7 / 56
chapter,1
シューベルトと春の再会 + 1 +
しおりを挟む未だ寒さが残る長野県軽井沢町、四月上旬。
昨晩遅くに空気を湿らせた水気のある雪は積もることもなくすでに止んでいて、いまは柔らかい朝日が顔を出している。
澄み渡った春の空を仰ぎながら、庭先で洗濯物を干すのは気持ちがいい。わたしはカゴいっぱいに入ったベッドシーツをひろげながら、久方ぶりにのぞいた晴れ間に感謝していた。
「おはよう、ねね子」
「旦那様、起きていらっしゃったのですか!?」
「なんだか今日は調子がいいみたいでなぁ」
「で、でも安静になさってくださいね」
「わかっているさ。それにしても、ずいぶん様になったのう」
「いまのわたしにできることは、これくらいしかありませんから……」
「心配しなさんな。いつかまた、大勢のひとの前でピアノを弾ける日が来るさ」
音大を卒業するまで洗濯機の使い方すら知らなかったわたしに、夫は苦笑しながらも機械の操作を教えてくれた。それ以来、通いの家政婦にすべてを任せることもせず、ファブリックの類の洗濯はわたしの仕事のひとつになっている。
この土地で、元ピアニストだった鏑木音鳴を知る人間は、会話を終えて窓をしめ、部屋のなかから無邪気に手を振っている夫、須磨寺喜一しかいない。
ここでのわたしは須磨寺音鳴、二十六歳。
北軽井沢の別荘地“星月夜のまほろば”を統べる大地主で別荘管理総責任者の須磨寺喜一の妻だ。御年七十二歳となる夫はネメと言えなくて、わたしのことを当初からねね、と呼んでいる。
結婚三年目。ふたり寄り添うように穏やかな日々を送っている孫ほど年齢の離れた夫婦だが、これには深い深い理由がある。
わたしには守りたいものがあったのだ。
* * *
ポロンポロンと玄関ホールのグランドピアノから奏でられる旋律に耳をかたむけるわたしに、夫が苦笑する。
「調律を依頼したのはいつだったっけな?」
「昨年の五月です。そろそろ定期調律の予約を入れた方が良さそうですね」
「できれば今月中に手配してほしい。シーズンがはじまったら、ここも利用者で賑やかになるからな」
軽井沢の春は遅く、ゴールデンウィーク前後に咲きはじめる真っ白な辛夷の花が合図になる。陽だまりに野の花がつぼみをほころばせて存在を主張しはじめるのはもうすこし先で、五月の半ばに入ってから。
里山の雪が完全にとけ、木の芽が萌えだす頃には若葉祭りが開催され、国内外から観光客が集まりはじめる。
須磨寺が所有している北軽井沢の一角は、軽井沢の駅から車で二十分ほどのところに位置している旧くからの別荘地で、ゴールデンウィークがはじまるとほぼ同時に観光シーズンがはじまる。いままで冬眠していた生き物が覚醒するかのように、利用者で賑わいを見せる姿は圧巻で、隠居している身の自分ですら、心を躍らせてしまう。
「今年もまたはじまるのですね」
「ねね子には苦労をかけるね」
「いいえ。旦那様はわたしの恩人ですから、このくらい……」
「貴女は、いまの生活が物足りないのでは?」
「……そんなことは」
「ねね子はまだ、戻れるよ。わしがいなくなったら、とっととこの土地を売り飛ばして」
「イヤです」
思いがけず、強い否定の言葉を発していた。
夫には持病がある。緩やかに進行していく病状は他者の目から見ると代わり映えするものではないが、三年近く一緒に暮らしているわたしは、彼の生命の灯火が弱まってきていることに気づきながら、知らないふりをしていた。
けれど、そんなわたしの態度も夫には筒抜けだったのだろう。いつからか彼は「自分はもう長くない」と口にするようになっていた。
「旦那様がいままで守ってきた土地です。売り飛ばすなんて……そのようなこと、できません! わたしは旦那様がいなくなってからも、ずっとここで別荘管理の仕事をしながらしずかに余生を過ごすつもりです」
「……余生と呼ぶには早すぎるぞ、ねね子や」
