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第32話 行間

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 男子トイレの前で、あたしと松本は「アキラさん」がのを待っていた。時折響いてくる呻き声には、聞こえない振りをするのが人情というものだろう。

 隣に立っている松本が、気まずさと困惑が半分ずつ入り混じった表情で、こっそりと尋ねてきた。

「誰なんだよ、あのイケメン」

 部活動を終えて忘れ物を取りに来ただけなのに、素性も知らない成人男性を介抱する羽目に陥ったことには同情を禁じ得ない。あたしはせめて相手の身元を教えてやった。

「継児の父親」

「えっ! 会田くんの!? 若っ!」

 彼は幼少のみぎりに母さんがあたしの実の母親だと知ったときと同じ、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。緻密に張り巡らされていた伏線に気づいたがごとくに三白眼を見開く。

「そう言えば……相生たちが噂するには、会田くんの一族は不老に近い究極美形ゲノムを持っているとか何とか」

 全く信用できない筋の情報を持ち出してきた松本に、あたしは冷たく突っ込みを入れた。

「本気でそう思ってんのか?」

 冷や水を浴びせかけると、彼は即効性の鎮静剤を打たれたみたいにすん、と落ち着いた。

「いや、思わねえな……」

 熱しやすく冷めやすいにも程があるが、自分が知っている彼は確かにこんな感じだった。

 あたしは腕組みをして壁に背を凭れ、事態に巻き込まれて面倒臭がっている少年の旋毛を見下ろした。ぶつくさと文句を零しながらも、律儀に体調不良者が戻ってくるのを待っている松本の姿は、継児を「かみさま」と崇め、熱病に冒されたように陶酔していた信仰者と同一人物とは思えない。

 物は試しと、あたしは口を開いた。

「なあ、『こーくん』」

 唐突に昔の渾名で呼びかけられた松本は、一瞬だけ子どものようにあどけなくあたしを見やって――――次の瞬間、物凄く不愉快そうな仏頂面を作った。

「は? 馴れ馴れしくすんなよ。俺らは友達じゃねえだろ」

 焦茶の瞳には、苛立ちがはっきりと見て取れる。今の彼はどこからどう見ても、針鼠より刺々しく、線香花火の寿命より気短な、喧嘩っ早い普通の男子中学生だった。

 そんな彼と会うのは、とても久しぶりのような気がした。

 ぞんざいに突き放されて、じわり、と胸が温かくなった。あたしは嬉しくなって駄目押しに当て擦りを言った。

「そう怒りなさんなって。嫌なら親衛隊長って呼んでもいいんだぜ?」

「てめっ……」

 わざと挑発的に虐めてみると、松本は真っ赤になった。何事か言い返そうとして、自分の行動を思い返して余計に恥ずかしくなったのだろう、今度は真っ青になり、その場に蹲って頭を抱える。

「くそ、俺は何であんな浮かれてたんだ!? あああああ、いっそ殺せ!」

「気にすんな、黒歴史は誰にでもあるもんさ。継児は可愛いからな」

「笑ってんじゃねえよ馬鹿! いや俺も馬鹿だ! 可愛いからって問題じゃないだろ!? 死ね! 違う、殺せ! 介錯してくれ!」

「生きろよ。強くな」

 混乱してのたうち回っている彼を適当に慰めながら、あたしは確信に唇を綻ばせた。幼馴染みは正気に戻ったのだ。やった! ずっと自分に伸し掛かっていた重石が一つなくなり、両手を上げて快哉を叫びたい気分だった。

 喜びの一方、頭の冷静な部分は、どうしてこうなったのか、その理由を考え始めていた。おそらく継児の父親に貰ったペンダントのお蔭だろう。あたしはスカートのポケットの中に手を入れて、硬い感触を確かめた。

 丸っこい半透明の石には、発条ぜんまいも電池も仕込めるような場所はない。それでもさっき、自分が触れた途端に白く眩く輝き出したペンダント。あれはあたしがやったことだ。痺れるような直感があった。

 継児に心酔しきっていた松本にこれだけ顕著な効果があったということは、他のクラスメイトたちにも試してみる価値があるはずだ。八方塞がりだった状況に風穴が空いて、清涼な空気が流れ込んできたようだ。

