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第28話 反転

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「やっぱりサッチと直接話してよかった。そんなことするなって言われてたけど、却って踏ん切りがついたもん」

 並んで歩いていると、瑠璃華がしみじみと呟いた。その一言にふと違和感を覚え、彼女に問い掛ける。

「止められたって、誰にだ?」

 正也とそういう話をしていたのだろうか。彼の方に向き直ったが、眼鏡の少年は戸惑ったように目を泳がせる。

「けーくんに進路面談のときのことを話したら、それは無責任だと詰られて……あれ、どうして」

 そう言いながら、彼は自分でも不思議そうに口元を押さえた。瑠璃華も頤に指先を添えて考え込む。

「約束を破っておいて友人面なんて厚かましいですよって……うちら、何で真に受けちゃったんだろう」

 二人は記憶を辿って継児との会話を振り返り、その不合理さに当惑しはじめる。なぜそんなことになったのか、原因には十二分に心当たりがあったが、追求する気にもなれなかった。

 先程も継児ではなくあたしを優先して助けてくれたし、判断するに両人とも他の同級生とは違ってかなり正気に近い状態のようだが、下手に刺激して混乱させるのは不味いのではないかと何となく感じたからだ。代わりに一つ溜息を零して、友人たちの肩に腕を回す。

「いや、もういい。でも、今後はずっとあたしの側にいろよ。頼むから」

 それは安堵の溜息だった。継児の影響を受けていても、二人はあたしに愛想を尽かしたとか、そういうわけではなかったみたいだ。

 けれども、自分では考えてもみないような稚拙な詭弁を、友人たちに勝手に吹き込むのを放っておくことは絶対にできない。なるべく一緒にいて、相手に誑かされるのを阻止しなくては。

 はあい、と元気な返事が返ってくるかと思いきや、その場には生暖かい沈黙が落ちた。変だな、と視線を下ろすと、正也と瑠璃華はにやにやと互いに顔を見合わせている。

「束縛ってやつだな?」

「束縛ってやつだね!」

 …………つまり、そうだよ。

***

 継児と言えば、あたしが彼を抱えて転げ落ちたあとに、友人たちに助けを呼べと要請されていた。にもかかわらず、二人がせっせとあたしを運んでいる間、応援の人手が現れることはなかった。

 あいつは結局何をしていたのだろうか。教室に帰ってしまった? だとしたら薄情にも程がある。クッションになった体感からすると、本来なら彼に掛かるべき衝撃は全て自分の身に降り掛かってきたので、あの場から動けないということはないはずなのだけれど。

 思い出して嫌な予感がしたのは、あの少年が先程こちらを陥れようとしていたことだった。以前にも「親衛隊」の一年生が突っ掛かってきたし、散々に讒言されてはきたようだが、また事実を歪曲されたら憂鬱だ。

 大きな救いは、もう一人きりではないということ。何があろうと、正也と瑠璃華はきっとあたしを信じてくれる。もしも度を過ぎた風評被害に巻き込まれたら、このお喋り屋たちにも協力を仰いで、火消しに奔走するより他にない。

 頭の中で継児への対抗策を弄しながら、あたしは教室の扉を開けた。まだぎりぎり昼休みは終わっていないので、クラスメイトたちはいつものように継児の周囲に集まっていることだろう。

 そうとなれば、既に根も葉もない噂で自分の評判が地に落ちていることもあり得る。白眼視を甘んじて受ける覚悟を決めて足を踏み入れたが、それは要らない心構えだったようだ。

「……継児は?」

 目に入ってきたのは、皆がそれぞれ気の合うグループごとにばらけて駄弁っている、よく見る昼休みの光景だった。警戒していた張本人は席にいないし、更にはいつぞやのように鞄などの荷物までなくなっている。

 呆気に取られていると、入り口付近の壁に凭れて男子数人と雑談していた根津がこちらに気づき、声を掛けてきた。

「会田くんなら、丁度早退したよ。どうしたんだろうな」

 彼は爽やかなスマイルを浮かべたまま器用に眉を下げ、継児を案じるようなコメントをした。相変わらず情操面の読み取りにくい男だが、告げられた事実を前にそんなことを気にしてはいられない。

