上 下
1 / 69
prologue

~少年王は海に誓う~ 1

しおりを挟む



 雲ひとつない真っ青な空の下で、鼻孔をくすぐる潮風に、極彩色の花々は躍る。打ち寄せる波の音はふだんと変わらず穏やかで、とても母国が滅んでしまったとは思えないほど。

 ――けれど、オリヴィエは連れていかれた。かの国・・・の、野蛮な狗どもによって。

 女王を奪われたこの土地を守護していた国祖神だった少女は、憎しみに満ちた鋭い視線を少年へ向ける。武装と呼ぶには上品でありながら防御に長けた薄い金属の衣を纏った少年は、だぼだぼの女物の衣を引きずって歩く砂まみれの彼女に気づき、かつての名を呼ぶ。声がわりする前の、すこし掠れた甘い声で。

「そなたが、那多沙なたしゃだったものか」

 海を間に挟んだ隣国の若き王は、神の名をたどたどしく呼び、傲慢に見下ろす。

「だから、何?」

 セイレーン王朝のナターシャ神。
 たしかに自分はそう呼ばれ、崇められていた。けれどいまの自分は、目の前の少年に国祖神としてのちからを奪われ、この土地に執着しているだけの、神と呼ぶにはあまりに弱々しい存在だ。
 女王を奪われ、国を守護するだけのちからも失ったことで姿形も幼女のようにちいさくなってしまった。それもこれも、目の前にいる漆黒の、まだ十三歳のこの少年のせい。

「強くて美しかった宝石神も、砕けばただの砂か」

 つまらなそうに呟きながら、少年は国を奪われた神へ、名を与える。それは、自分が彼女を使役するための、束縛するための名。

「ならば、那沙なずなと呼ぼう」

 ――そなたはこれより我がかの国の土地神として、旧誓蓮せいれんが統治していた迎果諸島げいかしょとう内の七島しちとうを守護させる。

「……それが、あんたがあたしを生かした理由?」

 那沙が海のように青い双眸を驚いたように見ひらくと、少年王は那沙の前で深く頷き、淋しそうに笑う。

「おれはこの美しい場所を破壊したいわけではない。国が変わったからといって、彼らの生活を脅かすことだけは、したくないんだ」
「……あんた、九十八きゅうじゅうはちの息子よね。なんでそんなに真面目なの」

 愚王と名高いかの国のさきの統治者の名を口にする那沙に、少年は苦笑する。

「たしかに、父王がしたことはそなたたちにとって赦される出来事ではなかっただろう。だが、それゆえにそなたたちが選択した行為を、我が国は認められなかった」
「だから? 先に仕掛けてきたのはあんたたちでしょう? オリヴィエは友好的に対応していたのに」
「父は納得できなかっただけだ。央浬絵おりえどののことを諦めることが」
「よく言うわ」

 ふん、と鼻を鳴らして那沙は少年の闇のように黒い瞳を睨みつける。けれど、十歳に満たない幼女の恰好では、ただの癇癪にしか見えない。
 ざざざ、と無邪気な波音が内耳をくすぐる。那沙は莫迦みたいと心のなかで毒づきながら、やけっぱちの笑顔を返す。

「――賀陽成佳国かやなりのかのくに、第九十九代神皇帝しんのうてい。旧セイレーンの国祖ナターシャは、兄神たる始祖神佳国よしくにの妹神として、迎果七島における守護を行うことを約束します」

 神々が交わす誓約は絶対のもの。けして破られるものであってはならない。
 突然の誓いに少年王は一瞬ぽかんと口を開け、素直に従属の意思を告げた神をじっと見据える。

 ――騙せない、か?

 那沙は黙り込んでしまった少年の応えをじっと待つ。自分には護らなければならないものがある、だから彼に命じられる前に、自分から誓約を提案した。

「おかしなことを言う。神々の誓約は絶対だが、おれと那沙が誓いを交わしたところで何になる」

 くくくと笑って少年は那沙の砂だらけの波打つ銀の髪に触れ、残念そうに声を発する。

「おれは、神の系譜に連なりはしているが、神そのものではない。だからその誓約は、そなたが一方的におれを欺きたいがために言霊に乗せたのだろう?」

 あっさりと企みを露見され、那沙のあたまのなかが真っ白になる。九十八の息子だから莫迦で考えなしに違いないと思っていたのが間違いだった。那沙はちっと可愛らしい舌打ちをして言い返す。

「ならば! 九十九の御世のあいだ、あたしは迎果七島の土地神としてこのセイレーンを守護する!」

 神には人間に負けない長い寿命がある。目の前にいる少年が死ぬまでという誓約なら、彼だって頷かざるおえない。
 現に少年王は、呆気にとられた表情をしたものの、すぐに真顔で承諾した。


「……いいだろう。その誓約、受けて立つ」
しおりを挟む

処理中です...