Springs -ハルタチ-

ささゆき細雪

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chapter,3 (3)

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「ユタカ、か」

 水槽の中を泳ぎまわる魚たちを見つめながら、賢季は少女の名前を口にする。
 ……協力し合って謎を解くの!
 呪いと謎は同じもの、なのかもしれない。今までの出来事を非現実的に捉えていた賢季は、豊のその一言を、新鮮に感じる。

「お兄様、入るわよ」

 ノックの音より先に、声がかかる。

「なんだい?」

 扉を開けると、ちょこん、と鈴代が座っている。

「……泉観、座ってノックするな」
「だって、お兄様にまた催眠術かけられたら困るじゃない」

 立ち上がり、くすりと微笑む従妹を見て、賢季は指先に力を込める。

「なんなら今から眠らせてあげようか?」
「なんなら、お得意の催眠術で、知りたいことを知ればいいじゃない?」
「それができれば、世の中もっと楽に生きていけるんだけどねえ」

 指先に込めていた力を抜き、ソファに倒れこむ賢季を見て、鈴代。

「お兄様の催眠術はただ人を眠らせたり起こしたりするだけのものですからね」

 と、わかりきったように追い討ちをかける。

「泉観がこんなにも強情っぱりだとは知らなかったからさ」
「なんの話ですか」

 ソファの隅に腰掛け、鈴代は従兄に問う。

「半年前の出来事の話ー」
「……だってあれは」

 急に口篭もる鈴代を無視して、賢季は続ける。

「どうして隠しているんだい? 人殺しの魔女って汚名を雪ぎたいとは思わないの?」
「隠したくて隠してるわけじゃないわ。本当のことを誰も信じてくれないから」
「忘れてる、ってこと?」
「そう」

 きっぱりと言い切る鈴代を見て、険しい表情を見せる賢季。

「覚えていることが少ない、ってだけだろ」
「そうとも言う……かな」

 しどろもどろになる鈴代を見て、賢季は首を傾げる。

「ショックで思い出せない、のか?」
「……それすら、わからない」

 ハァ、と溜め息をつく従妹を見ていると、豊がいらついた理由も、わからなくもない。

「ずっと、それで通すつもりかい? 知らぬ存ぜぬで」

 確かに、今の鈴代を見ていると、東金円が墜落死したショックで、その直前の記憶を失くしたようにも、見える。だが、本当にそれだけの理由で、彼女が自分に非があることをあっさりと受け入れているのはおかしいと、賢季は考える。

「そんな過去のこと、どうだっていいじゃない。それより、お兄様」

 水槽に目を向け、鈴代は振り切るように話題を変える。その、あまりにも不自然な仕草に、賢季は疑問を感じずにはいられない。
 だけど、鈴代が口にしたことが、その一瞬を吹き飛ばす。

「カサゴが一匹足りないみたいだけど、死んじゃったの?」
「……たぶんな」

 本当のことは賢季ですらわからない。彼が大学の研究室にこもっている間に、飼っていた魚が死んで、メイドが庭にでも埋めたのか、それとも、故意に誰かが持ち出したか、それとも……たぶん、死んでしまったとは思うが。

「泉観」
「お兄様じゃ、ないみたいね」
「なんのことだよ」
「いいの。忘れて」

 そして、逃げるように部屋から姿を消す。
 鈴代の不可解な行動は、賢季の好奇心を確実に、くすぐる。

「……まいったな。これじゃあ悪役にもなれやしない」

 鈴代夕起久を殺そうとした犯人はまだ、わからない。だが、彼の娘と甥は気づいている。
 彼を苦しめた毒の正体に。
 だが、賢季は警察に言うつもりもない。たとえ自分が疑われる役柄になっても。
 目蓋を閉じると、脳裡にひらめくのは従妹の淋しそうな笑み。だが、常に賢季を悩ませていた少女の面影は、気づくと従妹から出逢ったばかりの豊へと、すりかわる。

「ユタカ、か」

 なぜ、こんなにも、気になって仕方がないのだろう。


   * * *


 病室の几帳面な白さ、強迫的なエタノール臭。病院、そこはいつ来ても不快になる、独特の空間。
 鈴代は淡々とした表情で、父親がいる病室へ向かう。

「お父様の意識は?」
「三日前に覚醒して以来、はっきりしています。今では面会も問題ありません」

 長い廊下をゆっくり、鈴代と歩くのは、平井と名乗った刑事だ。
 黒いセーラー服を着た鈴代を初めて見たとき、まさか彼女が将来の鈴代財閥を担う人間であるとにわかに信じられなかった平井であるが、実際に会話をしてみると、想像以上に怜悧で大人びた彼女に、畏怖さえ感じる。
 だが、鈴代は平井の反応を気にすることなく、堂々と隣を歩いている。

「……刑事さん」

 鈴代は、対応に困っているであろう平井を見て、静かに微笑みかける。次期財閥当主とはいえ、しょせんは十六歳の女の子、気遣いは無用だと、彼女は伝える。

「そんな、かしこまらなくてもいいですよ。次期当主なんて実感、ありませんから」

 病院の無人エレベータの中で、鈴代は口にする。

「でも、よくわかりましたね。わたしが、ほんとうの次期当主だってこと」

 ああ、それは、と、平井が軽く頷く。

「賢季さんが、自分は次期当主ではないと教えてくれたので」
「……でも、わたしの名前を直に聞いたわけではないでしょ?」

 鈴代だって驚いているのだ。平井と名乗った刑事が、「次期財閥当主ですね」と断言するように彼女に迫ったから。

「ええ。ですが、単純に考えればすぐに理解できますよ。隠れ蓑や囮を使ってまで守りたい未来の当主、それが誰を示しているかなんて。それにあなたはたった一人の」

 そこまで言って、平井は口をつぐむ。
 目の前には、「鈴代夕起久」というプレートのかけられた扉。

「続きは、彼を交えて話したほうがいいですね」

 そして、ノックをする。
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