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monologue,3
唯一の愛を乞うシューベルト + 2 +
しおりを挟む東京本社で留守中に溜めていた仕事を確認し、軽井沢でできることは資料をパソコンのクラウドフォルダに入れ、それ以外の雑務を一通りこなした俺は、義父が車で来たとの報告を受け、慌てて会社を出た。
気まぐれな義父はこちらの都合を気にすることなく会食や取引の場に連れ回す迷惑な人間である。立花が「あとはお任せを」と言ってくれたこともあり、本日の業務は定時より三十分早く終わらせることとなった。
七月初旬の午後四時半。梅雨の晴れ間の夏の日差しがアスファルトを照り返し、むわっとした空気がスーツを湿らせる。軽井沢では感じることのない蒸し暑さに辟易しながら、俺は義父が待つ車に乗り込み、多賀宮詩と逢った。
義父によって連れられた高級ホテルのラウンジで、詩の父で多賀宮商事の現社長の多賀宮巌が俺たちと合流する。レストランバーにて会食の予約をしているとのことで、あれよあれよという間に俺は見合い同然の席に座らされた。
相手方の顔に泥を塗るわけにはいかないものの、騙し討ちのような義父のやり方に苛立ちも隠せずにいた。虫の居所が悪そうだね、という多賀宮の言葉に頷けば、義父の笑顔が面白いほどあからさまに引きつった。
そんな俺と義父の様子を不安そうに見つめる無垢な瞳。女子大出身で箱入り娘の彼女は同年代の異性と親しくなる機会もなかったのだろう、俺がこの見合いに賛同していないと知って、困惑している。彼女に罪はないのだが、俺には心に決めた相手がいる。だが、この場で暴露してしまうことで、ネメの立場が悪化することだけは避けなくてはならない。だからここでは意に沿わない見合いに不貞腐れていることにして、結婚そのものを嫌がっているふうに演じることにした。
「……いまの時代、二十六歳で結婚は早いって感じるのかねぇ。わしなんか二十歳で嫁と婚約したがね」
俺と義父のやりとりを面白そうに見つめていた多賀宮の言葉に娘も頷く。
「わたくしは、お父様がいいひとだと教えてくださったから……」
「逢ったこともないのに、いいひとだなんて買いかぶりすぎではありませんか?」
「礼文」
「まっすぐな息子さんですなぁ、章介さんよ。とても血の繋がりがないとは思えませんよ」
「そいつはどうも」
悪気がないのはわかっているが、義父と血の繋がりがない後妻の連れ子が子会社を任されているこの状況は相手方からすれば不思議なのだろう。あわよくば娘を送り込んで裏から操ってやろうとでも考えているのだろうか。だとしたらこの親父は相当な狸だ。
俺はそっけなく応えて、テーブルに並べられた食前酒をくいっと呷る。空きっ腹にアルコールはキツいが、飲まなければこの茶番のような見合いの席を切り抜けられないと割り切って、ビールも頼む。
そんな俺を見て、おずおずと「わたくしも、ビールを」と注文する詩。やめておけ、すでに顔が赤いじゃないかと咎めたくなったが、彼女はなぜか俺に張り合うようにぐびぐびと酒を飲んでいく。
前菜、魚料理と運ばれてくる食事をすすめながら、当たり障りのない会話をつづけていく。
「礼文くんは、ピアノ調律師の資格もお持ちなんですって? わたくしの家のピアノもみていただきたいわ」
「いえ、いまは調律師の仕事はお休みしておりまして……」
フリーランスの調律師の仕事は、義父の子会社を義姉から引き継いで以来、依頼を止めている。会社の仕事を優先しているいまは個人宅のピアノをみる余裕もないのだと返せば、詩は残念そうに顔を曇らせる。
「まあまあ。この先調律していただける機会があるかもしれない。それまでピアノの練習に励むがいい」
「はい、お父様」
社交辞令よろしく多賀宮が朗らかに返せば、詩もあっさり表情を戻し、微笑を向ける。
「実は、礼文さんに気に入っていただけるよう、わたくし、ピアノの練習をしてきたのです。後ほど、ロビーのグランドピアノで披露いたしますね」
そういえばホテルのエントランスから豪華なグランドピアノが見えた。利用客が自由に弾くことができるそのピアノで、彼女は俺のために弾いてくれるのだという。自信満々な彼女を前に、軽井沢に残してきたネメのことを思い出し、いまの彼女は都会の高級ホテルのロビーでグランドピアノを弾きこなすことができるだろうかと疑問が浮かぶ。
俺の花嫁になるとはつまりそういうことだ。会社ぐるみのパーティーでゲストにピアノの演奏を披露したり、総会や会見の場で多くのひとと外交的なつきあいに否応なくかかわらなくてはならなくなる。軽井沢で穏やかに隠居したいと思っている彼女を、もう一度華やかな舞台に俺は連れ出せるのだろうか。いや、その前にネメに俺との結婚を承諾してもらって、両親をはじめ会社関係者に認めてもらう方が先になるが……
黙り込んでしまった俺を見て、義父がにやりとほくそ笑む。
「詩さんは八年前にジュニアコンクールで入賞した経歴も持っている腕前の持ち主だぞ。礼文もきっと、気に入るはずだ」
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