、感想を捲し立てる母さん。あたし自身はゲームをプレイする予定がないので、内容を知ることに問題はない。むしろ問題があるのはストーリーそのものではないだろうか。そのキャラクターに比べれば、あたしの方が千倍物腰が柔らかい気がする。

「……でも、主人公との交流を通して、自分の仕事に真剣に向き合うようになるの。秘めていた才能を開花させて、周囲に認められた引き抜きくんが有名ギルドに引き抜かれたスカウトされたときは電車で泣きそうになっちゃった」

 話が長くなりそうだったので、あたしは夕飯のために布巾で卓袱台を拭き始めた。さっきお茶漬けを食べたばかりだが、普通に食欲はある。母さんも皿や箸を取り出して一緒に食事の準備をするが、喋り出したオタクは急には止まれない。

「まず、己以外を恨み呪い、背骨という背骨を奪おうとする鬱屈した初期の引き抜きくんから素敵じゃない?」 

 そんなおっかない同意を求められても困る。あたしは炊飯器の蓋を開けて白米をほぐしながら、質問に質問で返した。

「母さんご飯どれくらい食べる?」

「大盛りで! 更にそのあと、主人公に仕事道具を大事にするよう諭されて、ばつが悪そうにするところに根っこの優しさが見えるし!」

 鍋の味噌汁と卵焼きを手際よく分けつつ、母さんは熱弁を振るい続けた。

「最終的に和解した二人は、ずっと手入れしてなかった工具を磨くんだけど、丁寧に錆を落として魔法の油を差したことにより、その真の力が覚醒!」

「すごい話だな」

 予想だにできない展開に、冷蔵庫からお茶を取り出そうとした手を一瞬止めてしまった。クリエイターは果たして何を考えていたんだろう。

「白銀に煌めくクソデカペンチの刃、不敵に笑う引き抜きくん。魔物の心臓を一気に引き抜くシーンのスチルには滾ったよ」

「怖いわ」

 食卓につくと、母さんは興奮状態のまま「いただきます!」と元気いっぱいに手を合わせた。あたしもいただきますをして、おかずに箸をつける。

「これ美味しい! 幸って天才じゃない? 星五つじゃ足りない……見上げれば満天の星……夜を明るく照らす豆もやし」

「いや、ネットに載ってたレシピだから」

 J-POPの歌詞みたいに肉野菜炒めを褒めちぎられたが、オタクモードの母さんの語彙はインフレ傾向にあるので、あくまで参考に留めておく。

 そうしてある程度腹を満たすと、母さんのテンションはややクールダウンしていった。正確には、しみじみと推しキャラのよさを噛み締めるフェーズに入った。

「はあ……引き抜きくん……いい……沼……」

 そこまで好みの登場人物がいたなら、さぞかし楽しかろう。あたしは啜っていた味噌汁を飲み込んで尋ねた。

「そんなに気に入ったってことは、また二次小説書くの? 前は大木の精霊に転生したら切り倒されて推しの家の柱となっちゃった云々、みたいな話だったけど」

「是非ともペンチになりたい所存だね」
 
 母さんは童顔に似合わずきりりとした表情で言い切った。彼女は美少年キャラクターに対してきゃあきゃあ言う割に、書くのは大抵が無機物として推しやその家族に寄り添い一生を終えるまでを見守るビターな後味のファンフィクションで、オタクとは何者なのか、母さんが推しに抱いている感情はどういうものなのか、あたしは未だに掴みかねている。なぜか名前変換機能は標準装備だし。

「この前みたいに十万字超えるなら、記念に本にしてみたら?」

「うーん、それは別にいいかな。文字にしただけで満足してるもん。それに、暫く長い文章は書かないつもり。どうしても時間を取られちゃうから……ごちそうさま」

 あたしは提案したが、母さんは首を横に振り、食器を持ってさっと立ち上がった。

「さて、お風呂洗ってこようっと」

「それならあたしが」

「幸は座ってて。お皿も私が片すから、流しに置いといてね」

 引き留めようとすると、笑って断られる。先程までと違って落ち着いた様子で、母さんは続けた。

「これまで夕方の家事は幸にしてもらってたけど、そろそろ受験勉強に専念しなくちゃでしょ? 私もできるだけ早く帰って来るようにするから」

「時間……もしかしてシフト減らすの?」 

 その言葉に、あたしはおずおずと聞いた。母さんがさらりと「代わりに出勤の日数を増やそうと思って」と口にするのに、慌てて反論する。

「そんなの大変じゃん。いいよ、家事には慣れてる」

「幸には行きたい学校があるんでしょう? そのためには大事なことだよ。これから放課後は学習塾とかに通うかもしれないし。心配はご無用!」

 母さんは下手くそなウインクをして、人差し指をぴんと立ててみせた。なるほど威勢はいいが、納得はできない。

「塾なんて……」

 言いかけたところで、母さんがぎゅっとあたしの身体を抱き締めた。細い腕が背中に回り、体温が確かに伝わってくる。

「遠慮なんかしないで。朝も言ったけどね、私は幸には行きたいところに行って、やりたいことをしてほしいの。あなたに世界一幸せになってほしい」

 母さんがぱっと顔を上げた。にっこりと笑っていた。

「そのためならお母さん、何だってへっちゃらなんだから」

 じん、と胸の内が熱くなった。あたしは母さんを抱き締め返して、小柄な彼女の髪に頬擦りをした。

「うん……うん。ありがとう。勉強、頑張るね」

 腕を離すと、ふふふ、と照れ臭そうな笑い声を上げて、母さんは妖精のように風呂場へ駆けていった。あたしはリュックサックから数学の教科書と、今日返却されたテストを取り出した。俄然やる気になったのだった。
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