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第18話 泣き所

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「もしかしてこれ、お決まりの流れになってないか?」

 あたしは思わず口に出してぼやいた。ただ、皆がトンチキペーパーレスリングを野次りながら観戦していた昨日よりは大分静かだ。

 近づくと輪の中心にいるのが誰なのかはすぐ明らかになった。インタビューを受ける芸能人のようにクラスメイトに取り巻かれて談笑していたのは、花の顔の美少年。

 今朝の継児においてはご機嫌麗しく肌の色艶もよく、とても健康そうに見える。人の隙間から観察していると、朗らかに笑い声を上げていたはずの彼が、あたしに挑発的な視線を投げかけてきた。

「おはようございます、幸さん」

 ただの挨拶が先制攻撃のように感じられてしまうのは、穿った先入観のせいだろうか。クラスメイトたちがいっぺんに振り返る。あたしは慎重に返事をした。

「おはよう。体調はもういいのか」 

「ええ。お陰様で」

 継児は黒いズボンに包まれたしなやかな足を組み換え、自分の鎖骨の辺りに手をやった。十四、五歳の少年には本来不釣り合いなはずのコケティッシュな仕草だ。黒衣の青年が思い出されて、あたしは彼から視線を外した。

「大事ないならよかった」

 とにかく、継児はどこか寛いだ様子で、怒りや憎しみを分かりやすくこちらに向けている感じはしない。一晩のうちに心境の変化が起こりでもしたのか、一転して友好的に話し掛けてくる。

「皆さんと親睦を深めるためのお喋りをしていたんです。幸さんもご一緒にどうですか?」

「お誘いいただけるなら、喜んで」

 あたしは唇の片端を吊り上げて、そう答えた。相変わらず彼の意図するところは不明瞭だが、それを探るにしてもなるべく穏当な対応を心掛けた方がいいだろう。とりあえず背負っていたリュックサックを下ろそうと自分の席に直ると、そこには吉川が朝っぱらから浮ついた顔で腰掛けていた。

「おはよ、委員長。場所借りてるよ」

 目の前でひらひら手を振られ、あたしは顔を顰めて彼を見下ろした。

「おはよう。邪魔だ。どいてくれ」

「えー、せっかく会田くんの隣なのに。でもここが委員長の席なのは確かだよね……そうだ委員長、オレの膝座っちゃう? それで万事解決、って、うわっ!」

 あまりに戯けた台詞に、この男を椅子ごと廊下に放り出してやろうかとまで思ったが、あたしが行動するより前に、田角が驚くような反射神経で吉川の腕を引き、彼の身体を床に引きずり落とした。

「何するの、映子ちゃん。もしかしてオレにヤキモチ?」

「嫉妬? そうね。吉川くん、あなたって会田くんにも間さんにも馴れ馴れし過ぎるんじゃないかしら。私は不可侵の掟を破る者に容赦はしない主義よ」

「そっち! ていうか怖いよ! 分かった、分かったからさ……あーあ、びっくりして腰が抜けた。彩乃ちゃん、手ぇ貸してくれない」

 屈んだ田角が背後から何かを囁くと、吉川は慌てて両手を上げて降伏の意を示した。それであたしに席を返却するのには納得したらしいが、今度は立ち上がるのを手伝ってくれと、近くにいた目黒に絡み始める。

 懲りない奴め、と呆れながら見ていると、目黒の隣りにいた森永が彼女を背中に庇い、代わりに彼を立たせてやっていた。あからさまにがっかりした様子でお礼を言うチャラ男に、平然と「どういたしまして」と返す森永。目黒が嬉しそうに彼氏の腕を取った。

 いつもと変わりない光景だが、わざわざ教室の一角に当たるここに集まってきているということは、本当に皆、可愛らしい転校生に興味津々のようだ。

 無論、元からこの位置に陣取っている正也と瑠璃華は椅子ごと継児の方を向いて、楽しく会話に参加していたようだった。

「サッチ、おはぴよ~」

「おはよう、間。お前の話もしていたんだぞ」

「へえ、そうなのか?」

 前後からにこにこ話し掛けてくるので、あたしも自然と微笑み返す。二人が指を折って、これまでに挙がったトピックスを並べ立てた。

「けーくんがうちらの話を教えてほしいって。だから今までのメモリアルを振り返ってたの。入学したときサッチがうちに声掛けてくれたときのこととか」

「新入生のとき、俺が道に迷ってたところを助けてもらったこともあったな」

「はは、あったな。お前らがまだ初々しかった頃だろ。覚えてる……」

 懐かしい二年前の出来事を持ち出され、あたしはこそばゆい気持ちで目を細めたが、隣で継児がコツコツと指で机を叩いたので、瞬時に冷静になった。

「お三方は仲が良いんですね、さっきからほのぼのとしたエピソードばかり」

 遠回しに、もっと別の話をしろ、と仄めかされてはっとした。そう、この内輪ノリで楽しいのは自分たち三人だけだ。転校生がわざわざ正也と瑠璃華の話をせがむのは、彼らの強烈な個性と独自のユーモアゆえ。あたしは二人が騒音問題を起こしているのでもない限り、そのトークの切れ味を鈍らせてしまってはいけない。

「そーそー。もう間たちの仲良し小好しは聞き飽きたわ。もっとドラマのある展開ねえのかよ」

 しゃがみ込み、正也の机の天板に腕と顎を置いた体勢の松本も美少年に同調した。同級生の友人関係に今更どんなストーリーを期待しているのか、彼は退屈そうに口を尖らせて要求する。継児の後ろに立っていた根津が、その言葉に反応して疑問を呈する。

