蛇と桜と朱華色の恋

ささゆき細雪

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虹色の蝶が魅せた夢 + 1 +

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 ――雲桜を裏切った、愚かな紅雲の娘。

「まさか生きていたなんて……それも、裏緋寒として、竜頭さまの神嫁に選ばれるなんて」

 土地神の代理神の半神である里桜は、逆さ斎としてこの竜糸の神殿に入った。緑がかった瞳と月のひかりのような髪の色に、逆井の姓を持つ彼女を誰もが椎斎しいざいの人間だと信じている。
 だが、里桜が生まれ育ったのは雲桜だし、生まれた頃は髪の色も瞳の色も『雲』のなかではごくふつうの、じゃっかん紫がかった黒に近い烏羽色からすばいろだったのだ。
 生まれつき菫色の瞳を持っていた朱華とは違って。

「どうして竜糸なのよ。ほかにも集落はあるっていうのに。どうしてよりによって……」

 神は気まぐれな生き物だ。不滅の生命を抱く至高神は特に奔放で、息子たちである土地神の方が苦労をかけられているともいうが、そのなかでも神の代理をしている里桜からすれば、似たりよったりである。
 本質的に神とひとは異なるもの。気まぐれに雲桜を滅ぼす原因をつくった少女を神嫁にしようとすることくらい、どうってことないのだろう。それでも里桜が受けた精神的な苦痛は大きい。危うく逆さ斎になる際に身体のなかへ閉じ込めた闇鬼が飛び出してしまうところだった。

「里桜さま。落ち着かれましたか?」

 扉を叩く音とともに、心配顔の颯月が飛び込んでくる。

「大丈夫よ」

 朱華との対面時に興奮した里桜を宥めてくれたのは、颯月が起こした風だった。過去の苦しみや憎しみを代理神の役についている自分が口にしたのを危ぶんで、瘴気を払ってくれたのだ。

「ごめんなさい、我を失うところだったわ」
「お役に立てたのなら、よかったです」

 朱華との因縁を目の当たりにした桜月夜の三人の反応はまちまちだった。興奮した里桜を諫めるため風を起こした颯月に、いまにも崩れ落ちそうだった朱華のもとへ駆け込んだ星河、そして「話が違う」と怒りのあまり雷を鳴らし朱華を放って飛び出してしまった夜澄……
 怒りたいのは自分のほうなのに。里桜は勢いで口にしてしまった言葉を反芻し、溜め息をつく。

「生贄」
「え?」
「朱華ちゃんを生贄にしちゃうんですか?」

 物思いにふけっていた里桜を引き戻したのは颯月が口にした「生贄」という単語だった。
 そう、あのとき確かに自分は彼女に殺意を抱いた。

 ――憎い、悔しい、妬ましい。

 闇鬼を動かすだけの負の感情が、ちらりと顔をのぞかせていたから、口走ってしまった。
 竜頭に認められなければ生贄にする。そうすれば、花嫁がいなくても竜頭は竜糸の地にしばらくのあいだはいてくれる。また眠りにつくことがあれば、そのときに新しい花嫁を探し出せばいい、それだけのことだから、と。

「ええ……いいえ」

 でも、神の花嫁として認められるだけのちからと、竜頭に気に入られる器量があるのなら、彼女を生贄にする必要はない。

「そうならなければいいだけのことよ」

 自分にできるのは竜頭をともに呼び、竜糸の結界を元に戻して幽鬼を討つことだけ。
 竜頭の花嫁になる資格など、逆さ斎となった自分にはないのだ。

「……無理しないでくださいね」

 颯月は疲れ切った表情の里桜に、そっと笑いかける。桜月夜の三人のなかで、彼はいちばん年少で、里桜と同い年だから、ふたりきりのときは堅苦しい会話がなくなる。

「ありがとう」
「ボク、朱華ちゃんがちゃんと竜頭さまの花嫁に認められるよう、しっかり補佐しますから」

 里桜に感謝された颯月は嬉しそうに応える。けれどその発言は、里桜の琴線を揺さぶるもの。

「……そ、そうね。頼むわ」

 竜神の花嫁に。
 ――なれるものなら、自分がなりたい。

 けれどそれを望んだら、自分はあの闇鬼に堕ちた巫女と同じ道を辿ってしまうだろう。だから里桜はその願望を押し殺す。いっそのこと、朱華を殺したらすっきりするのだろうか。いや、すっきりすることなどありえない。彼女が無意識に茜桜のちからを巻きこんで禁術をつかって故郷を滅亡させてしまった事実は消えないし、朱華が死んだら別の裏緋寒の乙女が竜頭に嫁いでくるだけのことだ。
 里桜に頼まれた颯月は風のように自分の前から去って行く。もし、彼にこのことを願ったら、彼はどんな表情をするだろう?
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