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chapter,1

シューベルトと春の再会 + 1 +

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 未だ寒さが残る長野県軽井沢町、四月上旬。
 昨晩遅くに空気を湿らせた水気のある雪は積もることもなくすでに止んでいて、いまは柔らかい朝日が顔を出している。
 澄み渡った春の空を仰ぎながら、庭先で洗濯物を干すのは気持ちがいい。わたしはカゴいっぱいに入ったベッドシーツをひろげながら、久方ぶりにのぞいた晴れ間に感謝していた。

「おはよう、ねね子」
「旦那様、起きていらっしゃったのですか!?」
「なんだか今日は調子がいいみたいでなぁ」
「で、でも安静になさってくださいね」
「わかっているさ。それにしても、ずいぶん様になったのう」
「いまのわたしにできることは、これくらいしかありませんから……」
「心配しなさんな。いつかまた、大勢のひとの前でピアノを弾ける日が来るさ」

 音大を卒業するまで洗濯機の使い方すら知らなかったわたしに、夫は苦笑しながらも機械の操作を教えてくれた。それ以来、通いの家政婦にすべてを任せることもせず、ファブリックの類の洗濯はわたしの仕事のひとつになっている。
 この土地で、元ピアニストだった鏑木音鳴を知る人間は、会話を終えて窓をしめ、部屋のなかから無邪気に手を振っている夫、須磨寺喜一きいちしかいない。

 ここでのわたしは須磨寺音鳴、二十六歳。
 北軽井沢の別荘地“星月夜のまほろば”を統べる大地主で別荘管理総責任者の須磨寺喜一の妻だ。御年七十二歳となる夫はネメと言えなくて、わたしのことを当初からねね、と呼んでいる。
 結婚三年目。ふたり寄り添うように穏やかな日々を送っている孫ほど年齢の離れた夫婦だが、これには深い深い理由がある。

 わたしには守りたいものがあったのだ。


   * * *


 ポロンポロンと玄関ホールのグランドピアノから奏でられる旋律に耳をかたむけるわたしに、夫が苦笑する。

「調律を依頼したのはいつだったっけな?」
「昨年の五月です。そろそろ定期調律の予約を入れた方が良さそうですね」
「できれば今月中に手配してほしい。シーズンがはじまったら、ここも利用者で賑やかになるからな」

 軽井沢の春は遅く、ゴールデンウィーク前後に咲きはじめる真っ白な辛夷の花が合図になる。陽だまりに野の花がつぼみをほころばせて存在を主張しはじめるのはもうすこし先で、五月の半ばに入ってから。
 里山の雪が完全にとけ、木の芽が萌えだす頃には若葉祭りが開催され、国内外から観光客が集まりはじめる。

 須磨寺が所有している北軽井沢の一角は、軽井沢の駅から車で二十分ほどのところに位置している旧くからの別荘地で、ゴールデンウィークがはじまるとほぼ同時に観光シーズンがはじまる。いままで冬眠していた生き物が覚醒するかのように、利用者で賑わいを見せる姿は圧巻で、隠居している身の自分ですら、心を躍らせてしまう。

「今年もまたはじまるのですね」
「ねね子には苦労をかけるね」
「いいえ。旦那様はわたしの恩人ですから、このくらい……」
「貴女は、いまの生活が物足りないのでは?」
「……そんなことは」
「ねね子はまだ、戻れるよ。わしがいなくなったら、とっととこの土地を売り飛ばして」

「イヤです」

 思いがけず、強い否定の言葉を発していた。
 夫には持病がある。緩やかに進行していく病状は他者の目から見ると代わり映えするものではないが、三年近く一緒に暮らしているわたしは、彼の生命の灯火が弱まってきていることに気づきながら、知らないふりをしていた。
 けれど、そんなわたしの態度も夫には筒抜けだったのだろう。いつからか彼は「自分はもう長くない」と口にするようになっていた。

「旦那様がいままで守ってきた土地です。売り飛ばすなんて……そのようなこと、できません! わたしは旦那様がいなくなってからも、ずっとここで別荘管理の仕事をしながらしずかに余生を過ごすつもりです」
「……余生と呼ぶには早すぎるぞ、ねね子や」

 きっぱりと言い切るわたしを面白そうに、けれどもほんのすこしだけ気の毒そうに見つめた夫は、結局それ以上は何も言わないで、ふたたび鍵盤に手をかけるのだった。

 曲は、ラヴェル――亡き王女のためのパヴァーヌ。
 人前でピアノを弾けなくなったわたしを鎮魂するかのように、夫はときどきこの曲を選ぶ。
 かつて、世界的ピアニスト鏑木壮太の師でもあった夫の指捌きは老齢にもかかわらず豪胆で、雄大だ。病気のことさえなければ、いまもなお現役で舞台に立ちつづけていたはずだ。
 人前でピアノを弾けなくなったわたしなんかと違って……
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