「ドラマって……汗と涙? 赤い血のしぶき? 弾ける脳漿? チェーンソー!」

「お前が期待してるのは特殊なスリラーだろ。あたしらをデスゲーム経験者とでも思ってんのかよ」

 切れ長の目を輝かせて話を誘導しようとする彼に、思わず突っ込む。何が悲しくて親友と共にそんなグロテスクな汁を撒き散らかさなくてはいけないのか。

 根津の頭の中がどうなっているかは知らないが、爽やか野球少年にしては物騒なスプラッター嗜好が見え隠れしている。継児がそっと椅子を前に引きながら、話題を元に戻した。

「僕は意外性が大事だと思いますよ。一見完璧な人の挫折や大失敗なんか」

 言いながら白い顎をつんと反らし、くすくす笑う。少年の笑顔は、やはり周りがぼうっと見惚れるほど可憐だ。意外にも和やかに会話が進んでいくので、あたしも昨日の出来事は癇癪のようなものだったのかもしれないと思えるようになっていた。松本がぼんやりと考え込み、呟くのが聞こえた。

「それにしても間の弱点か……こいつどうやったら倒せるかな……わっ!」

 彼は継児の台詞を聞いて、あたしに弱みがないかという発想に至ったらしい。失礼な発言に間髪入れず彼の耳元で盛大に指を鳴らすと、少年が撥条仕掛けの人形のように跳ね上がった。

「ったく、人のことモンスターみたいに扱いやがって。あたしを『一見完璧』と評価してくれてるのは結構だが、打倒するつもりとは穏やかじゃないな」

「ビビらせんな、馬鹿」

 彼はこちらに向けて猫の威嚇のように肩を怒らせたあと、再びしゃがみ込み、継児に言った。

「会田くん。俺、今日帰ったら保育園までアルバム遡って、こいつの黒歴史探してくるから」

 よくもまあ、力強く語ってくれるものである。どうだか、とあたしは肩を竦めてみせた。継児の方を窺うと、少年の目は相手を値踏みするように松本を見下ろしていた。その冷ややかさにあたしはぎくりと身をたじろがせたが、黒い瞳は一瞬のうちに純真な光を取り戻す。

 気のせいだったのかと疑っていると、他の同級生たちにちやほやと持て囃されて機嫌のよい継児が、嬉々として会話の主導権を握り、問い掛けてきた。

「幸さんも教えてください。素敵な失敗談があるでしょう?」

「そりゃあるけど、正也と瑠璃華の鉄板ネタの方がよっぽど面白いぜ。他は森永の恋バナとか」

 違和感を覚えたあたしは、一歩下がりながら答えた。予習する箇所の勘違いや、炊飯器のスイッチの押し忘れ、そんなのこの場で吹聴したって絶対に盛り上がらない。そもそも失敗談に素敵とかないだろう。

 そう思って有望なゲストスピーカーの名前を口の端に上せると、正也と瑠璃華がすわ出番かと腕捲くりをしたり、巻き込まれそうになった森永が血相を変えて壁際に張り付いたりと、かなり面白い絵面になったが、継児は全て無視してあたしに詰め寄ってくる。

「事を仕損じたり、努力が水の泡になったりした経験は? 苦手な分野、嫌いなものは? されたら嫌なことだってあるでしょう?」

 背後に保護者の姿がちらつく、執拗なまでにネガティブな質問攻めである。失敗体験とは段々と離れている気もするし。間近に迫る端麗な顔立ち、一堂に会したクラスメイトたちの注目を浴びて、まるで尋問されているような雰囲気に、あたしはすっかり狼狽してしまった。

「え……いや、危害を加えられるのは勘弁、かな……」

 自分で言っていて、咄嗟のときの己の面白くなさに失望した。ここまで来たらシャープペンシル付属の消しゴムを勝手に使う奴とは絶交、程度のあるあるネタでは許されない。あたふたしているうちに、朝休みの終わりも近づいてきている。

 今必要なのは……そう、オチだ! 何かオチを付けて話を終わらせる必要がある。それがあたしの責任なのではないだろうか!? 焦ったあたしは衝動的に正也と瑠璃華の肩を抱き寄せた。「わっ」と二人が声を上げた。

「あたしにとって一番怖いことを知りたいんだよな?」

「! はい。どんなことなんですか?」

「それは……」

 継児の赤い唇の両端が、美しく吊り上がった。白魚のような指を絵の中の聖女のごとく組み合わせ、上目遣いに続きをねだってくる。前触れなく肩を組まれた正也と瑠璃華も、呆気に取られたように両脇からこちらを見つめている。

 あたしはそれぞれに笑い掛けてから、できる限り様になるよう、格好つけて断言してみせた。

「こいつらに嫌われること、かな……?」

「間!」「サッチ!」

 瞬間、二人があたしを呼びながら全力で縋り付いてきたので、両腕に物凄い負荷が掛かった。いつになくダイレクトに惚気けたので、悪友たちはとっても喜んでいるが――――場の空気は一気に盛り下がった。

 滑った。

「よかったね……委員長……」「間さんが狙って決めようとすると、大体こうよね……」「仲がいいのは……いいことですよね……」「あーね……」

 生暖かい反応が居た堪れない。松本がぼそっと呟いたのがやけに大きく響いた。本心からそう言っているのだろうと、よく分かる声音だった。「うぜえ……」

 あたしは絶望した。不味い、彼がわざわざ探さなくても、今まさにあたしの黒歴史が刻まれつつある。根津があっけからかんと追い打ちを掛けてくる。

「あはは、どうでもいいな!」

 笑い声が胸の中心に突き刺さる。からっと悪意なく言い放たれた言葉を受けて、集まっていた同級生たちは三々五々解散し始める。正也と瑠璃華に纏わりつかれながら頭を抱えるあたしの横で、継児だけが「ふうん」と面白がるような声を上げたが、もう全部どうでもよくなっていた。
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