 継児が一見して分かりにくいところに傷を負っていたとしたら、薄情にも程があるのはあたしたちの方だ。全身からさっと血の気が引いた。

「あいつ、大丈夫だったのか!? 容態は!?」

「容態って、別に体調は悪そうではなかったけど。本人の申告じゃ、ただ帰りますってだけ……」

 動揺して根津のがっちりした肩を力任せに揺さぶると、彼はがくがく揺れながらも返事をしてくれた。同時に迷惑がっているのが何となくこちらに伝わってきて、あたしは手を離した。

「悪い。さっきの今だったから、不安になっちまって。元気ならいいんだ」

「あはは、肉と血と脳味噌が遠心分離されるかと思った。で、何かあったのか?」

 さらりとグロテスクな冗談をかまして、根津は首を傾げる。彼の切れ長の黒い目は、一欠片も笑っていなかった。そうだ、こいつも会田を「信じている」んだった。

 あたしが一瞬怯んだ隙に、正也と瑠璃華がわっ! と飛び出し、アリクイの威嚇のごとくに両手を広げる。

「けーくんが階段の一番上から落ちたところを、間が飛び出して庇って!」

「けーくんを抱きかかえたまま、サッチが地面に真っ逆さまに墜落したの!」

 起こったことを余すところなく説明されてしまったので、あたしはとりあえず頷いて「そういうことなんだ」と締め括った。根津と周りの男子たちは、物凄く怪訝そうな顔をした。

「俺の理解力が足りないのかもしれないけどさ、それが本当なら間さん、人の心配してる場合じゃないだろ?」

 至極真っ当な疑問に対して納得してもらえるような回答ができそうになく、あたしは答えに窮してしまった。すると、再び正也と瑠璃華が胸を張る。

 どういう仕組みでやっているのかは分からないが、正也が銀縁眼鏡のレンズを煌めかせながら言った。

「間がなぜ無事だったか? その答えは『受け身』だ……!」

 どういう仕組みでやっているのかは分からないが、瑠璃華が勢いよくお下げ髪を跳ねさせながら後を引き継ぐ。

「そう、サッチはただ落下したんじゃないの。そこには勝算があった。『受け身』という……!」
 
 何となく凄そうな空気を醸し出しているが、肝心の台詞の内容は全く以て意味不明である。というか、あたしがさっき言ったら怒られたやつじゃねえか。

「『受け身』……!?」

 根津たちは目を白黒させて、二人の言葉に鸚鵡返しをした。彼らは完全に雰囲気に騙されているようで、こちらを必殺技を出せるタイプのキャラクターを眺める目で見始めている。

 受け身は身体を守るために重要な防御のテクニックだが、別に「ついに明かされた秘伝の奥義」とかではない。そしてあたしが咄嗟に受け身を取ったのかどうかですら、実際には定かでない。とんだ誇張表現である。

 まあどういう形であれ、継児を害したのではなく、むしろ怪我から守ったという事実が伝わるのは悪いことではないだろう。加えて、そこに至るまでの細かい経緯は話さずに、大袈裟なジョークで誤魔化しておいてもらった方がよさそうな気がした。

 なぜ自分たちが人のいない階段で向かい合っていたのか、少年が足を踏み外したのはどうしてか、誰にも知られないに越したことはない。相手についていい加減に言い触らすのは、趣味じゃない。

 ――――継児は、彼は、確かにあたしを陥れようとしていた。自らを宙に投げ出して、危険に晒すことをも顧みず。その熱烈な悪意の源が果たして何なのか、知らずに相手を責めることはすべきでないと思った。

 学級委員はクラスメイトが健全な学校生活を送ることに、多少なりとも責任がある立場である。教室の風景を見回して、あたしは下ろしていた拳を強く握り締めた。

 継児が危うい手段で人の心を奪っているのだとしたら、看過し続けるのは懶惰らんだの証拠だ。そこに自分の理解を超えた力の作用があるとして、怯えて手を拱いているのは怠慢だ。

 正也と瑠璃華にも、あたしの知らない秘密があった。赤い瞳の謎めいた少年には、果たして何が纏わりついているのだろう。

「受け身から、次は攻勢に出ねえとな」

 まだ見通しは立たないが、そう呟くとどこかから力が漲ってくるような気がした。根津が面白がるように「間さんがまた強そうなこと言ってる」と言った。
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