きっぱりと言い切るわたしを面白そうに、けれどもほんのすこしだけ気の毒そうに見つめた夫は、結局それ以上は何も言わないで、ふたたび鍵盤に手をかけるのだった。
曲は、ラヴェル――亡き王女のためのパヴァーヌ。
人前でピアノを弾けなくなったわたしを鎮魂するかのように、夫はときどきこの曲を選ぶ。
かつて、世界的ピアニスト鏑木壮太の師でもあった夫の指捌きは老齢にもかかわらず豪胆で、雄大だ。病気のことさえなければ、いまもなお現役で舞台に立ちつづけていたはずだ。
人前でピアノを弾けなくなったわたしなんかと違って……
0
あなたにおすすめの小説
優しい雨が降る夜は
葉月 まい
恋愛
浮世離れした地味子 × 外資系ITコンサルのエリートイケメン
無自覚にモテる地味子に
余裕もなく翻弄されるイケメン
二人の恋は一筋縄ではいかなくて……
雨降る夜に心に届いた
優しい恋の物語
⟡☾·̩͙⋆☔┈┈┈ 登場人物 ┈┈┈ ☔⋆·̩͙☽⟡
風間 美月(24歳)……コミュニティセンター勤務・地味でお堅い性格
雨宮 優吾(28歳)……外資系ITコンサルティング会社勤務のエリートイケメン
ブラック企業で倒れた私を、ネトゲ仲間の社長が強制保護して溺愛しています
紅 与一
恋愛
過労で倒れた私を救ったのは、
ネトゲ仲間――そしてIT企業の若き社長。
「もう君は、僕の管理下だよ」
退院と同時に退職手続きは完了。
住む場所も、生活も、すべて彼に囲われた。
外出制限、健康管理、過保護な独占欲。
甘くて危険な“保護生活”の中で、
私は少しずつ彼に心を奪われていく――。
元社畜OL×執着気味の溺愛社長
囲い込み同棲ラブストーリー。
【完結】泡になった約束
山田森湖
恋愛
三十九歳、専業主婦。
夫と娘を送り出し、静まり返ったキッチンで食器を洗う朝。
洗剤の泡が立っては消えるその繰り返しに、自分の人生を重ねながら、彼女は「ごく普通」の日常を受け入れている。
愛がないわけではない。けれど、満たされているとも言い切れない。
そんな午前中、何気なく出かけたスーパーで、背後から名前を呼ばれる。
振り返った先にいたのは、かつて確かに愛した男――元恋人・佐々木拓也。
平穏だったはずの毎日に、静かな波紋が広がり始める。
苦手な冷徹専務が義兄になったかと思ったら極あま顔で迫ってくるんですが、なんででしょう?~偽家族恋愛~
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「こちら、再婚相手の息子の仁さん」
母に紹介され、なにかの間違いだと思った。
だってそこにいたのは、私が敵視している専務だったから。
それだけでもかなりな不安案件なのに。
私の住んでいるマンションに下着泥が出た話題から、さらに。
「そうだ、仁のマンションに引っ越せばいい」
なーんて義父になる人が言い出して。
結局、反対できないまま専務と同居する羽目に。
前途多難な同居生活。
相変わらず専務はなに考えているかわからない。
……かと思えば。
「兄妹ならするだろ、これくらい」
当たり前のように落とされる、額へのキス。
いったい、どうなってんのー!?
三ツ森涼夏
24歳
大手菓子メーカー『おろち製菓』営業戦略部勤務
背が低く、振り返ったら忘れられるくらい、特徴のない顔がコンプレックス。
小1の時に両親が離婚して以来、母親を支えてきた頑張り屋さん。
たまにその頑張りが空回りすることも?
恋愛、苦手というより、嫌い。
淋しい、をちゃんと言えずにきた人。
×
八雲仁
30歳
大手菓子メーカー『おろち製菓』専務
背が高く、眼鏡のイケメン。
ただし、いつも無表情。
集中すると周りが見えなくなる。
そのことで周囲には誤解を与えがちだが、弁明する気はない。
小さい頃に母親が他界し、それ以来、ひとりで淋しさを抱えてきた人。
ふたりはちゃんと義兄妹になれるのか、それとも……!?
