海照らすふたりの太陽

ささゆき細雪

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Opening

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 双子だからといって、テレパシーが使えるわけではない。そんなの映画や漫画でしか見たことない。

 ただ、顔が同じで同じ母親のはらから同時に生まれてきたってだけ。なのにどうして一卵性双生児は特別な存在だなんて説が世間一般に流布しているのだろう。

 たしかに、親でさえどっちがどっちなのかわからなくなるときがある。違いになる目印になる肩のホクロが隠れる秋冬は特にそうだ。そういうときは決まって自分が「こっちだよ」って笑いながら手を振るのだ。そうすれば両親は安心するから。

 たとえそれがほんのちょっとの出来心で、お互いの存在を逆転させてしまったとしても周囲の人間は言われるがままにその言葉を受け入れるだろう。

 幼いころからそうやって、自分たちは生きてきた。ふたりはいつも一緒。生まれた時からいまのいままで。嬉しいときも悲しいときも困ったときも。

 だけどそれは互いが互いを受け入れられたがゆえのことなのだと今になって思う。

 なぜなら、小学生から中学生になって、同じ制服を着るようになってから、差異が曖昧になってしまったから。別々の学校に通うようにすれば、この問題は回避できたかもしれないが、いまのいままでずっと一緒だったふたりが離れて生活を送ることは、考えられなかったし考えたくもなかった。

 最初のうちは髪型でどっちがどっちか判別させることも試みた。けれど、髪質が同じだからか、たいして変わり映えはしなかった。

 先生も、クラスメイトも、どちらかの教室にどちらかがいるから、そっちがこっちでこっちがそっちなんだと勝手に頷いている。逆の行為をしていても、同一視されているから誰にも気づいてもらえない。

 そんな退屈な日常に飽きたから、彼らがどんな反応を見せるのか、困惑させたくて英語の授業を受けたあとにまた英語の授業を受けたり、健康診断をひとりでふたりぶんこなしたこともあった。悪戯がいつ露見するかわくわくしたけど、残念ながら卒業してからも誰にも気づいてもらえないままだ。

 でも、さすがに進路を決める三者面談は入れ替われなかった。

 成績だけは顔や仕草や声みたいにぜんぶがぜんぶ、同じじゃなかったから。


   * * *


 健介と康介。ふたりあわせて健康。両親のネーミングセンスには脱力する。ひとあしはやく外にでてきた兄が健介で、そのあとをついてくるようにでてきたのが弟の康介、つまり僕のこと。

 成績優秀な兄と普通の弟。けれど視力に問題はないからお互い眼鏡をつけることもないし、たいした運動もしていないから体つきも筋肉量も変わらない。はたから見るとそっくりすぎて不気味なほど似ている双子だと言われてしまう。

 同じ胎から同じときに生まれてきた健介は県内有数の進学校に、僕は身分相応な男子高へ、それぞれ進学した。

 はなればなれになったら、息ができなくなるのではないかと不安にもなったが、そんなことはなかった。自分が不完全な人間ではないと証明された気がして、逆に呼吸することが楽になったようにも感じる。

 それだけ自分は健介を頼って、彼を追いかけて十五年近い歳月を過ごしていたのだと思い知り、愕然としたけれど。

 いまは、中学時代と違って、自分ひとりで自分のすべきことを決めなくちゃいけなくなったから、健介と距離を置く環境ができたことで、自分を見つめなおすいい機会なんだろうと思っていた。

 顔が同じだから、声が同じだから、だからといって同じ人生を歩むことはできないのだ。

 健介もそれは口にしていたことだ。

 お互い理解しあったうえで、別々の道を歩き出した。お洒落なブレザーの健介と堅苦しい詰襟の僕。でだしは順調だった……二学期になって、健介に彼女ができるまでは。
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