 たったそれだけで、絶対に有り得ないと否定していたものを、すっかり信じたくなってしまっていた。

 あたしはとても前向きな気持ちで、羞恥で今にも憤死しそうな松本に笑いかけた。

「二度と『さっちゃん』なんて呼んでくれるなよ」

「十万円貰ってもしねえよドアホ!」

 小学生みたいな口汚い買い言葉、それでこそ我が親愛なる幼馴染みだ。

 そのまま楽しく口論をしていると、黒ずくめの青年がふらふらと弱々しい足取りで姿を現した。戯れのレスバトルを止めて、彼に声をかける。

「会田さん。大丈夫ですか、一人で歩けます?」

「吐いたなら口をゆすいだ方がいいっすよ、歯ァ溶けるんで」

 続けて松本も実に保健委員らしいアドバイスをした。男はばつが悪そうに目を伏せながら、「どうも」と力なく答えた。

 まるで覇気のないその様子に、あたしは幼馴染みと顔を見合わせる。もう少し付き添っている必要があるようだ。

***

 水道まで案内すると、「アキラさん」は何度か静かにうがいをしたあと、鞄からハンカチーフを取り出して、丁寧に口元を拭った。

「申し訳ありませんね、お見苦しいところを晒しました」

 まだ顔色はよくないが、いくらか余裕を取り戻したようで、青年の薄い唇は、再び怪しい微笑を形作っていた。やや乱れた髪の隙間に、歪な形の赤い耳飾りが覗いている。

「お構いなく」

「別に、大したことしてないんで。あ、真正面から見ると、やっぱり親子って感じですね。すげー似てる」

 あたしは溜息を吐いて定型文を返しただけだったが、松本は細身の美男子の独特の佇まいに反応して、彼と継児との共通点に言及した。

 言う通り、所作や言葉遣いに加えて、華奢な身体から立ち上るどこか計算高いなまめかしさまで、二人は耽美な生き物の特徴を見事に兼ね備えている。継児が成長したら、きっと目の前の人のように中性的な男性になるだろう。

「そうでしょうか? えっと、あなたは」

 自覚がないのか、「アキラさん」は松本の言葉に小首を傾げた。そうして未だに彼の名前を知らないことに気づいたらしい。松本は小さく会釈をしながら自己紹介をした。

「松本航平です。間と同じで、会田くんと同じクラスの」

 すると、思い当たる節があったのか、「アキラさん」ははたと手を打った。

「ああ、サッカー部の。継児から何度かお聞きしました……愚息を何度も遊びに誘ってくださったようで。すみませんね、彼の付き合いが悪くて」

 それと同時に、切れ長の黒い瞳が憐憫の色を帯びる。察するに、どうやら継児はご家庭で松本をあまり良いようには言っていなかったらしい。自分を慕うように仕向けておいて、酷な仕打ちである。

 やがて青年はあたしに向き直った。事情を聞きたいことばかりだったし、相手も何か言いたげな顔をしていたが、松本を意識しているのか、結局彼は口を噤んだ。

「ご迷惑をお掛けしてしまったことですし、本日はお暇します」

「そうですか。それではお大事に」

 互いに思い残すところがあり、あたしたちは探り合うように目配せをした。何も知らない松本は、「水分補給は暫く様子を見た方がいいですよ」と実に保健委員らしいアドバイスをした。

「はい、気をつけますね。……そうだ、幸さん、ぜひ宅にいらしてくださいな。ご友人に来てもらえば、きっと継児も喜びます」

「ははは! ご冗談を」

 青年のついた、とてもあからさまな嘘を笑い飛ばしながら、その意図を推測する。継児が自分に会いたがっている可能性は、絶対にない。大方「アキラさん」が、己の巣にあたしを引きずり込みたいのだろう。

 でも、流石に相手の本拠地にのこのこ乗り込んでいけるほどには、彼のことを信用しきれていなかった。「名刺」に書いてあった電話番号に連絡して間接的にやり取りすれば、比較的安全だろうか? しかし、そういうやり方をしても、大事なことを話してくれるとは限らない。それに根城に何か重大な秘密が隠されていることだって、いかにもありそうだ。

 ひとまず渡されたデコラティブなカードをどこに仕舞い込んだか、あたしが思い出そうとしていると、話に置いていかれた松本が悲しそうな顔をしていることに気がついた。

 確かに、経緯はともあれこれまで尽くしてきた相手のお宅に、自分だけ訪問を乞われないのでは彼がひたすら報われない。あたしは「アキラさん」に、松本にも気を遣ってくれるよう視線で合図した。

「ああ……そう、松本くんも。歓迎しますよ」

「はい!」

 単純な少年は、去り際のお愛想にも元気に返事をした。あたしは男の黒い後ろ姿を見送りながら、しみじみと呟いた。

「さて、これからどうするかな」

 頭の後ろで腕を組んだ松本が無邪気に反応する。

「そうだな、いつ遊びに行く? 俺、今週の日曜は空いてるぜ」

「松本、あれは社交辞令だ」
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