*****
千里専務のその後→『絶対零度の、ハーフ御曹司の愛ブルーの瞳をゲーヲタの私に溶かせとか言っています?……』
*****
表紙画像 湯弐様 pixiv ID3989101
フリーランスエンジニアの優しすぎる無償の愛
春咲さゆ
恋愛
26歳OLの木崎茉莉は人生のどん底にいた。上手くいかないことに慣れ、心を凍らせることで自分を守る毎日に絶望した茉莉は、雨の夜に思わず人生の終わりを願ってしまう。そんな茉莉に手を差し伸べたかっこいい彼。茉莉は、なぜか無償の愛のような優しさをくれる不思議な男性に少しずつ救われ、前を向いていく。けれど、疑ってしまうほど親切な彼には、親切であり続ける理由があって……。雨の夜の出会いがもたらした、優しくも切ない物語。
押しつけられた身代わり婚のはずが、最上級の溺愛生活が待っていました
cheeery
恋愛
名家・御堂家の次女・澪は、一卵性双生の双子の姉・零と常に比較され、冷遇されて育った。社交界で華やかに振る舞う姉とは対照的に、澪は人前に出されることもなく、ひっそりと生きてきた。
そんなある日、姉の零のもとに日本有数の財閥・凰条一真との縁談が舞い込む。しかし凰条一真の悪いウワサを聞きつけた零は、「ブサイクとの結婚なんて嫌」と当日に逃亡。
双子の妹、澪に縁談を押し付ける。
両親はこんな機会を逃すわけにはいかないと、顔が同じ澪に姉の代わりになるよう言って送り出す。
「はじめまして」
そうして出会った凰条一真は、冷徹で金に汚いという噂とは異なり、端正な顔立ちで品位のある落ち着いた物腰の男性だった。
なんてカッコイイ人なの……。
戸惑いながらも、澪は姉の零として振る舞うが……澪は一真を好きになってしまって──。
「澪、キミを探していたんだ」
「キミ以外はいらない」
氷の上司に、好きがバレたら終わりや
naomikoryo
恋愛
──地方から本社に異動してきた29歳独身OL・舞子。
お調子者で明るく、ちょっとおせっかいな彼女の前に現れたのは、
“氷のように冷たい”と社内で噂される40歳のイケメン上司・本庄誠。
最初は「怖い」としか思えなかったはずのその人が、
実は誰よりもまっすぐで、優しくて、不器用な人だと知ったとき――
舞子の中で、恋が芽生えはじめる。
でも、彼には誰も知らない過去があった。
そして舞子は、自分の恋心を隠しながら、ゆっくりとその心の氷を溶かしていく。
◆恋って、“バレたら終わり”なんやろか?
◆それとも、“言わな、始まらへん”んやろか?
そんな揺れる想いを抱えながら、仕事も恋も全力投球。
笑って、泣いて、つまずいて――それでも、前を向く彼女の姿に、きっとあなたも自分を重ねたくなる。
関西出身のヒロイン×無口な年上上司の、20話で完結するライト文芸ラブストーリー。
仕事に恋に揺れるすべてのOLさんたちへ。
「この恋、うちのことかも」と思わず呟きたくなる、等身大の恋を、ぜひ読んでみてください。
カモフラ婚~CEOは溺愛したくてたまらない!~
伊吹美香
恋愛
ウエディングプランナーとして働く菱崎由華
結婚式当日に花嫁に逃げられた建築会社CEOの月城蒼空
幼馴染の二人が偶然再会し、花嫁に逃げられた蒼空のメンツのために、カモフラージュ婚をしてしまう二人。
割り切った結婚かと思いきや、小さいころからずっと由華のことを想っていた蒼空が、このチャンスを逃すはずがない。
思いっきり溺愛する蒼空に、由華は翻弄されまくりでパニック。
二人の結婚生活は一体どうなる?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる